「この本屋まだ生きてたんすねー。」

 挨拶もお辞儀もせず、店の敷居を荒い足取りで超えるカイは「まだ生きてた」などと縁起でもないことを言いながら、『柴崎書店』に入った。
 
 遊びに来てねと先に行った結城さんを、カイは追いかけて、
 「今から行っていいっスか?」
 と覗き込むように聞くので、俺は慌てて、迷惑だからやめろ、と止めた。
 
 けど結城さんが
「律ちゃんもおいで。」
 と俺に目を合わせて言ってくれた時、受け入れてくれた気がした。
 さっきのカイとのやりとりを、結城さんは怒ったけれど、「おいで」と声をかけてくれた時には、もうその事を許してくれているような気がして、それをちゃんと確認したかった。
 そして安心したかった。
 このまま帰るのが嫌だった。

「あれ?なんてったっけ、結城?だっけ?」
 本棚をじろじろ眺めながら、カイは俺を振り返る。
「結城さん。」
「ああ、結城さん。柴崎さんじゃないんすか?」
 
 それは俺も思っていた。
 柴崎書店の店主が、柴崎さんではない。
 だが、聞いていいのか事情がわからないから、結城さんが教えてくれるのを待っていたのだ。なのにこいつは出会ってものの数秒で。

「うん、柴崎さんのお爺ちゃんが亡くなる少し前に、この店のこと頼まれたの。」
 
「え、柴崎のじいちゃん死んだんすか。いつ?」
 
「2年前に『亡くなった』。
 僕がここに越して来たのが3年前なんだけど……。
 小野君は、柴崎さんの知り合い?」
 
「知ってるってほどじゃないすけど。」
 と、カイはレジ横の絵本棚を物色する。
 
「ガキん時少し、ここのじーちゃんに遊んでもらったのは、なんとなく。
 絵本か何か、親と買いに来たんじゃないすかね。顔とかはあんま覚えてないけど。」

「そーだったの。今日の偶然も、ご縁だね。」
 そう結城さんは言って、レジ横のヒーターをつけた。
 そして奥の扉の向こうへ消えた。少ししてから、お湯を沸かす音がした。

「あ、でも小学校になるくらいには、もう本屋やってなかった気がするんスけど。8か9年前。」
 カイは扉の向こうへ話しかけた。

「そうみたいだね。」
 と結城さんの声が返ってくる。
 
 カイは絵本棚に飽きて、他の棚を検分し始めた。
 何が面白いのか、何が分かるのか。
 結城さんがおそらく俺らに飲み物を用意してくれている間中、店内をぐるぐるうろうろと歩き、その本棚にぎゅうぎゅうに詰め込まれた背表紙の、まるで一つ一つを辿るようにして、丁寧に見ていた。
 
 そうやって本棚とじっくり向き合うカイの横顔を、俺はレジ横に置かれた硬いスツールに座って眺めた。

「はいどうぞ。」
 と結城さんが用意してくれたのは、あたたかいほうじ茶。手のひらにすっぽり収まる丸い陶器の湯呑みの中で、ふかふかと湯気を立てている。
 用意されたスツールに、カイはドスンと音を立てて乱暴に腰を下ろす。

「あっち。」
 カイは湯呑みの中に息をふきかけた。

「何か面白い本見つけた?安くしとくよ。」
 と言って、結城さんは、レジカウンターの内側に座った。
「ん〜、また今度。」
 安くしとくよ、なんて、まるでお店の人みたいだ。
 あ、お店の人だ。と思い直して、俺はなんか変だな、と思った。

「君の言う8年前、お店を一回閉めてたのかもってのは、多分合ってる。」
 と結城さんはゆっくり話し出した。

「柴崎さん、3年ほど前に、入院するからって僕にこのお店頼んでくれたんだけどね、
 けどそれよりも前から、多分お店の中は手付かずだったんだと思う。僕がここに来た時、本棚の埃凄かったから。」

 8年前には既に店を閉めていた柴崎さん。
 3年前にここに来た結城さん。
 空白の5年間、ここの古本達は埃を被りながら、時間が経つのを待っていた。結城さんが来るのを。

 そう教えてくれる結城さんの話を聞きながら、顎に手を当てて何か難しい顔をしていたカイが、唐突に「あっ!」と叫んだ。
 
 そして無言で空を指さして、
「ネコ!」
 と言った。
 
 俺は思わず結城さんの方を見た。結城さんは俺ではなくカイを見て、目の奥が、少しだけ揺らいだ気がした。
「確かいた気がすんだよな……。
 でも10年以上前だから、流石に、」
 その時、扉の中から「アーウ」とモモの声がした。
 結城さんは、あはっ、返事した、と笑って立ち上がり、
「生きてるよ」
 と扉を開けて、モモの姿を見せてくれた。
 モモはクッションの上であくびをしていた。

「アーッ!」
 カイは大きい声を出して立ち上がり、小上がりに身を乗りだした。
「モモじゃーん!」

 結城さんは驚いて、目をまんまるにしている。
「だよね?モモって名前じゃなかった?違った?」
「あってるよ。モモだよ。」
 カイは、扉の奥の結城さんのリビングに、上半身を滑り込ませ、コートのまま腹ばいになって、
「モモだ〜!うわぁモモ〜〜!」
 と手を伸ばした。
 
「モモ!おいで!」
 とモモを呼びつける大きな声が無遠慮に響き、耳に障る。
 
「カイ。声大きい。」
 
 モモは、体調は持ち直した。けれど少しづつ、俺も結城さんも気が付かないほどに、一日一日、時間に逆らう事なく確実に老いていっている。
 大声で驚かせたり、慣れない人間に触られてオモチャにされるような元気はない。

 もうやめろ、とカイの背中に言いかけた時、モモがゆっくりと立ち上がった。
 モモはもう素早くは歩けない。たるんだお腹の皮が床につきそうになっている。けれどモモは、カイに向かって真っ直ぐ歩いた。
 そしてその手のひらに鼻を近づけて、ふんふん、と匂いを嗅いでから、「ナン」と小さく鳴いて、その頭をカイの腕に擦り付けた。

「あー、モモ。モモだ……。生きてたんかお前。」
 カイはその喉を撫でながら、ほとんど涙声になっている。

「もう14歳なんだ。」
 と結城さんは声をかける。
「君のこと覚えてるのかな。
 何か分かるみたいだね。不思議だけど。」

「モ〜モ〜……。」
 とその体に顔を埋めるカイ。
「大好きだよォ。」

 結城さんが笑って、モモよかったね、と言った。

 俺は、手のひらの中ですっかり冷たくなってしまった湯呑みを、音を立てないよう静かにレジカウンターに置いた。
 中身は、一つも飲んでいない。
「俺そろそろ帰ります。」
 と結城さんに声をかけて、返事を聞かないまま、リュックを背負って店を出た。

 追いつかれて涙を見られてしまうと困る。
 だから走った。
 
 雪も雨も降っていない。
 1月2日の午後は、気持ちの良い晴天で、関東の方では駅伝の大学生選手達が大いに活躍しているだろう。

 杉本と行った初詣は楽しかった。お年玉も貰った。
 正月から結城さんに会えてラッキーだ。
 モモだって、昔の友人に会えてよかったな。
 何度そう思おうとしても、心の表面が削り取られたような、暗い気持ちになった。
 こんな事で拗ねて、馬鹿みたいに思われただろう。
 自分が嫌になった。