午後の光が沈みかけた街を歩いていると、どこか懐かしい声が響いた。
「……悠真?」
振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。智之――大学時代の友人であり、由梨の幼馴染でもあった男だ。

「やっぱりお前か。久しぶりだな」
「……智之」
握手を交わす手が、わずかに震えた。思い出が波のように押し寄せてくる。

二人は近くの喫茶店に入った。カップの縁から立ち上る湯気が、曇ったガラスに白い影を描く。

「お前、まだあの部屋に住んでるのか?」
「ああ。……変わらない場所にいた方が、落ち着くから」
智之は一瞬、目を伏せた。
「……あの日から、お前のことがずっと心配だった。由梨が――」
その名を口にする声が震えていた。

悠真は静かにカップを置いた。
「俺のせいだと思ってるんだ。あの日、もし俺が手を伸ばしていれば……」
「違う。」智之が首を振る。
「由梨はお前を責めてなんかいない。あいつ、最後までお前のことを心配してたんだよ。」

言葉が、胸の奥で凍りついた氷を少しだけ溶かす。
「……ありがとう」
「なあ、悠真。お前、また書けよ。由梨が好きだった、お前の物語を」
その言葉に、悠真は視線を落とした。
「……もう、書ける気がしないんだ。言葉が、あの日の雪に埋もれたままで」

智之はそれ以上は言わず、カップの底を見つめていた。
店を出ると、外は細かな雪が舞っていた。
「寒いな。風邪ひくなよ」
「お前もな」
互いに微笑み、別れたあと、悠真は小さく息を吐いた。
――由梨が好きだった、スノードロップの季節。

***

夜。
部屋に戻ると、ミコトが窓辺に座っていた。
白い毛が月明かりに照らされて、薄く透けて見える。

「悠真、少し顔が赤いな。寒かったのか?」
「……ただの偶然だよ。昔の友人に会っただけだ」
「ふうん。けれど、君の目は少し柔らかくなっている」
「そうか?」
ミコトはくすりと笑い、テーブルの花瓶を見た。
中には、枯れかけた白い花が差してある。

「この花、由梨の……」
「スノードロップ。由梨が好きだった花だ」
ミコトはその花をじっと見つめ、ふっと目を閉じた。

「祈りの花、という意味があるんだよ」
「祈り?」
「そう。誰かの幸せを願う花。……少し、力を借りてもいいかい?」
悠真が頷くと、ミコトは小さな鈴の音を鳴らした。
その瞬間、部屋の空気がふわりと揺れる。

花瓶の中で、枯れていた茎がゆっくりと立ち上がり、白い花弁がひとつ、またひとつと開いていった。
やがて、淡い光に包まれた花が咲き誇る。

「ミコト……これは」
「祈りのかたち。君の心が、ようやく動いたから」
「……ありがとう」
悠真の声が震えた。胸の奥に、温かな何かが戻ってくる。

ミコトは静かに微笑んだ。
「人の祈りは、神より強いこともあるんだよ」
「……そんなこと、あるのか?」
「君が今、証明しているじゃないか」

その夜。
悠真は机に向かい、久しぶりにノートを開いた。
ペン先が紙を滑る。言葉が流れ出す。
“雪の夜、白い猫に出会った。”

ミコトがその背後で小さく鈴を鳴らす。
「それが、君の新しいはじまりだよ」

***

夜更け。
ふと、ペンを置いた悠真の意識がゆっくりと沈んでいく。
夢の中。
雪の舞う道に、由梨が立っていた。

「……由梨」
彼女は微笑んだ。
「覚えてる? “いつか、春を描いて”って言ったの」
「そんな昔の話、よく覚えてるな」
「だって、約束したでしょ」
由梨の手には、白いスノードロップ。
「あなたが書く言葉は、きっと誰かを救う。だから――生きて」

その声が、雪の中に溶ける。
彼女の手からこぼれた花びらが、光を放ちながら舞い落ちた。

悠真が目を覚ますと、枕元に一片の白い花びらが落ちていた。
窓辺では、ミコトが静かに佇んでいる。
「……ミコト?」

鈴の音が、ひときわ澄んで鳴った。
その身体が、一瞬だけ淡く光を帯びて透ける。

「ミコト、お前……?」
「大丈夫。これは、“祈りの代償”だよ」
その笑みが、どこか由梨に似ていた。

「祈りの……代償?」
「うん。けれど、怖がらないで。まだ、終わりじゃない」

ミコトは再び窓の外を見上げた。
雪の夜空に、月が淡く滲んでいる。
その鈴の音が、まるで別れの前触れのように静かに響いた。

悠真は胸の奥に言いようのない不安を覚えながらも、その背を見つめていた。
――ミコト、お前はいったい、誰なんだ。

白い花弁が、ゆっくりと床に落ちる。
その音すらも、鈴の音に溶けていった。