夜の気配が、街の屋根を冷たくなぞってゆく。
悠真は原稿に集中していたが、ミコトは静かに窓辺へ歩き、外の冷えた空気を吸い込んだ。

「……今夜は、風が泣きそうな匂いがする」

独り言のように呟き、窓の隙間から身を滑らせる。
悠真に気づかれぬよう、白い影は夜の道へと降り立った。

街灯に照らされるアスファルトは、まだ冬の冷たさを宿している。
空には薄い雲が流れ、風がゆっくりと街をかすめる。

ミコトは歩いた。
どこへ、というわけではない。
ただ胸の奥に引っかかる“何か”に導かれるように。

と――。

「……あれ?」

公園のベンチの前で、小さな女の子が涙をぬぐっていた。
小学校に上がるかどうかの年頃だろう。
手には古びたランドセル。
その横で、小さな鈴が落ちている。

ミコトは近づき、そっと声をかけた。

「こんな夜に、どうしたの?」

少女は驚きながらも、涙をこぼしたまま口を開いた。

「……ねこ、しゃべった……?」

「驚くことではないよ。君が、とても悲しそうな顔をしていたから」

少女は胸の奥の痛みを抑えきれないように、ぎゅっと両手を握った。

「……ママが……びょうきなの。
 今日、お医しゃんに言われたの。
 もう少しで、手じゅつできなくなるかもしれないって……」

声が震え、涙が頬を伝う。

ミコトは黙って傍らに座った。
少女の足は冷たく、強く震えている。

「名前を……聞いてもいい?」

「……灯(とも)。
 ひかりの、あかりって書いて、とも」

「いい名前だね。夜の道を照らしてくれる」

灯は鼻をすすりながら、ミコトをじっと見た。

「ねこさん……もしかして、かみさま……?」

ミコトはその問いに、小さく目を伏せた。

「……神というほど、偉くはないよ。

 でも、君の涙が落とした“祈り”には、応えられるかもしれない」

「祈り……?」

「そう。誰かを生かしたい、って思う心だよ」

灯はぐしゃぐしゃの瞳で、ミコトの前に手を合わせた。

「ママ……ママが、なおりますように……!
 わたし、なんでもするから……」

その瞬間、ミコトの胸の奥に微かな光が灯った。
まるで、遠い昔の暖かい手が背中に触れたような感覚。

――彼女の祈りが、私に触れている。

ミコトはその光を吸い込むように、深く息をした。

身体の中心が温かくなる。
綻びていた妖気が、ほんの少しだけ満ちていく。

「ありがとう、灯。
 君の祈りはとても強い。お母さんは……大丈夫。
 “まだ”間に合うよ」

「ほんとう……っ?」

ミコトはそっと灯の額に鼻先を寄せた。

「君の願いが、私の力を戻してくれた。
 だからきっと、道はまだ続いていく」

灯は何度も頷きながら、泣き笑いの顔で言った。

「ねこさん……ありがと」

ミコトは柔らかく微笑んだ。
その鈴の音が、風の中で小さく揺れる。

だが――次の瞬間。

ふ、とミコトの前足が透明になった。

「……っ」

小さな違和感に視線を落とす。
先ほどまで確かにあった白い毛並みが、そこだけ光に溶けるように消えていた。

灯が気づき、目を丸くする。

「ねこさん……? て……てが……!」

ミコトはすぐに前足を背中に隠し、優しく微笑んだ。

「大丈夫、心配しないで。
 これは、君のせいではないんだ。
 祈りに応えるたび……私は“元の場所”に戻る時が近づくから」

「戻る……?」

「うん。でも、それは怖いことじゃないよ」

ミコトはそっと灯の手を取るように、前足を添えた。
その触れた感覚すら、もう少しで風に溶けてしまうように儚かった。

「灯。今日の涙は、強い祈りになった。
 君はもう大丈夫。家に帰って、お母さんをぎゅっと抱きしめてあげて」

灯は唇を噛みしめながら、何度もうなずいた。

「……ねこさん。また会える?」

ミコトの瞳に、ほんの少しだけ悲しみが滲んだ。

「会うよ。必ず。
 だって――君の祈りは、私が忘れないから」

灯は涙を拭い、ミコトに深く頭を下げた。
そして小さく走り出した。

「ありがとう……! ねこさん……!」

小さな影が夜道の向こうへ消えてゆく。

ミコトはその背中を見送りながら、そっと空を見上げた。

黒い空。
淡い雲。
冷たい風。

そして――胸の奥に、またひとつ痛みが生まれていた。

「……灯。君の祈りは美しい。
 だけど……私の時間を削るほどに、強い祈りだった」

ミコトは空に向かって、鈴をひとつ鳴らした。

“ちりん……”

その音は、どこか遠くで由梨が呼ぶような響きを持っていた。

「……悠真。
 私が消える前に……君に伝えなければいけないことがある」

風が、ミコトのからだを吹き抜けた。
尻尾の先が、一瞬だけ透ける。

ミコトは歩き出す。
夜の街をゆっくりと。
崩れ落ちそうな身体を支えながら。

――まだ終わっていない。
――あの約束を果たすまでは。

鈴の音が、夜の道に消えていった。