15.あと少し
 朝の日課はモモ通信。しかし毎日続くと、新鮮味がどうしても失せて、自分から頼んだことなのに、悪いなと思いながらも時には流し見してしまっていた。
 
 ある日、画像と一緒に、珍しく結城さんのコメントがついていた。
 
『昨日暖かかったので、少しだけ散歩。』
 そうコメントが添えられた画像は、
 結城さんの手に抱え込まれたモモの前足と、陽が当たって暖かそうな木の枝が映っていた。日差しと影のコントラストが濃く、確かに昨日はよく晴れていたなと思った。
 つぼみに少し色がつき始めている。
 ふっくらとして濃いピンク。桜ではない。

「もも?」

 後ろから覗き込んだ杉本が言う。

「なんでお前が知ってるんだよ。」
「え、俺んちにもあるから。」
「何が?」
「桃の木。」
「モモのき。あ、桃の木?桃なの?これ」
 もう一度画像を杉本に見せる。
「多分。何これ誰?進堂んちって猫飼ってたっけ?」
「……いや、俺じゃなくて。」

 モモと桃の木。

「フフッ」

 結城さんの可愛らしい駄洒落かな。

「進堂、やっぱお前さー。」
 と杉本が言う。
 
 学校の帰り道。
 今週は塾がない。直前だからだ。
 杉本の志望校である私立湯浅学院は、県立校の日程とは少しずれるが近い日にちで行われる。
 
 諦めなのか、悟りなのか分からない、妙な落ち着いた空気が周囲の受験生の中に漂っている。
 模試の結果にソワソワしたり、落ち込んだり、という時期を超えて、静かに覚悟を決めて、この先の運命を受け止めようとする静かな決意。

 杉本と俺の間にも似たような空気感があった。
 やっぱお前さ、と言って言葉を区切った杉本は、少し考えてからこう続けた。

「好きな人できたろ。」
「そうかも。」
 えっ!と杉本が驚く。

「誰?」
「……また今度教える。」
「ほほぉ〜。」
 と頷く杉本。

「なんで分かった?」
「いや、なんとなく。さっきもスマホ見てニヤニヤしてたから、やっぱそうかと思って。」

 そう言う杉本は、他校の例の彼女とこれから駅で待ち合わせているらしく、このあと少しだけ紹介してくれるらしい。

「ねえ誰?どこのやつ?」
「最近はずっと会ってない。」

 言葉にするとなおさら心の中がすかすかする。

「会ってない?あ、じゃあ他校か。なんで?喧嘩?」
「じゃなくて、受験に専念するために。終わったら会いに行く。」
「偉すぎかよ〜。よく我慢できんね。」

 そんなんじゃないよ、と軽く笑って答えた。

 今結城さんに会えば、この緊張感が全部解けて無くなってしまう。杉本みたいに、少しの時間でも彼女と会って、それが終われば、家や学校ではきっちり受験生として切り替えられるような器用さがないだけだ。

「お、いた。アレ。」

 駅前のコンビニのベンチに、パーカーにチェックのスカートの女子がいた。髪は眉と肩の上でそれぞれ定規で測ったように横一直線に切り揃えられて、耳にイヤホンを入れている。

 こちらに気がついて、照れくさそうに軽く手を振る。
 俺は目があって、会釈した。向こうも同じように無言で会釈した。

 至近距離まで来て気がついた。
 控えめな仕草と挨拶とは裏腹に、なかなかの印象派だ。直線的なおかっぱ頭の、黒髪すだれの隙間から、元気の良いピンク色の髪が、隠せない好奇心のようにチラチラとこちらを覗いている。

「彼女の、由美」
「進堂君?はじめまして。由美です。」

 声のトーンがしっかりしていて、浮ついていない。目線が定まっている。

「進堂です。」
「杉本が残念がってましたよ。進堂君が湯浅に来ないって。」

 杉本の彼女は声がやや低く、意志が強そうなはっきりした黒い目をしている。だが派手な髪色とミスマッチかというとそうではない。芯のある自由さが、杉本とよく似ていると思った。

「おい、言うなよ。」
「照れてんな?あ、進堂君はどこ受けるんですか?」
「野山です。ギリギリかもですけど。」
「そっか!頑張ってね。」
「由美さんは?」
「あたし?」

 由美さんは、杉本と目を合わせる。

「ああいや、あたし高1。うそ、若く見えた?」

 あはは、と快活に笑う。

「あ、そうなんですか。すいません。」
 そう言えばさっき、俺のことを、湯浅に「来ない」……。

「もしかして湯浅ですか?」
「そーです。」
 ブイ、とピースサインを目の前に出して笑う。
「湯浅の芸術科。勉強キビシーけど、楽しいよ。」
 進堂君も来なよ。と言うが、
「いやあ、さすがに点数がキビシーっす。」
 
 と曖昧に笑って誤魔化すと、
 杉本が「由美」とその袖をつついた。

「進堂は、野山って決めたんだ。
 もう願書も出したし。そういうのは、もう……な。」
「ああ……そっか、そうだよね。
 ごめんね、今大事な時期なのに、変なこと言って。」
「あ、いえ、全然。」
「うん、でも……そっか、野山か。
 なんか分かるかも。しっかりしてそうだもんね。知り合いにも野山行った子何人かいるけど、雰囲気似てる気がする。そう、こんな感じだった。
 進堂君、すごく野山っぽい。」
「ええ?野山っぽいですか?それどんなんですか?」
 一応茶化してみせるが、そう言われて嫌な気はしない。
「受かりそうってことでいいですか?」
「当たり前だろ!」
 と杉本が肩を叩く。
「絶対受かろうな!」
 嬉しかった。
 杉本も、その彼女の由美さんも、すごくいい奴だ。

 そして由美さんは、杉本にもあげたんだけど、と合格祈願と書かれたお守りをくれた。
「え、ありがとうございます。いいんですか貰って。」
「カバンにでもつけてやって。杉本とオソロだから。」
「オソロっすかぁ……。」
「ご利益倍増だから。」
 と杉本が言うので、マジでそうかもしれないと思った。 

 由美さんは元気に手を振ってから、バスに乗りこんだ。
 杉本は反対のホームに行った。
 俺は、地元方面のホームに。



 帰りの電車の中は人がまばらだった。
 シートにかけてお守りを見る。
 ありがたいと思った。
 杉本が由美さんと少し会わせたいと言ったのは、多分これを渡すためだ。由美さんが、俺のことも激励したいと。そしてそう由美さんが思ったのは、杉本が俺のことを話したからだろう。
 同じクラスの奴で、同じ塾に行ってて。友達にそういうヤツがいてさ。と。
 じゃあ、その子も受かるように祈らないとね。とか。

 車輪がレールの切れ目を跨ぐ乾いた音が、断続的に響く。その単調で投げやりな音は、耳の空白を埋めてくれるというよりは、胸の中の虚しさをとてつもなく際立たせた。
 夕陽が車窓に照り付けて反射し、眼を刺す。
 その光を吸い込むようにして深呼吸すると、その眩しさに涙が滲む。誤魔化すようにして上を向き、眼を閉じる。

 スマホを出して、打つ。

 『モモと桃の木、いいですね』

 そしてすぐに削除した。
『結城さんは』と書いては消し、『俺は』と書いては消した。
 しばらく迷ってから、

『会いたいです。』

 とだけ打って、送信をタップする。そして逃げるようにしてスマホをしまう。
 
 本番まで後1週間。
 あと少し、あと少し、と自分に何度も言い聞かせた。