16.朝霧と春光
 自分なりに気持ちをストレートに伝えたつもりの一言には既読がついたきり、24時間以上音沙汰がなかった。
 
 あの日、電車の中でメッセージを送り、帰宅してからはスマホをリビングに預けていた事もあって、さほど気にならなかった。
 でも朝になってもモモ通信が来なかったのは初めてのことで、困らせたかなという思いと、どうして上辺だけでも返事をくれないんだという気持ちで、複雑になった。

 翌日からはモモ通信が復活した。
 いつも通りのモモと結城さんの、のどかな写真。途絶えたのは「会いたい」と送った翌日その一日だけで、そのあとは何事もなく、平凡な写真がまた1日一枚送られるようになった。

 少しだけ咎める文面も考えた。
 
 返事をください。
 どうして、何も言ってくれないんですか。
 会いたいと言った俺の気持ちを、せめて無視しないでください。
 
 けど、会わないと勝手に決めたのは俺なんだから、そんな事を言う資格がないのは分かっていたし、本番数日前に心が乱れるのも嫌だったので、送らなかった。

 ――そしていよいよ、前日になった。
 その日も結城さんからいつも通りの写真が届く。
 俺はいつも通りそれを眺めていたが、ふと、結城さんの服装が昨日と同じことに気がついた。人と会わなければ、そして汚れなければ、昨日と同じ服を選ぶことくらいあるだろう。
 けれど、もしかして、モモの体調が悪くて、忙しくしていて、それで着替える余裕がなかったのかもしれない。
 返信がなかったのも、きっとそうだ。モモの事がなかったとしても、誰だってバタバタしていてスマホに触れないことだってあるはずだ。
 
 俺は、全てを俺中心で考えていたと気がついて恥ずかしくなった。
 
 結城さんには結城さんの生活が当たり前だけどあって、その中の一部に俺が居させてもらっているに過ぎない。
 老猫と生活しているんだから、返信ができないことだってあるだろう。そもそも、俺こそ結城さんの「モモ通信」には返信をしていない。会話のラリーが続くとキリがないからと言い訳をするくせに、いざ自分の時にたった1日返信がなかったくらいでモヤモヤするのは違うな、と反省した。

「あったかくして寝なさいね。」
 母はただ短くそう告げて、いつも通りにしてくれた。
 俺はリビングで、やはり毎日のルーティン通り、スマホを充電コードに繋げて、自分の部屋に戻った。
 
 受験票、筆記用具、時計。
 持ち物の確認をする。
 目覚まし時計のアラーム、上着。

 やるしかない。
 いつだって、頼れるのは自分1人だ。やるしかない。

 朝はいつもの学校の日と同じ時間に起きた。
 そして同じ時間に家を出る。試験会場の野山高校へ向かうにも、いつもと同じ時間の電車に乗るからだ。

 道路がよく乾いていて空気はピンと澄んで痛いほどだった。よく晴れた日の朝は寒い。
 同じ道、同じ景色。
 受験当日だなんて思えないほど、静かな朝、静かな景色だった。
 
 まだ寝ているような駅前の商店街。
 脇道を逸れたところにある柴崎書店を目で追う。
 毎日目にしている。会えなくてもその度に心の中で会っていた。
 
 初めて出会ったのは11月の寒い雨の日だった。
 多分最初からそうだった。最初から好きだった。
 
 俺は結城さんが好きだ。

 父が言っていた。どんな経験でも勉強に出来る。
 たとえ指先を掠める風が冷たくても、どこか心の隙間に風がふきこんでも、好きという気持ちで自分をあっためて、今日という大事な1日を精一杯を乗り越えよう。
 それも経験だ。

 そう、覚悟をした時だった。

 こちらに向かって手を振る人がいる。
 改札に向かう駅の階段。
 小さな駅舎の柱は木造で、ペンキが少し剥がれている。

 会いたかった人がいる。
 いるはずのない人がいる。
 
「律ちゃん!おはよう!」

 その細く白い指の先に、何か小さな赤いものを持っている。俺は走りながら、それが合格祈願のお守りだと分かった。

 光が一気に視界を開く。
 放射冷却により発生した朝霧が、細かな粒子となって春光をまぶしく跳ね返している。
 二つの足を存分に跳躍させれば、身体も軽い。
 その一歩にかかる距離がじれったく、わずかな刻さえ惜しんで、空に飛び上がるように走った。
 
 勢いのそのままぶつかりながらその人を抱き込むと、小さな体は後方にのけぞり、危うく倒れかけたのを背中から腕を回してその腰を支える。
 
「会わないつもりだったのに、来ちゃった。お守り渡したくて。」
 
 両手両足使ってもまだ足りないほどに、腕の中に隙間なく閉じ込めた。柔らかな髪に鼻先を埋めると、甘く安心する匂い。
 それらを余す事なく存分に吸い込み、肺を満たす。
 出来る、絶対出来る、と力が湧いた。

「今日、頑張ってきてね。」

 どんな言葉より、誰からもらう言葉より、
 結城さんから聞きたかったその一言。
 まさか、来てくれるなんて。

「俺のこと、待ってて下さい。」

「うん?」

 腕の中で結城さんは聞き返す。

「合格したら、真っ先に結城さんに知らせに行きます。合格発表の日、店開けて俺のこと待ってて下さい。」

「うん……。待ってるよ。」

 その時、吸い込んだ朝の空気と共に胸に満ちたのは、結城さんの匂いと、もう一つの別の残り香。それを感じて俺はほんの少しだけ動きを止めた。
 けれどすぐ、結城さんを囲い込んだ腕を解いてそっと肩に触れ、「行ってきます」と真っ直ぐ告げた。