1.導かれて
光が一気に視界を開く。
放射冷却により発生した朝霧が、細かな粒子となって春光をまぶしく跳ね返している。
二つの足を存分に跳躍させれば、身体も軽い。
その一歩にかかる距離がじれったく、
刻を惜しんで、空に飛び上がるように走った。
勢いのそのままぶつかりながらその人を抱き込み、小さな体が後方にのけぞったのを、腕を回して支える。
両手両足使ってもまだ足りないほどに、腕の中に隙間なく閉じ込めた。柔らかな髪に鼻先を埋めると、甘く安心する匂い。
それらを余す事なく存分に吸い込み、肺を満たす。
出来る、絶対出来る、と力が湧いた。
「俺のこと、待ってて下さい。」
*
出会ったのは寒い雨の夜だった。
11月の終わりの金曜日。
その日は夕方からベタベタした雪が降り始めた。とっぷりと日が暮れた頃には、雨と混ざってシャーベット状の堆積物となり、歩道をゆるく覆う。
もう20時を過ぎていた。
みぞれが溶けた冷たい水が、つま先から容赦なく染み込み、靴下をぐちゃぐちゃに濡らして不快だった。
真っ暗な商店街を、最寄りの小さな駅に向かって進む。
服の隙間を見つけた風が、袖口や裾からここぞとばかりに入り込んで体温を奪った。傘を盾にするが、その抵抗も虚しいほど全身が凍える。
「まだ終わってねーの。」
塾の教室で前の席に座った杉本の、あの小馬鹿にした顔を思い出す。根性でどうしても今日買いに行かなければ。
俺の住む小さな町は、徒歩圏内に本屋がない。
いつもはそれで問題はない。品揃えの良い本屋が建つ街には、通学や塾のため電車で週に何度も通うので、その時に買えば事足りるからだ。
今日もそのつもりでいた。
塾の帰りに、その通りの向かいにある大きい本屋に寄ろうと思っていた。
なのに今日は疲れていたのか、そんな事をすっかり忘れて、そのまま帰りの電車に乗りこんだ。そして自宅最寄りの駅まで帰り着き、寒い中を無心で歩いてあと少しで自宅だというところで、「あっ」と本屋に行き忘れた事に思い至る。
地方都市の中心地にある主要駅。
そこから沿線で伸びた先にある、小さくて古い町は、少子化の影響で校区の統廃合を繰り返しながらも、小中高の公立校をこの町一つで網羅して、なんとか町の形を保っていた。
だからこそ、ここから出なくても大人になれる。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、俺はここから一歩出て、主要駅近くの県立大附属中に通っている。
山が近い。そして何もかもが遠い。
街が遠い。通う学校も、塾も。
本屋もだ。それが面倒だった。
参考書くらい、明日でも明後日でもいいはず。
もっと言えば、わざわざ買いに行かなくても良い。親に頼んでネットでポチれば済む。
しかし今日買いたい、今日の夜、欲しい。
そんな意地があった。
明日の朝から取り掛かって、少しでも進めたい。
明日土曜日の朝、早く自習室に行って、杉本にこれ以上進度を離される前に。
だから、土砂降りの中今から戻って買いに行くしかないのだ。盛大にため息を吐きたい気分の自分を叱って、そう結論づける。隣の駅まで戻らなければ……。
ビチャ、ビチャ、と足音がうるさい。
吐く息が湿気を帯びて闇の中で濁った。
傘の柄を握る指先が固く強張り、白く冷たい。
傘の表面を、バタバタと慌ただしい音を立てて、雨粒が打ち付ける。それは雑音のカーテンのように他の音を遮断した。聴覚が鈍り、体の表面の感覚に神経が集中して、余計に寒く感じた。
……ああ。もう。嫌だ。
投げ出したくなったその時、ふわっと包まれる感覚があった。
刺々しく冷えた心が癒されるような、どこか懐かしいような。つい、濡れた足を止めて、辺りを見渡す。
雨粒の隙間から
傘を打つ水滴の大群をすり抜けて
なおたどり着く淡い香り……。
――あ。お香だ。
はっきりとした強い匂いではない。掴みどころのない、まるで遥かな記憶を掠めるような、ほんの少しの想起だった。
そんな儚い匂いが、どうしてその時漂ってきたのか、それは今でも分からない。
雨の夜に、お香。
今思えば随分と不思議な事だ。けれどそれは雨がもたらす水の匂いと、みぞれの湿度と溶け合って、ごく自然にこの鼻腔へ向かってきたのだ。
強張りを温めるような居所不明な懐かしさに、思わず肩の力が抜けた。
ただ、意識の外からふいにやってきたその香りは、その正体を確かめようと意識を向けた途端に、かき消えてしまった。
そんな、確かにしたはずなのに。
四方を見渡すけれど、こんなシャッター街の雨の夜、窓を開け放ってお香を焚く家など見当たらない。
今のはなんだったんだろう、と眉を寄せた時、
視線が勝手に他所を向いた。
駅前の通りから脇に逸れる細い道の先。そこに、濡れた夜道に光を落とす、一つのガラス戸を見つけた。
遠くから見ると、地面に映る影がふっと揺れる気配がする。さらに目を凝らすと、冷えて曇ったガラス戸の下の方に『……書店』という寂れた白文字が僅かに見えた。
その時、行かなければという強い衝動が湧いた。
駅に真っ直ぐ向かうはずの道を曲がり、吸い寄せられるようにその『書店』の文字の方へ進む。
……少し見るだけだ。
もし、ここで参考書が買えたらラッキーだし。
そのために行く、見に行くだけ。
そうなぜか自分に言い訳をしている。
湧き出した不思議な予感を、そんな風に理屈づける。
そう思って近づくうちに、次第に強まる雨音。
得体の知れない期待と胸の高まり。
何かがある。ここで何か、大事な何かが。
それだけが、その場所へ俺を引き寄せた。
スニーカーは完全に水没していて使い物にならない。手の甲がかじかんでほとんど感覚がない。雨なのか雪なのか分からないこの天気。
今はそんな事、どうでもよかった。
『 柴崎書店 』
小さな個人書店。
少し破れかけたテント屋根の下に、レトロな旧字体でそう書かれたガラスの引き戸がある。古い鉄筋造りのガサついた外観。かなり昔からあるだろう建物に、どうしてか今まで気が付かなかった。
店内の空気が結露して、ガラス戸を曇らせている。どんな本があるか外からはよく見えないが、中は電気がついているし、人の気配もある。
傘を閉じて、店の外に立てかける。
少しだけ錆のついた引き戸にそっと手をかけると、行くのか?と心の中の何かが俺に聞いた。
知らない人ばかりの進学塾に通い始めた時も、顔馴染みが1人も居ない中学に進学した時も。
新しい扉を開ける時は誰だって、いつも少しだけ臆病になる。それでもその先に、ちゃんと自分の居場所がある事を、俺はもう知っている。
扉はほとんど力を入れなくても開いた。
カラカラ、と乾いた音が静かな店内に大げさに響いた気がして、少し肩をすぼめる。そっと扉を元のように閉じて、中に完全に体を入れる。
扉を完全に閉めると、雨の音が一気に遠ざかって、代わりに静寂に満たされた。
目でキョロキョロと中を見渡す。
沈黙が、長い時間をかけて濃密に蓄積された佇まいで空間に充満して、背中が重い。
古いお店の紙と埃の匂い。ポタポタ、と雫の落ちる音。奥の方で鳴るファンヒーターの空気音。
本棚は左右の壁一面と中央に配置されていて、商店街らしい間口の狭さだが、奥行きがある。
ゆら、と奥の方で影が揺れた気がした。店員さんだろうか。ただ、軽く目線を一周回してみても、目当ての参考書があるような雰囲気はなかった。
そのかわり、古く厚みのある背表紙が、軍服を着た兵隊の群れのように、怖い顔をしてずらりと見下ろしてくる。あるいは、威圧的なおじいさんのようだと思った。
足元に視線を落とすと、濡れそぼったスニーカーが店内のコンクリート床に水を垂らして、濃く滲んでしまっている。
参考書はないようだ。
それに濡れた足やコートで本を汚しても申し訳ない。
帰ろうかとも思ったが、無言で入って、無言で出ていくのが、まるで泥棒ではないか?と思えて、その場でしばし固まった。
どうしよう。
その時、店の奥から聞こえるヒーターの音の上に、かすかな声が乗って聞こえた。
授業中、隣の机の人に「ねぇ、」と話しかけるような、静かで気負いのない声。ただそれは人の声ではなく、猫だった。猫だと分かったのは喉がクルルと鳴る音も聴こえたからだ。
猫が静かに「ナゥ」と言うと、次に聞こえたのは落ち着い雰囲気の男性の声だった。
「ん?」
ふんわりとした空気のような声がして、どきりとする。
その声に反応して、また猫が「アウゥ」と返事するように言った。
「ほんと?」
どこか、人間と猫の会話が成立しているようなそのやり取りに、何の話をしているのだろうと聞いていると、奥の方から、
「お客さん?」
と、聞こえて同時に、奥のレジカウンターから上半身だけがひょっこり見えた。
目が合ったお店の人は、少しだけ驚いて、目を大きく開いた。若い男の人だ。顔つきは幼いようだけど、身にまとう雰囲気は少し大人っぽくて、多分だけど大学生くらいに見える。
店番の息子さん?アルバイトかな。
お店の人はいないんだろうか。
「外、寒いでしょ、こっちおいで。」
細身の体を、ざっくりと大きい編み目の白いケーブルニットが包んでいた。ゆるくウェーブのかかった茶色い髪は頬の横にゆったりと辿り着き、その長めの前髪が、細いワイヤーフレームの大きなメガネにふわりとかかっている。
その奥で、優しげな瞳が暖かく俺を迎えた。
その人は170センチの俺と同じくらいに見えた。けれど、ゆったりとしたニットに隠した頼りない体格は、スポーツを小さい頃からやらされて来た中3の俺よりも、むしろ華奢なように見えた。
腕に抱えられたどっしりとした猫が、今にもずり落ちそうで、その細い腕には少し重たそうだ。
「こっちだよ。」
間口の狭い店の、その奥の方へ促され、言われるがままについていく。そこには奥の部屋へ続く扉があって、手前にはカウンターとレジがあった。
扉の奥は、事務所だろうか。
店の人は、その扉を開けて、まず大きな猫を中に入れた。それから自分も靴を脱いで中に入り、こちらを振り返って俺を手招きした。
奥の部屋は畳の小上がりのような造りで、書店スペースとは膝ほどの高さの段差があった。その手前に足を掛けるための石の踏み台がある。
「ほら、こっち。」
と何度も俺を呼ぶので、目的が分からず、ただそれを断った。
「いえ、あの、汚しちゃうし……。」
「風邪ひくよ。」
するとその人は奥からバスタオルを手に持ってきて、俺の頭を包んだ。
「脱いでほら。乾かしてあげるから。」
「えっ、待って、でも部屋が濡れます。
それに俺客じゃないし。」
「いいんだって、ほら。」
俺は、強引にダウンコートを脱がされ、奪われてしまった。それを部屋の中でヒーターの近くにかけてから、靴も脱いで中に入るよう言われた。けど、こんなにぐちゃぐちゃな足元で、そんな事出来るわけがなかった。
するとお店の人は、扉の足元にタオルを敷き、靴と靴下をまずそこで脱ぐよう言う。
「はい、もたもたしない。脱ぐ。」
「あ、はい。」
「足を、ふく。」
「すみません。」
「ここに座る。」
足を拭いてから店の奥の暖かい部屋に入り、促されたのは、一人がけのソファだった。茶色の合皮で、シートには薄い座布団がひかれている。ファンヒーターが足元にあたり、濡れた指先が乾き、ほぐれていく。あったかい。
「寒くない?ズボン濡れてんじゃないの?」
「いえ!それは、ないです。」
濡れてないし、濡れてても脱ぎたくない。
慌てて断ると、
「そう。」
とお店の人は軽く笑って、毛布を膝にかけてくれた。
彼は、ちょっと待っててね、と言うと、俺の濡れたスニーカーにその辺にあった古新聞を丸めて詰め込み、ヒーターの風のあたる場所に立てかけた。それからぐっしょりした靴下はタオルで拭き取り、同じように掛けてくれた。
事務所か何かかと思ったその部屋は小さいリビングのようで、明らかにここで人が暮らしている空気があった。
人が2人入ればそれで手狭に感じてしまうほどの、ささやかで暖かい部屋。
大きな一人がけのソファ。
天板の小ぶりな丸いテーブル。
小さなコンロと、シンク。
僅かしか入らない食器棚。
一人分の冷蔵庫。
猫のケージ、ペットシート。
そのどれも清潔に使い込まれ、狭いながらも心地の良い生活感があった。
「コーヒー飲める?」
え、と答えに困ったのは、飲めないと言いたくないからだ。
「あ、えっー。はい。」
そう?とその人は小首を傾げ、「お砂糖とミルク多めにしようかな?」と聞いて来たので、俺はただ「はい」と返した。
その人がお湯を沸かす間、急に冷静になってしまった。
どうしよう。
何も分からず、言われるがまま、こうして濡れたものを乾かしてもらっているけど、いいんだろうか。
暖かくなった足の指先同士を擦りながら思う。
帰らなければ。帰って良いのだろうか。
何故、本屋とはいえ、知らない人の家に上がっちゃってるんだろう。
「あの……すみません。」
お湯を沸かしているその人の背中に向けて、おずおずと話しかけた。
「なぁに?」
「あの……ありがとうございます、乾かしてもらったりして。」
「そんなの。いいのいいの。」
はい、と湯気のたつマグカップが置かれる。
「ミルクたっぷり、砂糖たっぷり。どうぞ?」
と、その人は向かいの椅子に腰掛けようと、少し屈んだ。
「本当にすみません。コーヒー飲んだらすぐ帰ります。」
するとその人は、えっ、と発し、下ろそうとした腰をそのまま止めて、こちらを見る。
そして、
「もう帰っちゃうの?」
と言うので、少し驚いた。
いや。時間も時間だ。
時計を見る。
「はい。」
参考書が置いてないのなら早く店を出ないと。
そして、買いに行かないと。
分かっている。
けれど、ごくりと一口の飲んだそのコーヒーは
熱すぎず、甘すぎず、ミルクと砂糖が絶妙で、
体の中からじわりと温度を上げた。
おいしい。
このコーヒーが美味しい。
「そっか。」
そしてその人は少し寂しそうに笑うのだ。
どうしてだろう。
どうして俺なんかを引き止めようとするんだろう。
美味しいコーヒーを出されて、
体を温めてくれて、
挙句にそんな顔をされたら、困ってしまう。
けれど、俺も、ここを出て、それから……
どうするのだろう。
せっかく乾かしてくれた暖かい靴を、またわざわざ濡らして駅まで行って。電車に乗って降りて。駅から本屋まで歩いて、買って。買ったらまた電車で?
……嫌だなぁ。
心底そう思った。マグカップが暖かい。
ああ、このまま帰りたい。
濡れたくない。
寒いところに、もう行きたくない。
完全に気が緩んだ。
ついさっきまであった、杉本への対抗心だとか、受験のこととか、色々なことに対する苛立ちとか、刺々しい何か、カッカした気持ちが、もうすっかり自分の中から抜け落ちてしまった。
心にあるのは、ただ、癒されて、柔らかく解けた安心感。ほやほやになったこの心と体のまま、あの寒い冬空にもう一度立ち向かう気力がない。
「遅いもんね、もう。」
時計は20時半の少し前。
「あ、親に連絡します。」
塾のカバンからスマホを出して、スタスタ、とメッセージを送る。
『参考書を買うので本屋に寄ってから帰ります。
少し遅くなります。』
「お家どこ?近く?」
「え、はい。でも、ちょっと俺寄りたいところが。」
「えっ、今から?どこ行くの?送るよ、遅いし危ない。」
「本屋です。」
「ん?」
「え?」
一瞬遅れて、その人は、ああ!と一人で納得した。
「ごめんね。本屋か。だよね、本屋に来たんだもんね。本屋だもんねここ。ごめんね?」
とその人は何度も謝った。
「いや……。僕、君のことこんな勝手に、引き留めちゃって。やだなあ、そうだよね、本屋に来たんだもんね。」
と分かるような分からないようなことを、自分に言い聞かせるように言っている。
「あの、このお店、参考書とか、置いてないですよね。
中3の。」
「あ、中3。……中3か。ああ、そっか。」
まるで自分自身に言い含めるように「15さい」と反復してから、
「ごめん、置いてないんだ。
ここ、古本屋で。」
「古本屋?あ、そうだったんですね。
俺の方こそすみません勝手に。
あの、お父さんとかは?」
「え?」
「あの、店番かアルバイトの人ですよね?
お店の人はどこですか?まだ帰って来ないんですか?
俺を勝手に入れて勝手にコーヒー飲んで
怒られませんか?」
その人は目を大きく開けた。
瞳が澄んでいる。髪の色と同じ、薄い茶色。
それからその人は、か細い人差し指を自分へ向けて、
これ以上ないくらいに綺麗に笑った。
「僕です。結城って言います。
僕がこのお店の人です。」
光が一気に視界を開く。
放射冷却により発生した朝霧が、細かな粒子となって春光をまぶしく跳ね返している。
二つの足を存分に跳躍させれば、身体も軽い。
その一歩にかかる距離がじれったく、
刻を惜しんで、空に飛び上がるように走った。
勢いのそのままぶつかりながらその人を抱き込み、小さな体が後方にのけぞったのを、腕を回して支える。
両手両足使ってもまだ足りないほどに、腕の中に隙間なく閉じ込めた。柔らかな髪に鼻先を埋めると、甘く安心する匂い。
それらを余す事なく存分に吸い込み、肺を満たす。
出来る、絶対出来る、と力が湧いた。
「俺のこと、待ってて下さい。」
*
出会ったのは寒い雨の夜だった。
11月の終わりの金曜日。
その日は夕方からベタベタした雪が降り始めた。とっぷりと日が暮れた頃には、雨と混ざってシャーベット状の堆積物となり、歩道をゆるく覆う。
もう20時を過ぎていた。
みぞれが溶けた冷たい水が、つま先から容赦なく染み込み、靴下をぐちゃぐちゃに濡らして不快だった。
真っ暗な商店街を、最寄りの小さな駅に向かって進む。
服の隙間を見つけた風が、袖口や裾からここぞとばかりに入り込んで体温を奪った。傘を盾にするが、その抵抗も虚しいほど全身が凍える。
「まだ終わってねーの。」
塾の教室で前の席に座った杉本の、あの小馬鹿にした顔を思い出す。根性でどうしても今日買いに行かなければ。
俺の住む小さな町は、徒歩圏内に本屋がない。
いつもはそれで問題はない。品揃えの良い本屋が建つ街には、通学や塾のため電車で週に何度も通うので、その時に買えば事足りるからだ。
今日もそのつもりでいた。
塾の帰りに、その通りの向かいにある大きい本屋に寄ろうと思っていた。
なのに今日は疲れていたのか、そんな事をすっかり忘れて、そのまま帰りの電車に乗りこんだ。そして自宅最寄りの駅まで帰り着き、寒い中を無心で歩いてあと少しで自宅だというところで、「あっ」と本屋に行き忘れた事に思い至る。
地方都市の中心地にある主要駅。
そこから沿線で伸びた先にある、小さくて古い町は、少子化の影響で校区の統廃合を繰り返しながらも、小中高の公立校をこの町一つで網羅して、なんとか町の形を保っていた。
だからこそ、ここから出なくても大人になれる。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、俺はここから一歩出て、主要駅近くの県立大附属中に通っている。
山が近い。そして何もかもが遠い。
街が遠い。通う学校も、塾も。
本屋もだ。それが面倒だった。
参考書くらい、明日でも明後日でもいいはず。
もっと言えば、わざわざ買いに行かなくても良い。親に頼んでネットでポチれば済む。
しかし今日買いたい、今日の夜、欲しい。
そんな意地があった。
明日の朝から取り掛かって、少しでも進めたい。
明日土曜日の朝、早く自習室に行って、杉本にこれ以上進度を離される前に。
だから、土砂降りの中今から戻って買いに行くしかないのだ。盛大にため息を吐きたい気分の自分を叱って、そう結論づける。隣の駅まで戻らなければ……。
ビチャ、ビチャ、と足音がうるさい。
吐く息が湿気を帯びて闇の中で濁った。
傘の柄を握る指先が固く強張り、白く冷たい。
傘の表面を、バタバタと慌ただしい音を立てて、雨粒が打ち付ける。それは雑音のカーテンのように他の音を遮断した。聴覚が鈍り、体の表面の感覚に神経が集中して、余計に寒く感じた。
……ああ。もう。嫌だ。
投げ出したくなったその時、ふわっと包まれる感覚があった。
刺々しく冷えた心が癒されるような、どこか懐かしいような。つい、濡れた足を止めて、辺りを見渡す。
雨粒の隙間から
傘を打つ水滴の大群をすり抜けて
なおたどり着く淡い香り……。
――あ。お香だ。
はっきりとした強い匂いではない。掴みどころのない、まるで遥かな記憶を掠めるような、ほんの少しの想起だった。
そんな儚い匂いが、どうしてその時漂ってきたのか、それは今でも分からない。
雨の夜に、お香。
今思えば随分と不思議な事だ。けれどそれは雨がもたらす水の匂いと、みぞれの湿度と溶け合って、ごく自然にこの鼻腔へ向かってきたのだ。
強張りを温めるような居所不明な懐かしさに、思わず肩の力が抜けた。
ただ、意識の外からふいにやってきたその香りは、その正体を確かめようと意識を向けた途端に、かき消えてしまった。
そんな、確かにしたはずなのに。
四方を見渡すけれど、こんなシャッター街の雨の夜、窓を開け放ってお香を焚く家など見当たらない。
今のはなんだったんだろう、と眉を寄せた時、
視線が勝手に他所を向いた。
駅前の通りから脇に逸れる細い道の先。そこに、濡れた夜道に光を落とす、一つのガラス戸を見つけた。
遠くから見ると、地面に映る影がふっと揺れる気配がする。さらに目を凝らすと、冷えて曇ったガラス戸の下の方に『……書店』という寂れた白文字が僅かに見えた。
その時、行かなければという強い衝動が湧いた。
駅に真っ直ぐ向かうはずの道を曲がり、吸い寄せられるようにその『書店』の文字の方へ進む。
……少し見るだけだ。
もし、ここで参考書が買えたらラッキーだし。
そのために行く、見に行くだけ。
そうなぜか自分に言い訳をしている。
湧き出した不思議な予感を、そんな風に理屈づける。
そう思って近づくうちに、次第に強まる雨音。
得体の知れない期待と胸の高まり。
何かがある。ここで何か、大事な何かが。
それだけが、その場所へ俺を引き寄せた。
スニーカーは完全に水没していて使い物にならない。手の甲がかじかんでほとんど感覚がない。雨なのか雪なのか分からないこの天気。
今はそんな事、どうでもよかった。
『 柴崎書店 』
小さな個人書店。
少し破れかけたテント屋根の下に、レトロな旧字体でそう書かれたガラスの引き戸がある。古い鉄筋造りのガサついた外観。かなり昔からあるだろう建物に、どうしてか今まで気が付かなかった。
店内の空気が結露して、ガラス戸を曇らせている。どんな本があるか外からはよく見えないが、中は電気がついているし、人の気配もある。
傘を閉じて、店の外に立てかける。
少しだけ錆のついた引き戸にそっと手をかけると、行くのか?と心の中の何かが俺に聞いた。
知らない人ばかりの進学塾に通い始めた時も、顔馴染みが1人も居ない中学に進学した時も。
新しい扉を開ける時は誰だって、いつも少しだけ臆病になる。それでもその先に、ちゃんと自分の居場所がある事を、俺はもう知っている。
扉はほとんど力を入れなくても開いた。
カラカラ、と乾いた音が静かな店内に大げさに響いた気がして、少し肩をすぼめる。そっと扉を元のように閉じて、中に完全に体を入れる。
扉を完全に閉めると、雨の音が一気に遠ざかって、代わりに静寂に満たされた。
目でキョロキョロと中を見渡す。
沈黙が、長い時間をかけて濃密に蓄積された佇まいで空間に充満して、背中が重い。
古いお店の紙と埃の匂い。ポタポタ、と雫の落ちる音。奥の方で鳴るファンヒーターの空気音。
本棚は左右の壁一面と中央に配置されていて、商店街らしい間口の狭さだが、奥行きがある。
ゆら、と奥の方で影が揺れた気がした。店員さんだろうか。ただ、軽く目線を一周回してみても、目当ての参考書があるような雰囲気はなかった。
そのかわり、古く厚みのある背表紙が、軍服を着た兵隊の群れのように、怖い顔をしてずらりと見下ろしてくる。あるいは、威圧的なおじいさんのようだと思った。
足元に視線を落とすと、濡れそぼったスニーカーが店内のコンクリート床に水を垂らして、濃く滲んでしまっている。
参考書はないようだ。
それに濡れた足やコートで本を汚しても申し訳ない。
帰ろうかとも思ったが、無言で入って、無言で出ていくのが、まるで泥棒ではないか?と思えて、その場でしばし固まった。
どうしよう。
その時、店の奥から聞こえるヒーターの音の上に、かすかな声が乗って聞こえた。
授業中、隣の机の人に「ねぇ、」と話しかけるような、静かで気負いのない声。ただそれは人の声ではなく、猫だった。猫だと分かったのは喉がクルルと鳴る音も聴こえたからだ。
猫が静かに「ナゥ」と言うと、次に聞こえたのは落ち着い雰囲気の男性の声だった。
「ん?」
ふんわりとした空気のような声がして、どきりとする。
その声に反応して、また猫が「アウゥ」と返事するように言った。
「ほんと?」
どこか、人間と猫の会話が成立しているようなそのやり取りに、何の話をしているのだろうと聞いていると、奥の方から、
「お客さん?」
と、聞こえて同時に、奥のレジカウンターから上半身だけがひょっこり見えた。
目が合ったお店の人は、少しだけ驚いて、目を大きく開いた。若い男の人だ。顔つきは幼いようだけど、身にまとう雰囲気は少し大人っぽくて、多分だけど大学生くらいに見える。
店番の息子さん?アルバイトかな。
お店の人はいないんだろうか。
「外、寒いでしょ、こっちおいで。」
細身の体を、ざっくりと大きい編み目の白いケーブルニットが包んでいた。ゆるくウェーブのかかった茶色い髪は頬の横にゆったりと辿り着き、その長めの前髪が、細いワイヤーフレームの大きなメガネにふわりとかかっている。
その奥で、優しげな瞳が暖かく俺を迎えた。
その人は170センチの俺と同じくらいに見えた。けれど、ゆったりとしたニットに隠した頼りない体格は、スポーツを小さい頃からやらされて来た中3の俺よりも、むしろ華奢なように見えた。
腕に抱えられたどっしりとした猫が、今にもずり落ちそうで、その細い腕には少し重たそうだ。
「こっちだよ。」
間口の狭い店の、その奥の方へ促され、言われるがままについていく。そこには奥の部屋へ続く扉があって、手前にはカウンターとレジがあった。
扉の奥は、事務所だろうか。
店の人は、その扉を開けて、まず大きな猫を中に入れた。それから自分も靴を脱いで中に入り、こちらを振り返って俺を手招きした。
奥の部屋は畳の小上がりのような造りで、書店スペースとは膝ほどの高さの段差があった。その手前に足を掛けるための石の踏み台がある。
「ほら、こっち。」
と何度も俺を呼ぶので、目的が分からず、ただそれを断った。
「いえ、あの、汚しちゃうし……。」
「風邪ひくよ。」
するとその人は奥からバスタオルを手に持ってきて、俺の頭を包んだ。
「脱いでほら。乾かしてあげるから。」
「えっ、待って、でも部屋が濡れます。
それに俺客じゃないし。」
「いいんだって、ほら。」
俺は、強引にダウンコートを脱がされ、奪われてしまった。それを部屋の中でヒーターの近くにかけてから、靴も脱いで中に入るよう言われた。けど、こんなにぐちゃぐちゃな足元で、そんな事出来るわけがなかった。
するとお店の人は、扉の足元にタオルを敷き、靴と靴下をまずそこで脱ぐよう言う。
「はい、もたもたしない。脱ぐ。」
「あ、はい。」
「足を、ふく。」
「すみません。」
「ここに座る。」
足を拭いてから店の奥の暖かい部屋に入り、促されたのは、一人がけのソファだった。茶色の合皮で、シートには薄い座布団がひかれている。ファンヒーターが足元にあたり、濡れた指先が乾き、ほぐれていく。あったかい。
「寒くない?ズボン濡れてんじゃないの?」
「いえ!それは、ないです。」
濡れてないし、濡れてても脱ぎたくない。
慌てて断ると、
「そう。」
とお店の人は軽く笑って、毛布を膝にかけてくれた。
彼は、ちょっと待っててね、と言うと、俺の濡れたスニーカーにその辺にあった古新聞を丸めて詰め込み、ヒーターの風のあたる場所に立てかけた。それからぐっしょりした靴下はタオルで拭き取り、同じように掛けてくれた。
事務所か何かかと思ったその部屋は小さいリビングのようで、明らかにここで人が暮らしている空気があった。
人が2人入ればそれで手狭に感じてしまうほどの、ささやかで暖かい部屋。
大きな一人がけのソファ。
天板の小ぶりな丸いテーブル。
小さなコンロと、シンク。
僅かしか入らない食器棚。
一人分の冷蔵庫。
猫のケージ、ペットシート。
そのどれも清潔に使い込まれ、狭いながらも心地の良い生活感があった。
「コーヒー飲める?」
え、と答えに困ったのは、飲めないと言いたくないからだ。
「あ、えっー。はい。」
そう?とその人は小首を傾げ、「お砂糖とミルク多めにしようかな?」と聞いて来たので、俺はただ「はい」と返した。
その人がお湯を沸かす間、急に冷静になってしまった。
どうしよう。
何も分からず、言われるがまま、こうして濡れたものを乾かしてもらっているけど、いいんだろうか。
暖かくなった足の指先同士を擦りながら思う。
帰らなければ。帰って良いのだろうか。
何故、本屋とはいえ、知らない人の家に上がっちゃってるんだろう。
「あの……すみません。」
お湯を沸かしているその人の背中に向けて、おずおずと話しかけた。
「なぁに?」
「あの……ありがとうございます、乾かしてもらったりして。」
「そんなの。いいのいいの。」
はい、と湯気のたつマグカップが置かれる。
「ミルクたっぷり、砂糖たっぷり。どうぞ?」
と、その人は向かいの椅子に腰掛けようと、少し屈んだ。
「本当にすみません。コーヒー飲んだらすぐ帰ります。」
するとその人は、えっ、と発し、下ろそうとした腰をそのまま止めて、こちらを見る。
そして、
「もう帰っちゃうの?」
と言うので、少し驚いた。
いや。時間も時間だ。
時計を見る。
「はい。」
参考書が置いてないのなら早く店を出ないと。
そして、買いに行かないと。
分かっている。
けれど、ごくりと一口の飲んだそのコーヒーは
熱すぎず、甘すぎず、ミルクと砂糖が絶妙で、
体の中からじわりと温度を上げた。
おいしい。
このコーヒーが美味しい。
「そっか。」
そしてその人は少し寂しそうに笑うのだ。
どうしてだろう。
どうして俺なんかを引き止めようとするんだろう。
美味しいコーヒーを出されて、
体を温めてくれて、
挙句にそんな顔をされたら、困ってしまう。
けれど、俺も、ここを出て、それから……
どうするのだろう。
せっかく乾かしてくれた暖かい靴を、またわざわざ濡らして駅まで行って。電車に乗って降りて。駅から本屋まで歩いて、買って。買ったらまた電車で?
……嫌だなぁ。
心底そう思った。マグカップが暖かい。
ああ、このまま帰りたい。
濡れたくない。
寒いところに、もう行きたくない。
完全に気が緩んだ。
ついさっきまであった、杉本への対抗心だとか、受験のこととか、色々なことに対する苛立ちとか、刺々しい何か、カッカした気持ちが、もうすっかり自分の中から抜け落ちてしまった。
心にあるのは、ただ、癒されて、柔らかく解けた安心感。ほやほやになったこの心と体のまま、あの寒い冬空にもう一度立ち向かう気力がない。
「遅いもんね、もう。」
時計は20時半の少し前。
「あ、親に連絡します。」
塾のカバンからスマホを出して、スタスタ、とメッセージを送る。
『参考書を買うので本屋に寄ってから帰ります。
少し遅くなります。』
「お家どこ?近く?」
「え、はい。でも、ちょっと俺寄りたいところが。」
「えっ、今から?どこ行くの?送るよ、遅いし危ない。」
「本屋です。」
「ん?」
「え?」
一瞬遅れて、その人は、ああ!と一人で納得した。
「ごめんね。本屋か。だよね、本屋に来たんだもんね。本屋だもんねここ。ごめんね?」
とその人は何度も謝った。
「いや……。僕、君のことこんな勝手に、引き留めちゃって。やだなあ、そうだよね、本屋に来たんだもんね。」
と分かるような分からないようなことを、自分に言い聞かせるように言っている。
「あの、このお店、参考書とか、置いてないですよね。
中3の。」
「あ、中3。……中3か。ああ、そっか。」
まるで自分自身に言い含めるように「15さい」と反復してから、
「ごめん、置いてないんだ。
ここ、古本屋で。」
「古本屋?あ、そうだったんですね。
俺の方こそすみません勝手に。
あの、お父さんとかは?」
「え?」
「あの、店番かアルバイトの人ですよね?
お店の人はどこですか?まだ帰って来ないんですか?
俺を勝手に入れて勝手にコーヒー飲んで
怒られませんか?」
その人は目を大きく開けた。
瞳が澄んでいる。髪の色と同じ、薄い茶色。
それからその人は、か細い人差し指を自分へ向けて、
これ以上ないくらいに綺麗に笑った。
「僕です。結城って言います。
僕がこのお店の人です。」
