11.傷つけた
 帰宅して、リビングを通らず自分の部屋のベッドに転がる。
 テレビの中で、有名私立大の名を懸命に呼ぶ実況の声が、ドアの隙間から漏れ出た。オヤジが「あ〜抜かれたか」とボヤく声が聞こえた。「区間賞が……」と母親がそれに答える。
 
 仰向けになって天井を眺めていると、ついさっきの光景がどうしてもリフレインする。
 
 ――お友達に謝りな。
 ――だめだよ。
 ――クズって言おうとしたでしょ。

 何も知らないくせに。
 
 理解してくれない怒りと、哀しさ。
 居場所を奪われたかのような嫉妬と不安。
 傷つけたかもしれないという後悔。
 そのどれも俺の中にあるが、けどそれだけではない気がする。

 俺は、本当は、一体何が気に食わなくてあんな態度をとったんだろう。

 ……あの場所は。
 結城さんの傍は、俺の場所だ。
 あの扉の奥に行って、お茶を飲めるのは俺だけだ。
 モモを撫でるのも、結城さんを安心させられるのも、疲れて眠る、寝顔を見られるのも。小さなピアノを弾いて褒めてもらうのも。涙ぐむ結城さんを、ゆっくり励ますのも。
 全部俺のものだ。そう思っていたのは勘違いで、結城さんにとってはそうではなかったんだ。
 
 とられた。
 そんなシンプルな嫉妬がある。
 
 そしてまた、それとは別の怒りに似た感情。
 俺は結城さんを思って、色々考えてあそこで過ごしていた。あのゆっくりと過ぎる時間を、大事に優しく、壊さないように。うるさくしない、騒がない。
 結城さんもそれを望んでいるんだと思った。
 それを汚された。あの場所で、カイはガヤガヤとうるさく声を立てて、乱暴に座ったり、雑な態度を取った。カイに対する怒り?
 違う、どちらかというとこれは……。結城さんへの。

 うるさくしていいのかよ。
 遠慮がなくても構わないのかよ。
 いいのかよ、誰でも。
 
 カイを受け入れ、その振る舞いを咎めない結城さん
 ――に対する怒り。

 フツフツとした苛立ちが腹の方から湧いてくる。

 ああそれだ。行き当たった。
 結城さんがカイの行動を受け入れることで、俺がやって来たことや、結城さんへの気持ちや気遣いを、大して意味のないことにされた。
 境界を簡単に超えてはいけない人だと思ってた。だから踏み込まないで、余計なことは聞いたりしないでいた。
 全部、思い違いだったんだろうか。

 何で?
 何で注意しない?
 カイのあの失礼な態度をそのまま受け入れるくせに、何で俺には「ダメだよ」とか「謝れ」とか。
 何だ突然。偉そうなんだよ。

 バサリと布団を被り、寝返りを打った。
 こういうとき大人は、お酒を飲んだりタバコを吸ったり、発散できていいな。
 下のリビングから両親と、帰って来ている姉のカラカラという笑い声が聞こえて、腹が立った。
 
 うるっせえ!
 
 ダン!と拳でベッドのマットレスを叩く。

 ――その時。
 その拳の勢いを、その怒りを、今まさに結城さんにぶつけてしまった錯覚に襲われて、怒りに満ちていたはずの胸の中が、一瞬で冷えた。
 一つもスッキリせず、湧いてくるのは「どうしよう」という大きな後悔。
 叩いたのは、マットレスで、ぶつけたのは拳。
 けれど、俺の頭の中では、この拳が今まさに結城さんを傷つけたような実感があって、恐ろしくなった。
 
 ああ。俺は結城さんを傷つけた……。
 
 放っておけばこの世界から勝手に消えていなくなりそうな、輪郭の存在の淡いあの人を、そんな風に傷つけた自分が恐ろしく、悲しく、泣けてきた。
 そして、同時に頭の中で言い訳が始まる。

 だって、だって。
 分かってくれないから。結城さんが悪い。全部悪い。
 俺は悪くない。

 ――帰ります。

 そう言った時、結城さんの顔が見れなかった。結城さんは、逃げるように立ち去る俺の方に向かって、「帰るの律ちゃん。」と声をかけた。俺は答えなかった。
 律ちゃん、ともう一度俺を呼び戻そうとする悲痛な声が、ドアを閉める間際、聞こえた。それも無視した。
 口をつけずに全部残したお茶を見て、どんな気持ちになったかな。

 ごめんなさい、と心で呟いて、目を閉じる。
 涙で腫れたせいで、ちょうど都合よく眠気が襲ってきた。
 午後から、英語やろうと思ってた。夕飯前に数学。風呂にサッと入って、暗記の復習。
 やろうと思ってた。
 2週間後には模試がある。
 やらなきゃ……。