12.けじめ
「C」という間の抜けた文字をその欄に見たのは初めてだった。
 
 偏差値は5教科総合で54。
 平均に色をつけた程度でしかない。

「え、C?C判定?……えっ?やっばいじゃん。」
 母が固まる。
 
「本当ならもう少し取れたんじゃないかと思うんですが。」
 と面談でそう冷静に話す塾の担任講師に、母は、
「やっぱり志望校が高望みだったんじゃないでしょうか。」
 と投げかける。
 それはないだろう。俺はすかさず思った。

「いえ、それはありません。」
 と講師もきっぱりと言う。ほらみろ。
 
「今までの成績と、授業でのミニテストの点数だとか、あとはその都度見える彼の理解度から言って、実力が足りてないわけではありません。」
「実力は足りてる……野山を志望しても大丈夫なんでしょうか。」
「はい。実力は。ただ今回はそれを発揮できなかった。
 それがこの結果という事です。」
「発揮できなかった?えー、なんでよあんた。」
 と母親がくるりとこっちを向く。
 
「腹でも壊してた?」
「壊してない。」
「じゃ何でこんなんなの、勿体無い。」
「知らねーよ。」
「知らないじゃないでしょ。」
 母の声がワントーン上がる。あ、まずいと思った。
 
「何その態度。実力があっても、本番で発揮できなかったら意味ないじゃないの。」
「新堂さん。」
 すかさず講師が冷静に制する。

「本番はまだです。まだ先です。」
 痩せ型で、線の細い講師。怖くは無いが、要求水準が高く、ミスに厳しい。目線が鋭く、そこにいれば自然に背筋が伸びる存在だ。
 
「いつも受験生にこの時期話す事がありまして、
 何かっていうと、実力を発揮できないっていう経験を模試で一度やっときなさいよって事なんです。要するにそれ乗り越えてメンタル鍛えた経験ないと、それこそ本番で心が負けちゃって、ってことになるんで。
 この時期に経験できてむしろラッキーだったな、と少し落ち着いて受け取って貰えたらいいかなと。
 
 来月の、ここ、第二週に最後の模試があるんですけど、
 来月なってから『これ』やっちゃうと、もう今度は逆に直前すぎて何の対策もできません、どうしましょうってなるんですが、言っても今まだ1月半ばなんで。全然間に合います。
 
 しかも彼の場合は、実力は間に合ってるんで。
 あとは、積み上げた事をどう発揮するか。
 プレッシャーにどう対応するかの力ですね。」
 
 話し方に澱みがなく、喋りのプロの実力は親も黙らせる。先生すげーな、と俺は内心思った。
 
 同時に、一番欲しかった「実力は足りてる」というお墨付きをもらえて、強く背中を押された気がした。
 
 要するに先生は、親に黙ってろと言ったのだ。
 力は足りてるから、あとは発揮するだけ。
 本人に任せて、周りでうるさくするな、集中を乱すな、余計なプレッシャーをかけるな、と。
 
「過去問で何度も本番の経験をすること。後は今までやったテストのミスを徹底的に埋めていきましょう。
 緊張感は必要ですが、過度な心配はいりません。」

 帰りの車の中で母はしばらく無言だった。
 俺は、頼むから一体何があったのかなんて聞かないでくれ、と思いながら、助手席で夜の景色を眺めていた。
 集中出来ない理由は自分で分かっていて、けどそれを説明することはできない。
 
 オレンジ色の街灯が、窓の外を滑って流れていく。
 カラオケの看板。その下に吸い寄せられる男女の団体。
 和風な居酒屋にかかる暖簾。人影と暖色の灯り。
 そこだけ昼間から切り取って持って来たようなコンビニエンスストア。
 その出入り口でたむろする、露出の高い服装の女子。背伸びしたぎこちないファッションから、同年代に見える。

 みんな夜まで遊べていいなぁ。
 受験なんか適当に済ませられていいなぁ。

 違う世界を少し垣間見ると、少しだけそう思ってしまう。
 けど、あの子達は、時間ギリギリまで頭を絞って考えたり、苦しんだり、そうして出した答えが合っていた時の快感は知らない。
 集中して、神経を研ぎ澄ませたいのに、どうしても横から別のことを考えてしまって、それが叶わなくて悲惨な結果を出す事もない。その事で母親に何か言われたり、塾の先生に普段の頑張りをきちんと見てもらったり、味方になってもらえたりしない。
 
 俺は、そっちの方がずっといい。
 
 夜まで遊んだり、テレビを見たり、ゲームをしたり、動画をずっと検索したり。ダメなわけじゃないんだろうけど、それで得られるものって、何だろう。
 楽だけど、俺は別に要らないなと思う。
 ……まあ、そんな生活を経験した事は無いから、実際のところは分からないけど。けど、辛くても、疲れても、確かな手応えと達成感のある道を選んだことは、間違ってないと思う。

「いい先生だね。」
 ずっと黙っていた母親が、ハンドルを回転させながら口そう言った。
「え?」
「生徒なんか沢山いるのに、普段の授業からちゃんとあんたのこと見てくれてるんじゃん。すごいね。」
「うん。」
「実力は足りてるって。よかったね。
 A判定とかC判定とかより、先生にそう言われることの方がよっぽど、お母さんは信用できるわ。
 あんた、頑張ってるから。」
「……うん。」

 家に着いて、暗い部屋の灯りをつける。
 コートを脱ぐ前にまず、模試の結果票を取り出す。

 C判定。

 ショックというより恥ずかしい。
 母親は、結果票の判定より先生の言葉を信用すると言っていたが、そうは言っても、試験本番で「発揮できなかっただけで、本当はもっと取れたはずです」なんて通用する訳がない。

 勉強机の引き出しから画鋲をザラっと取って、判定結果を壁に広げ、ピンを4箇所、壁面にぐっと押し込む。

 3月の初めの木と金。本番まで1ヶ月半。
 落ち込んでる暇はない。

 入試が終わったら楽しい事をしようと思っていた。
 うんと楽しい事を。具体的な事はあまり思いつかないけど、とにかく、遊びに行ったり、我慢していた事をやろう。
 けど、今はそうは思わない。
 楽しいことなどいらない。
 ただ、合格するという結果だけが欲しい。

 今日、この瞬間から、試験日程が終わるその最後の1秒まで、死に物狂いでやろう。
 それが終わったら、そのまま机にぶっ倒れていい。入試が終わったその帰り道、歩けなくなるほど気力を使い果たしていい。何も手につかなくなるほど、疲労困憊しても構わない。
 終わった後で、自分の体などどうなってもいい。
 ただ最後の1ヶ月半の、終了のチャイムが鳴る最後の瞬間、最後の問題を解き終わり鉛筆を置くまで……いや、回答用紙を回収されるその瞬間までは、自分の全てを、全力で、そこにかけよう。

 それまで、結城さんには会わない。
 それが自分のけじめだ。

 次の模試が最後。2週間後。
 そこで必ずA判定を取り返す。