夜明け前の部屋は、まだ暗い灰色に沈んでいた。
 暖房もつけずに机に向かっていたせいか、指先は冷え切っていたが、それでも悠真は手を止めなかった。

 視線の先には、書き終えたばかりの原稿。
 タイトルは――

 『祈りという名の言葉』。

 書き終えたというのに、胸の奥はざわざわしている。
 達成感よりも、なにかを手放した直後のような寂しさがあった。

 窓辺には、あの小さな白い鈴が置かれている。
 由梨の姿で現れた“ミコト”――その最後の残り香のように。

 ――「生きて、悠真。私の分まで。」

 思い出すだけで胸が熱くなる。
 けれど、もう泣き崩れたりはしなかった。

 あの言葉に背中を押されるように、この物語は生まれたのだ。

 ふっと息を吐き、机に肘をついた瞬間――

 チリ……ン。

 小さな音が響く。
 風もないのに、鈴が揺れた。

「……聞こえてるんだな」

 つぶやくと、胸の奥に温かい灯がともる。
 今はもう姿はなくても、どこかで見守ってくれている。
 そう思えるだけで十分だった。

***

 昼過ぎ、出版社に原稿を持ち込むと、編集の桐生がすぐに読んでくれた。
 ページをめくるたびに、表情が変わっていくのがわかる。

 最後まで読み終えた桐生は、深く息を吐き、ゆっくり顔を上げた。

「……悠真。これは……すごい作品だ」

「本当ですか」

「うん。悲しみをそのままじゃなくて……誰かの未来に向けた言葉になってる。
 こんな文章、お前が書けるなんて思ってなかった」

「褒めすぎですよ」

 そう言ったが、胸の奥が少し熱くなる。
 書いたものが正しく伝わるということは、こんなにも救われるものなのか。

 そのとき――

 ――チリ……ン。

 机の上に置いていた白い鈴がまた鳴った。

「……今、鳴ったよな?」

「ええ。聞こえました」

「風なんて入ってないし……不思議な鈴だな」

 桐生は驚いたように鈴を見つめ、ぽつりと呟く。

「……まだ、祈りは生きている、ってことなのかもな」

 悠真は何も言わず、ただ鈴に目を落とした。
 その音は、まるで一緒に喜んでくれているようだった。

***

 一方その頃――灯は、あの日猫神さまと出会った小さな公園に来ていた。

 冬の風が頬を刺すように冷たいのに、公園の真ん中だけはなぜか静かで優しい空気が流れている。

 ベンチに座り、ぎゅっと手袋を握りしめる。

(……猫神さま)

 心の中でそっと呼びかける。

(お母さんね……少しずつ、良くなってるの。
 まだ病院にいるけど、前より笑う回数が増えたよ)

 目を閉じると、まぶたの裏で白い光が揺れる。
 ミコト――ではない。
 名前は知らないし、話したこともない。
 けれど、あの日「願い」を聞いてくれた白い猫の神さまがいた。

(ありがとう。ほんとに、ありがとう)

 胸の奥でつぶやいたその瞬間――

 ――チリ……ン。

 どこからともなく、鈴の音がした。

 灯は目を開け、驚いてあたりを見回す。
 けれど、鈴なんてどこにも見当たらない。

 それでも、不思議と怖くなかった。

「……猫神さま」

 そっと空を見上げると、冬の雲の切れ間から薄い光が差し込んでいた。

「届けたよ。ちゃんと、届いたんだね」

 笑うと、胸の奥が温かく満ちていった。

***

 夕方。
 家に戻った悠真は、コートを脱いで真っ先に窓辺へ向かった。

 白い鈴は、どこか誇らしげに輝いている。

 窓を少し開け、冷たい風を吸い込む。
 澄みきった冬の匂いが胸いっぱいに広がった。

「……由梨。
 俺、ちゃんと書けたよ」

 呟くと、胸の奥が少しじんとする。
 今なら言える。
 あの朝、泣きながら抱きしめたあの言葉も。

「ありがとう。
 もう……大丈夫だ」

 そう言った瞬間――

 チリ……ン。

 鈴が、優しく、柔らかく鳴った。

 まるで返事のように。
 もう悲しまなくていい、という祝福のように。

 悠真は微笑み、そっと鈴に触れた。

 風が部屋を通り抜け、鈴はもう一度だけ澄んだ音を響かせた。
 その音は冬空に溶け、夜の街灯に照らされてきらりと光った。

 ――祈りは、消えない。
 姿がなくなっても。
 声にならなくても。

 静かに風の中をめぐり、誰かの胸の奥に灯を宿す。

 窓辺の鈴は、その証を確かめるように、そっと揺れ続けていた。