冬の陽が傾き始めた午後、ストーブの音だけが静かに響いていた。
 窓の外にはまだ雪が残り、白い光が反射して部屋の中をぼんやりと照らしている。

 悠真は机に向かって原稿を打ち込みながら、ふと後ろを振り返った。
 ミコトがストーブの前で丸くなっていた。
 小さな身体をぴくりとも動かさず、しかし耳だけは敏感に反応している。

「……おい、ミコト。寝てるのか?」
「寝ているように見えるか?」
「いや、どう見ても寝てるように見える」
「ならば、それでよい」
 ミコトは目を細めたまま、尻尾だけをゆるりと動かした。

 そんなやり取りが、この頃の日常になっていた。

 ミコトはよく喋り、よく食べ、よく寝る。
 テレビの前に陣取ってニュースを眺め、「人の世界は忙しない」と呟く。
 悠真がコーヒーを淹れると、鼻をひくつかせて「苦い香りだな」と文句を言い、
 くしゃみをしてはまた毛づくろいを始める。

 不思議な存在だった。
 それでも――
 ミコトがいるだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。

 ***

「悠真。お前、今日は外に出ぬのか?」
「原稿の締め切りが近いんだよ」
「ふむ。では、代わりにわたしが散歩してこよう」
「猫の散歩?」
「神の散歩だ」

 そう言って、ミコトは玄関の方へ歩いていった。
 扉の前で立ち止まり、振り返る。
「鍵を開けろ」
「いや、お前が開けるなよ」
「ならば、窓から出るか」

 結局、悠真は根負けしてドアを開けてやった。
 雪の残る道に、真っ白な毛並みが映える。

「遠くに行くなよ」
「案ずるな。お前の“祈り”がある限り、道は見失わぬ」

 そう言って、ミコトは軽やかに雪の上を歩き出した。

 ***

 その日の夕方、ミコトが帰ってくると、悠真は驚いた。
 猫の背中に、小さな女の子の手が乗っていたのだ。

「お兄ちゃん、この子、迷子だったの」
 少女はにこにこと笑っていた。
「こいつが道を案内してくれたの」

 悠真は思わずミコトを見つめた。
 ミコトはそっぽを向き、尻尾をひと振りする。
「何もしておらぬ。わたしはただ歩いておっただけだ」

「嘘つけ……」
 少女の母親が駆け寄ってきて、涙ぐみながら何度も頭を下げた。
 ミコトは黙ってその様子を見ていたが、母娘の姿が見えなくなると、
 ゆっくりと空を見上げた。

「……祈りの匂いがした」
「祈り?」
「母が子を想う気。人が人を呼ぶ声。
 それが、神をこの世に繋ぎとめる」

 その言葉に、悠真は胸の奥が熱くなるのを感じた。
 あの夜以来、彼の心のどこかにいつもあった冷たい穴が、
 少しずつ埋まっていくような気がした。

 ***

 夜、悠真は久しぶりに机に向かった。
 ストーブの前では、ミコトが静かに丸まっている。
 キーを打つ音が、部屋に小さく響いた。

 ――“神は、猫の姿をしていた。”

 その一行を書いた瞬間、ふと鈴の音が聞こえた。
 顔を上げると、ミコトがこちらを見ていた。

「書けたか?」
「少しだけな」
「言葉は雪のようなものだ。積もるまで、待つしかない」
「……お前、いいこと言うな」
「わたしを誰だと思っている」
「神様?」
「そうだ。猫の姿をした、寂しがりの神だ」

 ミコトはあくびをして、再び丸くなった。

 ***

 日が経つごとに、悠真の生活は少しずつ変わっていった。
 部屋には新しい花が飾られ、食卓には温かい湯気が立ち、
 窓辺にはミコトが座って外を見上げている。

 ミコトは夜になると、決まって窓辺に行った。
 街の灯を見下ろしながら、空を仰ぐ。

「何を見てるんだ?」
「月だ」
「月なら、毎晩見てるだろ」
「そうではない。……向こう側を見ておる」

「向こう側?」
「この空の向こうには、祈りが還る場所がある。
 いつか、わたしもそこへ帰るだろう」

 その声は、どこか遠くを見つめるように静かだった。
 悠真は黙って隣に座った。
 ガラス越しに映る二つの影――人と猫。

 雪は止んで、星が滲む。
 風が通り抜け、ミコトの鈴のような声が微かに響いた。

「……なあ、悠真」
「ん?」
「お前は、まだ“由梨”を想っておるのだな」

 悠真は目を伏せた。
「忘れられないよ。
 あの時、俺が歩道側じゃなくて、彼女が――」
「それ以上言うな」

 ミコトの声が少しだけ厳しくなった。
「罪を抱くことと、悔やむことは違う。
 由梨はきっと、お前の中で祈っている」

「……祈ってる?」
「そうだ。お前が生きている限り、その祈りは消えぬ」

 悠真はしばらく黙っていた。
 やがて、小さく笑って呟く。
「お前、ほんとに……変な猫だな」
「ふむ。褒め言葉と受け取っておこう」

 ミコトが立ち上がり、窓辺から離れる。
「さあ、もう寝る時間だ。
 夜は言葉よりも夢の方が力を持つ」

 悠真はその背中を見送りながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。
 この奇妙な日々が、どこか懐かしいような気さえした。

 ***

 深夜、風がカーテンを揺らした。
 ミコトは再び窓辺に立ち、夜空を見上げていた。

「……あと、少しの間だ」
 誰にともなく呟く声が、雪明かりの中に溶けていった。

 その背中は、どこか切なく、どこか慈しみに満ちていた。
 悠真が眠る机の上では、未完の原稿が光を反射している。

 ――“名を呼ぶ日々”。

 それはまだ始まったばかりの、言葉と祈りの物語だった。