朝の光が、白いカーテン越しにゆっくりと差し込んでいた。
 コーヒーの香りが漂う部屋で、悠真はペンを握ったまま動けずにいた。
 机の上には、昨夜書いたままの一文――「白い猫、雪の夜に現る」。
 それがまるで現実の報告のように感じられて、彼は苦笑した。

 部屋の隅では、ミコトが毛づくろいをしている。
 夜の光の中では神秘的だったその姿も、朝の光を浴びると、ただの猫にしか見えなかった。
 ――ただの猫、のはずなのに。

「なあ……昨日のこと、夢じゃないんだよな」
「夢にしておきたいなら、それでも構わぬ」
 ミコトは淡々と答えた。小さなあくびをして、窓辺へ歩く。

「人は都合の良い夢を真実とし、真実を夢と呼ぶ。面白い生き物だ」
「そりゃ、猫に言われたくないな……」
 悠真は笑いながらも、胸の奥に小さな痛みを覚えていた。
 “神”などという存在を、信じたことはなかった。
 けれど――あの鈴の音。あの光。
 それを「夢」と切り捨てるほど、心は強くない。

「ところで、人の子よ」
 ミコトが振り返る。
「そなたは、何ゆえに“言葉”を捨てた?」
 その問いに、悠真は動きを止めた。

「……どうして、そう思う」
「部屋に漂う“音”が、死んでおる。
 紙も、ペンも、机も、言葉を待っておるのに、主が沈黙して久しい」

 悠真は少し俯いた。
 痛いほど図星だった。
「……昔、書いていた。小説を。
 でも――もう、書けなくなったんだ」
「何があった?」
「……人を、失った」

 その言葉に、ミコトは静かに尻尾を揺らした。
「大切な人だったのだな」
「……ああ」
 それ以上は、言葉にならなかった。
 胸の奥で、あの夜の光景が蘇る。
 雪。ブレーキ音。叫び声。
 そして、自分の腕の中で動かなくなった由梨。

「俺は――あの時、彼女の手を離した」
「離したのではない。離れるべくして、離れたのだ」
 ミコトの声は静かだった。
「生も死も、風のようなもの。掴もうとすれば、こぼれていく」

「……慰めてくれるのか?」
「慰めなどせぬ。神はただ、事実を語るのみだ」
 ミコトは小首を傾げて続ける。
「だが、人の子よ。お前の中にはまだ、“祈り”がある」

「祈り?」
「祈りとは、言葉そのものだ。
 書くことも、語ることも、誰かを想うことも。
 お前は祈りを恐れ、閉じ込めている」

 悠真は顔を上げた。
 ミコトの瞳が、まるで心の奥を覗き込むように輝いている。

「……お前、本当に猫なのか?」
「ふむ。お前がそう呼ぶなら、猫でも構わぬ」
 その言い方が妙におかしくて、悠真は少し笑った。

 ***

 昼下がり、悠真はコーヒーを淹れ直し、パソコンの前に座っていた。
 ミコトはテーブルの上で丸くなり、静かに見守っている。
 画面には真っ白なページ。
 彼はため息をつきながら、ぽつりと呟いた。

「もし、お前が神なら……俺に書く力を返してくれ」
「力は与えぬ。言葉は、自ら掴むものだ」
「そうか……」
「ただし、ひとつだけ助言をくれてやろう」

 ミコトは尻尾を揺らしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「お前の物語の始まりは、もうそこにある」
「そこに?」
「わたしだ」
「……は?」
「神が現れ、言葉を失った作家が拾う――
 それこそ、物語ではないか?」

 悠真は思わず吹き出した。
「……確かに、面白いかもな」
「ならば書け。わたしの名を物語に刻め。
 そうすれば、わたしはもう少しだけ、この世に在れる」

 その言葉を聞いて、悠真は真剣な顔になった。
「お前……消えるのか?」
「祈りが絶えれば、神は霧散する。
 わたしを覚えている者はもういない。
 この姿も、やがて風に溶けよう」

 ミコトは窓辺に跳び乗った。
 外では、雪がまたちらつき始めている。
 光に透ける白い毛が、儚く揺れた。

「だからこそ、お前に出会えたのだ。
 言葉を忘れた者と、祈りを失った神。
 ――似た者同士、というやつだ」

 悠真は立ち上がり、ゆっくりとパソコンに向かう。
 キーを叩く音が、久しぶりに部屋に響いた。
 言葉が流れ始める。
 雪の夜、白い猫と出会った作家の話。

 ふと視線を上げると、ミコトが穏やかに目を細めていた。
「そう、それでいい。言葉は風のように流せばよい」

 悠真は微笑む。
「なあ、ミコト」
「なんだ?」
「お前、ほんとに不思議なやつだな」
「ふむ。神とは、得てして不思議なものだ」

 そのとき、風が吹き、鈴の音がかすかに響いた。
 部屋の中に、確かに春の兆しのような温もりが満ちていく。
 悠真は目を閉じた。
 胸の奥で、止まっていた時計が、静かに動き出す音がした。

 その音を聞きながら、彼は新しい物語の一行を書いた。

 ――“神は猫の姿で、人の孤独に寄り添う”。