13.顔が見たくて
 一月の下旬。
 結城さんの所へ行かなくなって、3週間ほど経つ。
 模試もあったし、正月にあんな風に飛び出してきてしまったから、本当は行きたいのに、なんとなく向き合えなくて足が遠のいた。

 親とはリビングで使う約束でスマホを持たせてもらっている。俺はその夜、特別に頼んで、30分だけスマホを部屋に持ち込むことを許された。
 
 パタン、とドアを閉めて、暗い部屋でベッドに座る。スマホのメッセージアプリを開くと、手元がぼうっと光った。
 
 先月連絡先を交換して、それきりメッセージを送り合うこともなく今も過ごしている。
 今まで週に何度かは結城さんに会っていたし、あえてやりとりする事はなかった。けれど今、その必要があると感じていた。
 
 2月いっぱいは合わない。
 3月になっても、合格発表までは行かない。
 そう決めたなら。
 この1ヶ月半、死ぬ気でやるなら。
 だったらなおさら結城さんにはきちんと連絡をするべきだと思った。

 なぜなら、本番までどう俺が過ごすと決めたか、それは俺の中だけで完結した話であって、結城さんには何も伝わっていないのだ。俺だけが「会わないぞ」と盛り上がって頑張ったところで、結城さんが来なくなった事を心配して心細くなるのは本望ではない。
 そこはきちんと伝えたい。
 それに、モモの体調も気になる。

 指で画面をなぞる。
『結城さんこんばんは。律です。』
 ……次に続く文章を考えている時、つい、

「あっ。」
 
 しまった。文章を全部書いてから、まとめて送信しようと思ったのに。指が滑って「送信」に触れた。
 慌てず送信取り消しを操作、と思っていると、ふっと既読マークが浮かんでしまった。
 それだけで俺の心臓は一気に跳ね上がった。
 
 読んだの?
 
 今、結城さんは、俺のメッセージをリアルタイムで読んでいるんだ。スマホを手に互いのことを考えるという時間を共有している。その事がどうしようもなく嬉しくて、恥ずかしくて、浮かれた。
 やはり、スマホは受験の天敵だ。時間を決めるルールを設けてくれた親には感謝しかない。こんな一言のやり取りだけで舞い上がってしまうなら、強制的に取り上げてもらわないと収拾がつかない。
 
 少しだけ震える指先でメッセージを書こうと、何度か消したりして迷っている間に、結城さんから返しが届く。

『こんばんは。結城です。
 律ちゃん元気?』

 俺はごちゃごちゃ考えるのをやめて、
 自然な会話になるように続けた。

『元気です。結城さんとモモは元気ですか?』

『寒くて、この前モモが少し風邪をひきました。
 でも今は治りました。
 僕は大丈夫。
 律ちゃんも、風邪、ひかないようにね。』

 ああ。
 ……会いたいなあ。
 会って、顔を見て喋りたい。ちゃんと大丈夫なのか、これじゃわからない。

『ずっと行けてなかったので、会いたいです。』

 気持ちのまま送ると、一度会話が止まった。
 困らせたのかな。

『模試が最近、連続でありました。
 またすぐにあります。
 行きたいけど、なかなか行けないです。』

『もうすぐ本番だもんね。』

『このまま、入試まで、突っ走るつもりです。』

『律ちゃんなら出来る!
 いつでも応援しています。』

『ありがとうございます。
 入試が終わるまで、
 結城さんの所へ遊びに行くの我慢します。』

『受験生の鏡!頑張ろう!』

『この前の事なんですけど。謝りたくて。』

 既読がついて、また止まる。

『正月に小野と結城さんの所へ行った時。
 ちゃんと挨拶しないで
 勝手に帰ってすみませんでした。
 俺の態度悪かったですよね。
 心配かけたんじゃないかと思って、
 気になっていました。
 俺は、ずっと元気で、頑張って毎日勉強しています。』

『ありがとう。
 態度別に悪くないよ。
 でも、少し気になってたよ。』

『今度、そのことをちゃんと話したいです。』

『分かったよ。』

『モモは、元気にしてますか?
 結城さんは寝れてますか?』

『元気だよ。心配いらないよ。』

『顔が見たいです。』

 どう返ってくるかな。

『寝てる。』
 モモが寝ている写真が送られてきた。
 笑ってしまった。
 違うよ結城さん。
 顔が見たいって、結城さんの顔に決まってるのに。

『結城さんにお願いがあります。』

『はい。』

『写真ください。毎日一枚ずつ。』

『モモの?』

『顔を見たら元気が出るし、
 やる気が出ます。』

『分かったよ。必ず送るね。』

 モモのでもいいし、結城さんのでもいい。
 そのどちらとも取れるように書いて、
 どちらかとは明言しなかった。
 結城さんに全て委ねるという、少しずるいけど、これくらい許してくれると思う。

『じゃあそろそろ、
 スマホの制限時間なので
 終わりますね。』

『時間決めてるんだ。えらいね。』

『決めてないとずっと喋りそう。』

『そうだね、喋りたいね。えらいね。
 じゃあ、邪魔になるといけないから
 終わるね。
 おやすみなさい。』

『おやすみなさい。』

 カチ、と画面を落として暗くした。
 リビングに降りて、充電コードに繋ぐ。
 もう一度心の中で、おやすみなさいと呟いた。
 
 翌朝、駅のホームで電車の到着を待っていると、制服のポケットの中でスマホが振動した。

 メッセージはなく、一枚の画像のみ。
 細く小さいパウチを持つ結城さんの指と、そのパウチから押出される柔らかそうなエサに舌をつけて舐めるモモ。

 結城さんの指が、細くて白くて、寒そうに見えた。
 
 それから、毎朝同じ時間に、結城さんからモモの写真が一枚送られてくるようになった。

 ある朝の写真。
 大きく口を開けて、あくびをしているモモ。

 別の日の写真。
 モモを膝に乗せ、その右手がモモの背に添えられている。

 毎日、必ず一枚。同じ時間。
 それは分かっているかのように、電車がホームに到着する時間のちょうど前だった。
 寝坊して、ホームに辿り着く前に『モモ通信』が届いた時には焦って、ものすごい勢いで階段を駆け上った。

 どの写真にも俺は返信をしなかった。
 ただ画像を受け取るだけで十分だし、一度でも会話が続けば止まらないと分かっていたからだ。
 
 モモの姿を見られる楽しみ。その裏に滲む、結城さんのモモへの深い愛情と労り。
 そして結城さんは写っていないけれど、時々画像の端に指や足や服の裾が写ると、ああ結城さんだなあと思った。
 モモを抱える膝の、その向こうに覗く靴下。
 モモを撫でる手。ケーブル編みの白いニット。
 薄くて、綺麗な爪。
 少しだけささくれて荒れている親指。
 
 モモの写真の後ろに垣間見える、結城さんの生活。
 結城さんの存在。
 俺の目はどうしてもそこへ向いた。

 ある日、とうとう我慢ができなくて、返信しないルールを破って、メッセージを送った。
 
 夜の自習室。
 
『こんばんは。
 たまには結城さんの顔も見たいです。』

 するとすぐに既読がついて、
 大分経ってからスマホが揺れた。
 画面を開くと、送られてきたのは動画だった。

 自習室で音声は出せない。
 俺は教室を出て、薄暗い廊下を通り、外へ通じる非常階段の扉を開けた。
 狭い敷地に建てられた、縦に長い進学塾の建物の7階には、街の喧騒も耳に微かにしか届かない。
 螺旋階段の踊り場にゆっくりと座り、再生ボタンを押す。

『律ちゃーん。』
 
 画面の中で結城さんがこちらに向かって手を振る。
 どこかにスマホを立てかけて、両手をこちらにひらひらと揺らす。グレーのパーカーを着て、お風呂上りなのか髪が少し濡れていた。
 それから、横を向いて座るので、こちらからは、結城さんの左側の横顔だけが見える。
 
 その膝に、モモがいる。
 結城さんはモモを後ろから抱き込み、両手でモモの左右の前足を優しく包むと、それを少しだけ前に差し出した。
 その手の先にあるのは、いつか触ったトイピアノ。
 小さいだけの、ちゃんと鳴るグランドピアノ。
 
 結城さんはモモの手をとって、ピアノの鍵盤に触れると、あるメロディを鳴らした。
 
『ね、こ、ふん、じゃったー。
 ね、こ、ふん、じゃったー……。』

 口角を上げて楽しそうに歌う結城さんだが、モモは「何をするんだ」と異を唱えるようにその顔を見上げる。

 結城さんはモモの顎をふわふわ、と撫でてから身をかがめて、膝から下ろす。そして画面から一旦消える。
 もう一度画面の中に現れた時、「ガコッ」と音がして画面が大きく揺れた。画面が激しく回転したあと、最後に映ったのはあのリビングの床。
 
『わー落としちゃった。』
 
 スマホを拾った結城さんは、再びこちらに手を振った。
 そこで動画は終わった。

 結城さんがスマホを拾い上げる直前、画面いっぱいに、柔らかな織り目をした繊維質の白い膨らみが映った。それはレンズに近すぎて、ぼやけた輪郭だけを白く写した。
 一瞬、なんだろうと思ったが、その違和感をすぐ意識の外に追いやった。そしてスマホをポケットに仕舞うと、非常階段扉を開けて再び建物の中に入った。