夜の雪がようやく止んだ朝。
 窓の外は、一面の白に包まれていた。
 音のない世界。
 息を吸えば、胸の奥まで冷たい光が届くような静けさ。

 悠真は、眠りから引きずり上げられるようにして目を開けた。
 胸の中でざわつく何かが、眠り続けることを許さなかった。

 ――ミコト。

 不安が、冬の冷気より先に肌を刺した。

 部屋の空気がわずかに揺れた。
 鈴の音が、ひとつ。

 チリン……

 その音に導かれるように振り向くと、
 そこに――白いワンピース姿の女性が立っていた。

 雪の光を透かしたように淡く、
 けれど確かな輪郭を持って。

 「……由梨……?」

 声は震えていた。
 夢と現実の境をつかめずにいるその声を、
 女性は優しく微笑んで受け止めた。

「違うよ、悠真。
 でも――“由梨の想い”そのものではあるの。」

 その姿は紛れもなく由梨だった。
 あの日の笑顔、あの日の瞳、あの日の温度。
 ミコトの声の奥に微かに重なっていた響きが、
 今、姿を持ってここにある。

 悠真は息を呑んだ。

「ミコト……なのか?」

 女性は静かに頷いた。

「ええ。あなたが愛した人の祈りと、
 あなたを救いたい願いで生まれた“猫神ミコト”。
 そして今は……由梨の魂の最後の灯火。」

 雪明かりが、由梨の姿を柔らかく照らす。
 だが、その輪郭はもう、少し透けていた。

***

◆別れの言葉

「悠真」

 名前を呼ばれただけで、胸が締めつけられる。
 亡くなったはずの人が、今、目の前にいる――
 その奇跡の痛みが、心を震わせる。

「あなたは、ずっと自分を責めてきたね」

 由梨の声が静かに部屋に落ちる。

「“守れなかった”って思ってる。
 “俺も一緒に死んでいればよかった”って思ってる」

 悠真は顔を歪めた。
 その言葉は、誰にも言えなかった心の奥底そのものだった。

「……俺が……道路側に立っていたら……
 あの日、君は……死ななくて済んだんだ」

「違うよ、悠真」

 由梨の姿のミコトは首を振った。

「事故は、誰のせいでもない。
 あなたが生きていたこと……それだけが、私の救いだった」

 そっと、由梨が手を伸ばす。
 指先が触れた気がした。
 けれどそれは風に触れたように優しく、頼りない。

「生きて、悠真。
 私の分まで、ちゃんと生きて。
 あなたが書く言葉が、誰かの祈りになるまで」

 鈴がまた一度だけ鳴った。

 チリン……

◆崩れた心と、抱きしめた幻

「待ってくれ……行くな……」

 悠真は震える声を出しながら、
 由梨の姿に駆け寄り、その身体を抱きしめた。

 暖かかった。
 ほんの少し、確かに。

 その瞬間――悠真は子どものように泣き崩れた。

「由梨……!
 守れなくてごめん……!
 あの時、俺が……俺が側にいたのに……!」

「うん」

 由梨は抱きしめ返すように腕を動かす。
 その感触は儚く、けれど優しかった。

「俺も……君と一緒に死ねばよかった。
 そうすれば……君をひとりぼっちにしなくて済んだのに……!!」

 嗚咽がこぼれ、肩が震える。
 胸の奥に積もった七年分の後悔が、すべて溢れ出した。

 由梨はその背を撫でるように、囁いた。

「悠真……。
 あなたが生きてくれたから、私は救われたの。
 あなたがここにいるから、私は祈りとして残れたの」

 その声は、涙よりも優しい。

「私が最後に願ったのは――
 “悠真が生きていますように”だったんだよ」

 悠真の呼吸が止まった。

 由梨は微笑んだ。

「だから、あなたは一緒に死んじゃいけなかった。
 あなたが生きてくれたことが……私の“最期の願い”を叶えたんだよ」

***

◆光の中で

 由梨の身体がゆっくりと光に溶け始める。
 髪が風に揺れ、雪明かりとひとつになる。

「ま……待ってくれ……まだ言いたいことが……!」

「言わなくていいの。
 全部、伝わってるから」

 由梨は悠真の頬に手を添える仕草をした。
 指先はもう触れられないほど薄くなっている。

「生きて、悠真。
 私の分まで。
 あなたの未来を……書き続けて」

 最後に、微笑んだ。

「愛してるよ。ずっと。」

 そして――

 光の粒となって消えていった。

 鈴の音だけが、朝の空気に静かに残る。

 チリン……
 チリン……

 悠真はその場に崩れ落ち、顔を覆って泣き続けた。
 雪の朝の静けさは、彼の痛みをただ抱きしめていた。

 けれどその涙の奥で、
 たしかに“何かが解けていく”音がしていた。