17.小さくて可愛い
 線香の煙のように細長く尾を引く、金属のひんやりとした音が畳の部屋に余韻を残した。
 手を合わせる。
 
 1番最初にこの香りを嗅いだのは冬のあの雨の日だ。
 夜遅く濡れ鼠になって商店街を歩いていた時、俺の足を柴崎書店へ導いた。どうしてあの時、お香の匂いを感じたのか本当のところは分からない。勘違いかもしれない。
 
 2度目は試験の当日の朝。この香りが結城さんの髪に染み付いていたから、ああそうなのかなと思った。

 俺の試験の数日前に、モモは旅立ったそうだ。

「あの時、ちゃんと返事出来なくてごめんね。」

 手を合わせて正座する横に、結城さんも座る。

「その何日か前から本当は分かってたんだ。
 もう、お別れかなって。」

 モモを抱いて、最後に近所を一回りした日のことを、結城さんは静かに話してくれた。
 
 家ネコだから、通院以外ではこの家からほとんど出ない。それがモモにとっての幸せだって、外で感染したり事故に遭ったりしたら大変だから、家にいる事がモモの幸せなんだって、分かってたけど。

「僕、分からなくてなっちゃって。」

 モモはどうしたら幸せなのか。
 事故に遭わないとか、病気にならないとか、それは大事だけど、モモはもしかしたら少しくらい怪我をしてもいいから、本当は、お日様を浴びて、外の広い世界で自由に走りたかったんじゃないかなって。
 
 草の匂いとか、花の匂いとか、手触りとか、
 何も知らないで死んじゃうのかなと思ったら……。すごく、そんなのは嫌だって思っちゃって。
 
 モモの幸せのためだって家から出さないのは、人間の価値観なのかな。でも、怪我も病気も、苦しむのはモモだから、飼い主として無駄に辛い思いをさせちゃいけない。
 どっちをとっても全部こっちの勝手な都合に思えて、何が正しいのか、本当に分からなくなっちゃって。自信がなくなっちゃって。

「結局、外に行くことにした。
 やめた方がよかったのかもしれないけど、
 抱っこして、少しだけ散歩した。」
 
 暖かくて、気持ちのいい日で、桃の木があって。

「モモ、桃の木だよって。」

 あれが、あの写真だ。

「帰ったらモモ疲れててさ。寝ちゃって。
 そのまま朝まで寝てて、一回起きたんだよ。
 最後に僕に何か言ってた。それで、また目を閉じて。
 それで、そのまま。」

 杉本が俺のスマホを覗いて、それは桃の木じゃないかと言った日。俺が、杉本の彼女と初めて会って会話した日だ。俺が、結城さんに、「会いたいです」と送ったその日。丸一日、音信が途絶えたのはそのせいだった。

「苦しくなかったと思うよ。」

「……そうだったんですね。」

「僕も会いたかった。律ちゃんに。
 モモが息を引き取った日に、
 律ちゃんから突然、会いたいって言ってくれて、
 その一言がすごくすごく、なんていうか、助けられた。
 なのにちゃんと返事出来なくてごめんね。
 モモのことちゃんと言えなくて、
 言うのが遅くなってごめんね。」

 黙っていたのは隠してた訳じゃない。俺が試験に集中出来るように、心を乱さないように、伝えるのを遅らせてくれただけだ。
 だけどその分、結城さんは1人でモモの死に向き合わなければならなかった。置いて行かれた寂しさをよそに、試験当日の朝、笑顔で俺を見送りに来てくれた。励ましてくれた。どれだけ勇気が出たか、力が沸いたか。どれだけ嬉しかったか。
 けれど、俺が結城さんの髪に鼻を埋めてその存在を噛み締めているその時にも、結城さんは1人で悲しみと闘っていたのだ。
 
 そして今日まで1人でモモの死を悼んできた。
 
 試験から1週間。今日は合格発表の日だった。
 約束通りその報告をしに、柴崎書店に来たのだ。

「合格おめでとう律ちゃん。4月から高校生だね。」
 
 結城さんは泣いてない。
 そのかわり少しやつれて、一層綺麗に見えた。

 俺は、一つも実感が湧かなかった。
 結城さんの髪のお線香の匂いに気付いた時から、なんとなく覚悟はしてきたのだけど、けどこうしてここに来て本当にモモが旅立ったことを知っても、そして結城さんの話を聞いてみても、「モモの死」を脳がうまく理解してくれない。受け入れるのを拒否している。
 心の温度計が全く動かず、麻痺してしまったようになって、結城さんに慰めの言葉もかけられず、ただモモのために誂えられた可愛らしい仏壇をなんとなし眺めた。

 仏壇は2階の部屋に造られた。
 2階は結城さんが寝室として使っている。狭く急な階段を登って初めて入らせてもらった。

 結城さんの寝室は、物があまりない。
 下の店舗や、キッチンとリビングになっている部屋は、食生活のための雑多なものがこまごまと置かれている。それにソファやマットや掛け物などの柄で、少しは目に賑やかに映る。
 寝室はその温度を一切許さない厳しい空気に満ちていた。鎮まりかえった無味な空間に足を踏み入れた途端、結城さんの翳と孤独の深さを垣間見た気がして、俺はぞっとした。
 
 そんな中、誂えられたモモの仏壇のスペースだけが、日に当たって心が和んだ。
 カラフルな可愛い花、モモの写真、いつもの容れ物に入った水、モモの好きなフード。よく遊んだおもちゃ。

 今にも、遊びに来そうなのにな。
 
 日当たりの良い窓辺にそれは造られて、小さいながらも明るくてほのぼのしている。まるでモモがそこでお昼寝でもしているようだ。けれど、高貴な祈りの気配と死に対する真摯な姿勢が少なからずあって、決して冒涜してはいけない領域として、見えない壁があるようだった。
 
 本当に居ないのかな。
 その辺に隠れているんじゃないか。
 
 死んだってのは、嘘なんじゃないの。
 
 涙さえ出てこない俺は、そんな独り言を頭の中でぐるぐると繰り返す。現実を受け入れまいとする心の矛盾を、ただ何度も辿った。

 白地の遺骨袋は、ごく薄いピンク色の糸の刺繍で控えめな模様が入っていて、桃色のふさ紐が巾着の口を丁寧に結んでいる。
 じーちゃんの葬式を思い起こせば、「死」「葬式」はもっと厳つくて、宗教的で、怖いイメージがあった。
 けど猫の仏壇となると、こんなに可愛いんだなと思った。平和で、幸せなものだけを想起させるように造られている。
 
 可愛くて、愛されている。骨壷。
 この中にモモが別の姿になって入っている……。

「小さい……。」

 と口にのぼせた途端、涙が溢れた。

 小さい。小さい骨壷。可愛い骨壷。
 
 もう触れない。
 あの大きいお腹に触れない。
 ふかふかの顎にも、するりと足元を通る尻尾にも。
 人のように話すあの小さい声も、2度と聞けない。
 
 モモはこんなに小さくなってしまった。
 こんなに小さい容れ物に入るくらいに、
 こんなに可愛く、こんなに小さく。

「あ、……俺……、結城さん、俺、もっと優しくしてあげたかった。もっと撫でたかった、触りたかった。
 触ればよかった……。」
 
 出会った時からもう既に体調を崩し気味だったから、むやみに触らない方がいいかなと思って。
 けど、やっぱりもう少し触れたかった。
 だってこの指に、モモの温もりはもう残ってない。最後に触れたのがいつか思い出せない。

「モモはちゃんと俺のこと、分かってたんですかね。
 俺のこと、少しでも好きだったかな。」

 モモの手触りがどうだったか、確かな存在感を、この手が覚えていない。