14.律のピンチ
 胸の中に液体の鉛でも溜まったのかと思う。
 横隔膜が深く沈んで、息が出来ない。
 
「この時期は結果が変動するから。」
「いちいち左右されなくていい。」
 そう理論的に励ましてくれる塾の担任の言葉も、今はただ上滑りして耳に入ってこない。
 母が静かに聞く。
「願書の締切日には、まだ余裕ありますよね。」
「……ありますが、変えられますか?」
 
 志望校を変える。
 
 考えもしなかった。
 まさか。
 野山なんか、余裕だと思っていた。
 実力は足りてる、あとは本番にそれを発揮するだけと。

 発揮、したつもりだったのに。
 
「えっと、B判定というのは、つまり、どのくらいの可能性があるんでしょうか。」
 と母が聞く。
「比較的高いと言えます。合格割合としては60パーセント。過去に君と同じ程度の成績で同じ志望校を受けた生徒の、約6割が合格している、という意味です。」
 
 そう言われても、この結果を「やった!6割は受かる!」と喜べる人間はいないだろう。自分があとの4割側でないという保証がどこにあるのか。
 
「どうしたらいいですか?変えたほうがいいですか?」
「……ご家庭でよく話し合ってください。どんな選択をしても、当校としては律くんを全力で応援していきますから。」
 
 いつもなら、俺の実力や努力について触れて、強く励ましてくれていた講師だが、今日はどこか歯切れが悪く、断的的な言い方を避けているようだった。


 
「変えたほうがいいんじゃないかと、お母さんは思うわ。」
 
 リビングで、模試の結果票を挟み、父母の2人と向かい合わせに座る。
 
「野山だけに拘る必要は無い。高校生活なんか長い人生のうちのたった3年だもの。わざわざリスクを犯さなくていいと思う。」

 それは確かにそうだ。
 けど、だけど……、と言葉にならない心の中を懸命に探し、伝えるべき気持ちを見つけようとするが、見えてこない。

「どんな場所に行ったって、律が律として人生歩いて行くことには変わりないんだから。野山じゃなきゃいけないって事はないんでしょう。野山でしか出来ないことがあって、どうしても、っていうわけじゃないんなら。」

 ね、考え直してみたら。とあくまで諭す母。
 腕組みをして考え込む父。
 俺はすぐには答えを出せなかった。

 俺の母は、父と同様フルタイムの正社員として夜まで働いている。
 俺と姉は、小学校の低学年までは学童で、中学年以降は習い事に通ったり、近所の個人塾に寄ったりして放課後フラフラと過ごしていた。
 高学年になれば1人で電車に乗り、隣の大きな街の進学塾にも1人で行けるようになったが、それでも放課後は子供だけで過ごす時間が多かった。
 
 寂しいとは思わなかった。
 鍵の使い方、不審者から身を守る術、安全に家で過ごすルール。火や刃物には絶対に触らない事。
 人の家に行く時の礼儀作法。必ず差し入れを忘れずに。飲み物は自分の家から持っていく。その家の保護者がいなければ、いくら友達が来てねと言っても、お邪魔してはいけない。
 電話がかかってきた時の対応。
 来客には居留守を使う事……。
 
 そのどれも、そばにいられない親が、子供の身を守るために、出来るならその手でしてやりたい事を、仕方なく自らさせるために、その必要性があって教えてくれたものだ。
 全て親任せ、人任せの人間になってはいけない、と親はよく言っていたが、半分は自立を願う親の本心であり、半分は、そうやって我が子を仕込まなければ家が回らなかったからだろうと思う。
 
 それでも寂しい思いをしなかったのは、親の不在の間も、親の気持ちを感じられたからだ。
 暑い日には、俺たち2人分の着替えとシャワーの用意をしてから仕事に行っていた。学校から帰ったら、すぐに体を冷やせるように。
 シャワーの扱い方、洗濯機の回し方。エアコンの操作。
 そして寒い日には、暖かく過ごせるように。
 
 そして何より大事な事は腹が減らない事。
 いつもオヤツはたくさん用意されていた。お気に入りは手作りオヤツ。休みの日に仕込んだ手作りの焼き菓子を、小分けにして冷凍保存していた母が、「お腹がすいたらここにあるから」と、俺たちがせめて侘しくないよう、冷凍庫のものの温め方を教えてくれた。
 
 もちろん、既製品の冷凍の焼きおにぎりやたこ焼きなどもあった。手作りでなくても、親が俺たちのお腹を満たすために用意してくれたという事実だけで、十分に嬉しかった。肉まんが常備される時期は、姉と2人で奪い合った事さえ、いい思い出である。

 多分、全く寂しくない、わけではなかったと思う。正直に言えば。
 薄暗い家に帰るのは、やはり心細く、哀しい。
 それでも家の中、随所に、気遣いと愛情が感じられる。その存在の残り香に励まされた。
 お母さんは今は居ないけど、居ない間に寂しくないように考えてくれている。居ない間に、仕事を頑張っている。それが、心の励みだった。
 
 親は親で精一杯毎日必死に生きている。その後ろ姿を親は隠さなかった。だからなのか、俺も自然と毎日頑張ろうと思えて、その結果俺は中学受験をし、高校も御三家のどこかを目指せる学力を身につけることが出来た。
 
 今の自分があるのは、親のおかげだ。直接手をかけられなくとも伝えられる愛情があるのだと、下手くそでも精一杯生きる事そのものが、人の背中を押すことがあるのだと、その事実の先に今の俺がいる。

 けれど、それでも、
 やはり俺は、親に反発してでも野山を諦めたくないと強く思った。志望校を変えるかどうかの瀬戸際に来て、ようやく心からそう思えた。遅いくらいで情けないが、俺の気持ちは野山一択。そこで何をするかなんか決めてない。
 
 ただ行きたいだけ。けどそれじゃ納得しないだろう。
 だから、言葉に詰まって、考え込んでいる。

 ただ行きたいだけ、というのが、目標も目的もない、思考放棄の結果だと思われたくない。
 どう伝えたらいいのか。
 そう考えあぐねていると、それまで腕組みをして黙り込んでいた父が口を開いた。

「……教育って、なんだろう。なんだと思う。」

 俺に聞くでも母に問うでもない、独り言のようにも聞こえた。

「何言ってんの、そんな抽象的な話を今しても仕方ないじゃない。」
「いや、」
 と父は手で制する。

「抽象的?違うね、具体的で、大事なことだ。志望校をどうするかっていうのは、この先何がしたいかってことだろう。律にとって教育、勉強ってなんだ。
 何をするのが律にとっての勉強になる?」

 何をするのが教育か。何をするのが勉強か。
 そんなの分からない。分からないけど……。

「扉を開けるみたいに。」
 自然と口が開いた。
 
 春の暖かい日に、或いは雨の降る寒い日に、
 俺は新しい扉を開けた。
 進学塾の入り口。藤山附属の教室。
 古びた本屋。
 その先で出会った人は、俺の大事な人になった。
 
「知らない世界を見て、知って、その世界のことをもっと知りたくなって、どんどん深めて行くこと。」

 自分で言って、何が自分の本心なのかを掴めそうな気がした。「ただ行きたいだけ」という気持ちのもっと奥にある、一番大事なもの。

「父さんもそう思う。勉強は、新しい世界を教えてくれる。けど、こうも思う。つまり、新しい世界を教えてくれる事は、どんなことでも勉強になる。その気があれば。」

 リビングが、しん、と静まる。
 寒いわけでもないのに、少しだけ身震いする。

「父さんはね、若いうちにたくさん失敗したらいいと思う。母さんは、優しいから、律があんまり辛い道を歩かなければいいなって思うから、だからつい、志望校変えるのもアリじゃないかって、そう言ってるだけだ。
 決して、律に力が足りないとか信じてないとかじゃなくて、なんていうのかな。」

 そこで父は言葉を区切り、少し間を置いて思案した。
 
「……親っていうのは、なるべく子供に辛い思いをさせないで置きたいって言う、そういうシステムに動かされてしまう事が、時々あるんだよ。
 
 それは、親自身にはどうすることもできない、親としてのある種の本能みたいなもので、必要な機能なんだ。だって、それがなければ、か弱い赤ちゃんを四六時中世話して育て上げる事は出来ないからね。」

「そのシステムをね、無視すると警告が出るんだ、心の中に。子供が危険だ、早く助けろ、って。
 母さんも父さんもいつも帰りが遅くて、その分苦労をかけた。……律はしっかりしてるから、ちゃんとやってくれてたけど、本当は母さんは心配で心配で堪らなかったと思うよ。留守の間に、元気で過ごせているか。変な人に連れ去られてないか。家の中で、階段から落ちたりして怪我してないか。
 母さんは、……父さんもだけど……、そして仕事をすると決めたのは大人の都合だから律は責任を感じたりしないで欲しいんだけど、僕たちはね、律。子供を危険な目に合わせないための、さっき言った『親としての防御システム」』の警告音を、ずっとずっと無視する事しかできなかった。
 聞こえてはいたんだ。けど、物理的にすぐ駆けつけられる距離にはいなかった。その代わり、君に逞しく生きる術を教えたつもりだ。
 君は賢いから、いつのまにか父さんの中からは、システムの警告音が鳴る回数が減った。しっかりしてきたな、と思ったんだ。」

 俺は泣いた。泣いていた。母も泣いている。
 何も、誰も、言えなかった。

「今、母さんの中にも父さんの中にも、、
 律のピンチだ!って、心の中がゾワゾワするような警告音が鳴ってるんだ。
 B判定だって?やばい!志望校変えよう!安全圏で行け!ってね。」

 父は、自分の両膝をポンと軽く叩いた。
 そして母に向かって言った。

「母さん、ここは無視しても大丈夫じゃないか?」

「……そうなの……?かな。そう思う?」

「さっき言ったろ、新しい事を教えてくれる事はどんな事でも勉強になるって。
 新しい事って、第一志望に受かることもそうだけど、受からない経験も律にとっては新しいことじゃないかな。
 受験だけじゃない。
 律にとっては全てが、何もかもが新しい経験だ。
 
 その全部を律なら自分の成長に変えてくれると、父さんは思うから、だから今聴こえる『律のピンチのアラーム』は、あえて無視したらいいと思う。」

 これが、父さんの考え。
 とはにかんだ。

「もちろん、落ちていいなんて思わない。
 けど、やりたいなら全力でぶつかってみたらいい。」

 分かった。俺の本心。
 新しい扉の先に。どんな結果でも、経験になる。

「母さん。俺、挑戦したい。どうしても、野山に行きたい。」

 母の目は、穏やかだが、半分諦めたような複雑な色をしていた。
 『律のピンチ防御システム』と言う言い方をされると、少し愉快だけれど、一方でこうも思う。
 親って、偉大なんだか、かわいそうなのか、分からないな。そんな難儀な本能に支配されて生きる生き物だとは。それは、この先も一生続くんだろうか?

 迷うような表情の母に、俺はさらに言い募った。
「全力で挑戦してダメだったら、全力で挑戦したって経験値を手に入れてその後生きていける。けど安全圏を狙って手抜きしたら、合格はしても、手抜きしたって経験が身についてしまう。それは嫌だ。」

「……おお。律の言う事がすごい。大人みたいだ。」
 父が控えめに笑う。
 
「ダメかな。」

 母は、少しだけ、息継ぎをするようにため息をついてから

「ダメなんて言えないでしょ。分かったよ。」

 と言った。