取材のために向かった山あいの小さな町は、まだ冬の名残を強く留めていた。
細い坂道を上がるほどに空気は澄み、吐く息が白くほどけていく。
その先にあるのが、悠真が今日訪れる神社――「白祈(しらぎ)神社」だった。
「こんなところに、まだ神社が残ってたんだな……」
鳥居は古びていて、ところどころ朱が剥がれ、木肌が露出している。
それなのに不思議と荘厳さを感じるのは、積もった雪が静寂を守っているからだろう。
手水舎のそばで掃除をしている男がいた。白い作務衣に、落ち着いた眼差し。
年齢は四十前後だろうか。落ち着いた佇まいの人物が穏やかな声で言った。
「――あなたが、悠真さんですね?」
「え……? はい。そうですが……」
「桐生と申します。この神社の宮司をしています。編集部の方から、あなたが来ると連絡がありまして」
柔らかく微笑む。その目は、すべてを見通しているような深さを持っていた。
「取材ということで、どうぞ何でも聞いてください」
悠真は境内を歩きながら、桐生の説明に耳を傾けた。
木々の間を抜ける風が、微細な鈴の音のように感じられる。
「この神社は、古くから“祈りの神”を祀っています。人々が心で願うことに応える神――形なき存在です」
「祈りの……神」
その言葉が胸の奥で静かに響いた。
桐生は一度立ち止まり、悠真に視線を向ける。
「悠真さん。あなたは……“祈り”を信じていますか?」
「祈り、ですか……」
曖昧に返しながら、悠真の脳裏に昨夜のことがよぎった。
ミコトが枯れた花をスノードロップに変えた瞬間。
由梨の夢。その涙、その声。
――生きて。
まるで祈りのように響いた言葉。
「……信じてない、と思っていました。でも最近は……少しだけ、わからなくなってきて」
「なるほど」
桐生は微笑み、社殿の前で手を合わせた。
「祈りとはね、誰かを思う気持ちのことです。
神とは、その“形”であって、決して姿かたちではないのですよ」
「……姿かたちでは、ない?」
「はい。人が心の中で生み出し、繋ぎ、託すもの。
だから神は“現れる”のです。必要とされた時に」
まるで悠真の胸の奥を見透かしているかのような言葉だった。
「あなたのそばに……“特別な存在”はいませんか?」
その問いに、息が止まりそうになる。
ミコトの姿が頭に浮かぶ。白い毛。鈴の音。あの光。
「……どうして、そんなことを」
桐生は穏やかに笑っただけだった。
「私はただ、祈りの行く先を見守る者です。
それに――神というのは、人の心に寄り添うものですから。
誰かを救いたいと願う魂が、別の形を借りて現れることもあります」
“別の形を借りて”。
悠真は震える息を吐く。
ミコトのあの笑顔。
ふと見せる寂しげな表情。
どこか――由梨に似ていた。
「……もし、誰かの魂が別の姿で現れたなら。
その理由は、なんでしょうか」
「簡単ですよ」
桐生は空を見上げた。雪は降っていなくても、冬の気配は深い。
「残された者を、生かしたいからです」
その言葉が胸に刺さる。
呼吸が苦しくなるほどに、胸の奥が熱くなる。
「祈りは、言葉と同じです。
言葉は人を救います。あなたは作家でしょう?」
「……はい」
「ならば、書くんです。
あなた自身の祈りを、物語という形にして」
それは神仏の教えというより、作家への励ましのようだった。
けれどなぜだろう――桐生の声は、遠く懐かしい響きを持っているように感じられた。
「……俺に、書けるでしょうか」
桐生は微笑んだ。
「書けますよ。あなたが書かずに誰が書くんです。
あなたの言葉は優しい。
誰かを救えるほどに、強い」
その瞬間、境内のどこかで――“ちりん……”と鈴の音が鳴った。
風は吹いていないのに、はっきりと。
悠真は思わず振り返る。
「ミコト……?」
白い影が鳥居の向こうを横切ったように見えた。
桐生は何も言わず、ただ微笑んでいた。
まるで、その存在を知っているかのように。
***
帰り道、悠真の胸には不思議な温もりが残っていた。
祈りとは、誰かの気持ち。
言葉とは、その形。
桐生の言葉が、頭の中で反芻する。
家に帰ると、ミコトが机の上に座っていた。
白い尾を揺らしながら、小さな鈴の音を鳴らす。
「おかえり、悠真。今日の風は……優しかったろう?」
「……見てたのか?」
「君のことは、全部わかる」
ミコトは、微笑むというより、どこか慈しむような表情を浮かべた。
「ねえ悠真。君は書いた方がいい。
書くことは、祈ることに似ているから」
その言葉に、胸が震えた。
桐生と同じことを言うなんて。
「……ミコト。お前は、いったい……」
問いかける声は最後まで続かなかった。
ミコトが、そっと額を悠真の胸に寄せたからだ。
「大丈夫。すべて、もう少しだよ。
君は“正しい言葉”を思い出す途中にいるだけ」
「正しい……言葉?」
ミコトは答えず、ただ小さく鈴を鳴らした。
優しい音が部屋に溶け、心を静かに包む。
「さあ、続きを書こう。
君の祈りは、まだ終わっていない」
悠真は深く息を吸い、机に向かった。
白い紙にペン先を落とす。言葉が流れ出す。
書くことは、祈ること。
誰かを救うための、微かな灯。
――その祈りが、どこへ向かうのか。
――誰を救うのか。
その答えを、悠真はまだ知らない。
けれど確かに、言葉は動き始めていた。
ミコトの鈴の音に導かれながら。
細い坂道を上がるほどに空気は澄み、吐く息が白くほどけていく。
その先にあるのが、悠真が今日訪れる神社――「白祈(しらぎ)神社」だった。
「こんなところに、まだ神社が残ってたんだな……」
鳥居は古びていて、ところどころ朱が剥がれ、木肌が露出している。
それなのに不思議と荘厳さを感じるのは、積もった雪が静寂を守っているからだろう。
手水舎のそばで掃除をしている男がいた。白い作務衣に、落ち着いた眼差し。
年齢は四十前後だろうか。落ち着いた佇まいの人物が穏やかな声で言った。
「――あなたが、悠真さんですね?」
「え……? はい。そうですが……」
「桐生と申します。この神社の宮司をしています。編集部の方から、あなたが来ると連絡がありまして」
柔らかく微笑む。その目は、すべてを見通しているような深さを持っていた。
「取材ということで、どうぞ何でも聞いてください」
悠真は境内を歩きながら、桐生の説明に耳を傾けた。
木々の間を抜ける風が、微細な鈴の音のように感じられる。
「この神社は、古くから“祈りの神”を祀っています。人々が心で願うことに応える神――形なき存在です」
「祈りの……神」
その言葉が胸の奥で静かに響いた。
桐生は一度立ち止まり、悠真に視線を向ける。
「悠真さん。あなたは……“祈り”を信じていますか?」
「祈り、ですか……」
曖昧に返しながら、悠真の脳裏に昨夜のことがよぎった。
ミコトが枯れた花をスノードロップに変えた瞬間。
由梨の夢。その涙、その声。
――生きて。
まるで祈りのように響いた言葉。
「……信じてない、と思っていました。でも最近は……少しだけ、わからなくなってきて」
「なるほど」
桐生は微笑み、社殿の前で手を合わせた。
「祈りとはね、誰かを思う気持ちのことです。
神とは、その“形”であって、決して姿かたちではないのですよ」
「……姿かたちでは、ない?」
「はい。人が心の中で生み出し、繋ぎ、託すもの。
だから神は“現れる”のです。必要とされた時に」
まるで悠真の胸の奥を見透かしているかのような言葉だった。
「あなたのそばに……“特別な存在”はいませんか?」
その問いに、息が止まりそうになる。
ミコトの姿が頭に浮かぶ。白い毛。鈴の音。あの光。
「……どうして、そんなことを」
桐生は穏やかに笑っただけだった。
「私はただ、祈りの行く先を見守る者です。
それに――神というのは、人の心に寄り添うものですから。
誰かを救いたいと願う魂が、別の形を借りて現れることもあります」
“別の形を借りて”。
悠真は震える息を吐く。
ミコトのあの笑顔。
ふと見せる寂しげな表情。
どこか――由梨に似ていた。
「……もし、誰かの魂が別の姿で現れたなら。
その理由は、なんでしょうか」
「簡単ですよ」
桐生は空を見上げた。雪は降っていなくても、冬の気配は深い。
「残された者を、生かしたいからです」
その言葉が胸に刺さる。
呼吸が苦しくなるほどに、胸の奥が熱くなる。
「祈りは、言葉と同じです。
言葉は人を救います。あなたは作家でしょう?」
「……はい」
「ならば、書くんです。
あなた自身の祈りを、物語という形にして」
それは神仏の教えというより、作家への励ましのようだった。
けれどなぜだろう――桐生の声は、遠く懐かしい響きを持っているように感じられた。
「……俺に、書けるでしょうか」
桐生は微笑んだ。
「書けますよ。あなたが書かずに誰が書くんです。
あなたの言葉は優しい。
誰かを救えるほどに、強い」
その瞬間、境内のどこかで――“ちりん……”と鈴の音が鳴った。
風は吹いていないのに、はっきりと。
悠真は思わず振り返る。
「ミコト……?」
白い影が鳥居の向こうを横切ったように見えた。
桐生は何も言わず、ただ微笑んでいた。
まるで、その存在を知っているかのように。
***
帰り道、悠真の胸には不思議な温もりが残っていた。
祈りとは、誰かの気持ち。
言葉とは、その形。
桐生の言葉が、頭の中で反芻する。
家に帰ると、ミコトが机の上に座っていた。
白い尾を揺らしながら、小さな鈴の音を鳴らす。
「おかえり、悠真。今日の風は……優しかったろう?」
「……見てたのか?」
「君のことは、全部わかる」
ミコトは、微笑むというより、どこか慈しむような表情を浮かべた。
「ねえ悠真。君は書いた方がいい。
書くことは、祈ることに似ているから」
その言葉に、胸が震えた。
桐生と同じことを言うなんて。
「……ミコト。お前は、いったい……」
問いかける声は最後まで続かなかった。
ミコトが、そっと額を悠真の胸に寄せたからだ。
「大丈夫。すべて、もう少しだよ。
君は“正しい言葉”を思い出す途中にいるだけ」
「正しい……言葉?」
ミコトは答えず、ただ小さく鈴を鳴らした。
優しい音が部屋に溶け、心を静かに包む。
「さあ、続きを書こう。
君の祈りは、まだ終わっていない」
悠真は深く息を吸い、机に向かった。
白い紙にペン先を落とす。言葉が流れ出す。
書くことは、祈ること。
誰かを救うための、微かな灯。
――その祈りが、どこへ向かうのか。
――誰を救うのか。
その答えを、悠真はまだ知らない。
けれど確かに、言葉は動き始めていた。
ミコトの鈴の音に導かれながら。



