午後の光が、レースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
 パソコンの画面には、白紙の原稿。
 カーソルが点滅する音が、妙に静かに響いている。

 コーヒーの香りが漂う中、悠真は背もたれに体を預けて深いため息をついた。
 ミコトは窓辺で寝転がり、外を眺めている。
 時折、尻尾の先を小さく動かすだけで、まるで風の流れを読んでいるようだった。

「……書けないのか?」
 不意にミコトが言った。

「うるさい。書こうとしてるところだ」
「言葉が動かぬのは、心が止まっている証だ」
「うるさいって」
 悠真は小さく笑った。
 言い返せるようになったのは、最近のことだ。

 そのとき――玄関のチャイムが鳴った。

 悠真は立ち上がってドアを開けた。
 そこに立っていたのは、一人の女性だった。

「……綾女?」

 落ち着いたスーツ姿、髪を後ろでまとめた姿。
 編集者の綾女は、相変わらずの穏やかな笑顔を浮かべていた。

「久しぶりね、悠真くん」
「本当に……久しぶりだな」
「入ってもいい?」
「あ、ああ」

 綾女が部屋に入ると、ミコトがすぐに反応した。
 窓辺から姿勢を起こし、鋭い目でじっと綾女を見つめる。

「まあ、可愛い猫ね」
「……気をつけたほうがいい。そいつ、ちょっと変だから」
「変とは失礼な」
 ミコトがぴしゃりと声を上げ、綾女が驚いたように目を丸くした。

「え? ……いま、喋った?」
「幻聴ではない。わたしは神だ」
「神?」
 綾女はぽかんと口を開け、そして笑い出した。
「面白い子ね」
 ミコトはむっとして尻尾を振った。

「……で、どうしたんだ? 急に」
 悠真が尋ねると、綾女は鞄から一枚の企画書を取り出した。

「次の特集、テーマが“喪失と再生”なの。
 あなたの筆で書いてほしいの」

「俺に?」
「そう。あなたの言葉が、ようやく“冬”を越えたように見えたから」

 悠真は目を伏せた。
 綾女は続ける。

「ねえ、悠真くん。由梨さんのこと、あなたはずっと背負ってるんでしょう?」
「……そうかもしれない」
「でも、彼女が生きていたら、きっと言うわよ。“書いて”って」

 その言葉に、悠真は息を詰まらせた。
 心のどこかでずっと、由梨の声が聞こえていた気がした。
 「まだ、書けるよ」と。
 だが、それを信じるのが怖かった。

「……俺は、由梨のために書けるほど強くない」
「いいじゃない。誰のためでもいい。
 ただ、あなたがもう一度“言葉”を信じられるなら、それで」

 綾女はそう言って微笑んだ。
 その横で、ミコトがじっと二人を見つめていた。

 突然――鈴の音が鳴った。

 澄んだ、やわらかな音。
 どこからともなく響くそれに、綾女が驚いて辺りを見回す。
「今の、何の音?」

 悠真も息を呑む。
 ミコトの身体が、淡く光を帯びていた。
 風はないのに、白い毛がふわりと揺れる。

「ミコト……?」
「……懐かしい音だ」

 ミコトが静かに目を閉じる。
 その声には、深い哀しみと祈りが混じっていた。

「この音は、“彼女”の祈りの残響だ」
「彼女?」
「お前の“由梨”だ」

 悠真の胸が一瞬にして熱くなった。
 綾女は静かに息を呑んで後ずさる。

「由梨……の?」
「そうだ。
 お前が今も彼女を想い続けているからこそ、
 この鈴は響いた。祈りは、決して途切れてなどおらぬ」

 部屋の空気が、光に満ちていく。
 ミコトの瞳がわずかに潤んでいた。

「……この音は、わたしがこの世に繋ぎとめられている証。
 由梨の魂が、わたしの中に微かに宿っている。
 彼女の想いが、お前を呼んでいるのだ」

 悠真は呆然とその場に立ち尽くした。
 由梨の魂――。
 そんな馬鹿な。
 だが、あの夜以来ずっと、どこかで感じていた。
 “見えない何か”が、自分の傍にいるような気配を。

 ミコトの鈴の音が、優しく響く。
 まるで、雪の夜の記憶を撫でるように。

「彼女は、言葉を残したがっている。
 お前に書いてほしいと――」

「……彼女が?」
「そうだ。お前の言葉で、彼女を生かしてやれ」

 悠真は唇を噛んだ。
 胸の奥から込み上げるものが、どうしようもなく溢れてくる。

 綾女がそっと彼の肩に手を置いた。
「悠真くん。あなたの言葉は、まだ生きてる」

 その一言が、氷を溶かした。

 悠真は机に向かい、パソコンを開いた。
 指が震える。
 だが、次の瞬間、キーボードを叩く音が響き始めた。

 ――“雪の夜、神が猫の姿をして現れた。”

 ミコトが静かに微笑んだ。
「それでいい。言葉は祈り。祈りは、生の証だ」

 窓の外で風が吹き、カーテンが揺れた。
 鈴の音がもう一度響く。
 それはまるで、由梨が“ありがとう”と言っているように。

 綾女がそっと呟いた。
「……いい音ね。まるで、誰かが見守ってるみたい」
 悠真は頷いた。

「そうだ。あいつは、ずっとここにいる」

 ミコトがゆっくりと目を閉じ、尾を一度だけ揺らした。
 光がその体を包み、再び静けさが戻る。

 だが、悠真の胸の奥には確かに残っていた。
 鈴の余韻。
 それは、祈りと再生を告げる音。

 その日、悠真は久しぶりに夜通し書き続けた。
 書くたびに、遠いどこかで鈴の音が響いた気がした。
 まるで、由梨とミコトが並んで、彼を見守っているようだった。

 そして夜明け――。

 窓辺に白い光が差し込み、
 ミコトは静かに言った。

「お前の言葉が、彼女をこの世に留めている。
 だから、恐れず書け。わたしもまた、祈りとして在ろう」

 悠真はペンを置き、窓の外を見上げた。
 雪はもう止み、雲の切れ間から光が降り注いでいた。

 鈴の音が、最後にもう一度だけ――確かに響いた。
 それは、二人の魂を繋ぐ、優しい音だった。