1.エピローグ—悠真視点

 春の気配が近づくころ、街の空気は柔らかさを帯び始めていた。
 冬を越えたばかりの風はまだ冷たいが、その奥にかすかな温もりがある。

 悠真は、ミコトと出会った公園へ足を運んでいた。

 夕暮れの光が芝生を薄金色に染めている。
 ベンチに腰掛けると、胸の奥に静かな満足感と、どこか懐かしい気配が満ちていった。

 ポケットの中には、白い鈴。
 ミコト――由梨が残していった唯一の形見。

 取り出して掌に載せると、風がそっと鈴を揺らした。

 ――チリ……ン。

 その音は、もう悲しみではない。
 未来へ向かうための、やさしい合図だった。

「由梨……聞こえてるか? 俺、前に進むよ」

 空を見上げると、薄い雲が光を透かしている。
 まるでその向こうに、誰かが立っているように。

「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」

 悠真は、ようやく笑ってそう言えるようになった。

 ――そして、世界のどこかで。

 ひとつの魂が、その声に微笑み返していた。

2. 由梨視点「白い境界で」

 ――衝突音が響いた瞬間、世界が遠ざかった。
 風も声も、悠真の叫びも、すべてが薄くなっていく。

 ……ああ、だめだよ。そんな顔、しないで。

 痛みはなかった。
 ただ、胸の奥にひとつの後悔があった。

 ――置いていくんだね。あなたを、ひとりに。

 気がつくと、雪のように白い境界に立っていた。
 周囲は静かで、風も音もなく、ただ光だけが漂っている。

「大切な人を残してきたの?」

 そう声をかけてきたのは、小さな白猫の姿をした存在だった。
 しっぽに小さな鈴をつけ、雪のように美しい毛並みを持っていた。

「……あなたは?」

「ここでは“神”と呼ばれることもあるよ。でも、正確には違う。
 “祈りに寄り添う存在”といったところかな」

 由梨は涙をこぼしながら問うた。

「ねえ……あの人は、悠真は……ひとりで大丈夫かな」

「大丈夫じゃないだろうね。でも、あなたはもう戻れない」

 胸が締めつけられる。
 雪が積もるように後悔が降り積もる。

「戻れない……戻れないの?」

「あなたは死んでいる。だから、生きている人の世界には……もう」

 言い切る前に、白猫は言葉を止めた。
 由梨の胸の奥から湧きあがる強烈な願いを見たからだ。

 ――あの人のそばにいたい。
 ――せめて、もう一度だけ。

「……その願いは、強いね」

 白猫は静かに目を細めた。

「魂のかたちを変える覚悟があるなら――
 あなたは“祈り”として、彼のそばに戻れるかもしれない」

「祈り……?」

「そう。“誰かを想う力”のこと。
 それは命よりも強い時がある」

 由梨は迷わなかった。

「戻りたい。たとえ私が私じゃなくなっても……あの人のそばで、生きたい」

 白猫は何も言わず、静かに頷いた。

「……あなたが魂を渡すなら、私が“器”になろう。
 今度は私が、あなたを支える」

 白い光が由梨を包み込み――
 世界は暗転した。

3.番外編:ミコト視点「祈りの器」

 ……気がつくと、自分は“猫の身体”の中にいた。

 小さな四肢、柔らかい毛並み、風の匂い。
 しかしその奥に、由梨という光が静かに眠っていた。

(あなたが間違った道を歩かないように)
(あなたが自分を許せるように)
(あなたがもう一度、生きられるように)

 それが由梨の願いだった。
 その願いを叶えるため、私は――猫神ミコトとして地上に降りた。

 弱り、力尽きかけたあの日。
 路地裏で倒れた身体を抱き上げたのは、偶然ではない。

 ――悠真だった。

(……ようやく、会えたね)

 猫の声では届かない。
 でも、由梨の魂は泣いていた。
 ずっと会いたかった人の手に触れられて。

 彼の部屋の窓辺で鈴を鳴らすと、由梨は微かに目を覚ます。

(悠真……生きて)
(あなたはひとりじゃない)

 だから私は、言葉を持った。
 祈りが形を得たとき、声になる。

 ――「助けてくれて、ありがとう」

 私は“猫の神”であり、
 私は“彼女の祈り”であり、
 そして……彼を未来へと導くための灯だった。

4.番外編:灯視点「空に届いた言葉」

 お母さんの病室の匂いにも、もう慣れてきた。
 今日は少し笑ってくれた。
 それだけで胸がいっぱいになった。

 公園に寄り道して、ベンチに座る。

(猫神さま……今日もありがとう)

 あの日の白い猫が、本当に神さまだったのかはわからない。
 でも、あの夜、祈った後からお母さんの病状は少しずつ良くなっていった。

 灯は目を閉じる。

(猫神さま……どうか、どこかで会えるといいな)

 風が吹き抜ける。

 ――チリ……ン。

 どこからともなく鈴の音がした。
 そっと目を開ける。

 春を待つ夕空が、優しく滲んでいた。

(届いたんだ……)

 灯は静かに微笑んだ。
 見えなくても、会えなくても――感謝はきっと届く。

5.締めのエピローグ「風に残る祈り」

 公園からの帰り道、悠真はふと足を止めた。
 風が頬を撫で、白い鈴が小さく揺れる。

 ――チリ……ン。

 今度の音は、どこか懐かしさを含んでいた。

 由梨の声ではない。
 ミコトの声でもない。
 もっと大きなもの――“祈りそのもの”の音。

 誰かが誰かを想う、その力。
 それは姿を変え、光になり、風になり、鈴の音になる。

 悠真は小さく微笑んだ。

「……ありがとう。全部、聞こえてるよ」

 風が答えるように吹き抜けた。

 祈りは終わらない。
 姿がなくなっても、声が消えても――
 誰かの未来を照らす灯となり、生き続けていく。

 白い鈴は、夕暮れの風の中でやさしく揺れ続けていた。