窓の外では、粉雪が絶え間なく降っていた。
 街の灯が雪に滲み、白い世界の中に、わずかな橙の光だけが浮かんでいる。

 悠真はペンを握ったまま、ノートの上で止まっていた。
 書けない。どれほど時間を費やしても、言葉は出てこない。
 白い紙の上に、白い雪が降り積もるように、思考が静かに凍っていく。

 暖房の音と時計の針の音だけが部屋を満たす。
 彼は吐息をひとつつき、窓辺に視線をやった。
 そのときだった。――窓の向こうを、何かが横切った。

 白い影。

 風に流されるように、しかし確かに形を持っていた。
 猫、のように見えた。
 悠真は無意識に立ち上がり、厚手のコートを羽織って外へ出た。

 外気が頬を刺す。夜の街は深く静まり返り、雪の音だけが耳を満たす。
 通りの向こう、電灯の下にそれはいた。
 白い毛並みが雪に溶けこむほど淡く、しかし、どこか異様なほど澄んだ存在感。

 ――猫だ。

 悠真が一歩近づくと、猫はかすかに身体を震わせ、歩こうとしたが、そのまま雪の上に倒れ込んだ。

「おい……!」

 駆け寄る。小さな身体は冷えきっており、息も浅い。
 生きている。けれど、このままでは――。

 迷うより先に、彼の身体が動いていた。
 猫を抱き上げ、コートの中に包む。小さな鼓動が微かに触れる。
 悠真は自宅まで走った。

 ***

 部屋に戻ると、ヒーターを強め、タオルで猫の身体を丁寧に拭いた。
 雪解けの水が滴り落ち、毛の奥に隠れていた傷が露わになる。
「どうして……」
 胸の奥が痛んだ。こんな夜に、どうしてこんな小さな命が。

 猫はかすかに目を開けた。
 その瞳は、不思議なほど深い琥珀色をしていた。
 悠真が見つめ返すと、一瞬、吸い込まれるような錯覚に襲われる。
 まるでそこに、言葉が宿っているような――。

「……もう大丈夫だ」
 そう呟き、用意した毛布にそっと寝かせる。
 猫はまぶたを閉じ、静かに呼吸を整えた。

 悠真は、コーヒーを淹れて机に戻る。
 しかし、もう文章を書く気にはなれなかった。
 代わりに、ペンの先で何気なく言葉を綴る。

 ――白い猫、雪の夜に現る。

 その一文を見つめて、ふと笑ってしまった。
 まるで物語の始まりのようだ。

 ***

 翌朝、光がカーテンの隙間から差し込む。
 悠真が目を覚ますと、毛布の中の猫がいなかった。
「……あれ?」
 部屋を見回すと、窓辺にその姿があった。

 白い光の中、猫は外を見つめていた。
 そして、ゆっくりと振り向く。

「目が覚めたか、人の子よ」

 悠真は息を呑んだ。
 ――声?

 猫は確かに喋っていた。
 声は透き通るように柔らかく、雪解けの水音のようだった。

「お、前……今、喋ったのか?」
「ふむ。人の言葉を忘れたわけではない。
 久方ぶりに、誰かが名を呼ばぬまま私を拾ったからな」

 悠真は理解が追いつかず、ただ呆然と見つめた。
 猫は尻尾を一度揺らし、悠然と毛づくろいをする。

「お前は……いったい、何者なんだ?」

「名を持たぬ神、かつて祈りと共に在ったもの――」
 猫の瞳がふと輝き、淡い光が周囲を包んだ。
 空気が震える。風もないのに、鈴の音がかすかに響いた。

「……神?」
「そう呼ばれていた時代もあった。
 だが今は、祈りが途絶え、居場所を失ったただの影よ」

 悠真は何も言えなかった。
 神? そんな馬鹿な。
 だが、目の前の光景は夢でも幻でもない。

「名を……持たぬのか?」
「そうだ。名は祈りと共に与えられる。
 名を失えば、私はやがて消える。――おそらく、この身も長くは保たぬだろう」

 猫はゆっくりと目を閉じた。
 白い毛並みが、わずかに透けて見える。

 悠真は心の奥がざわめいた。
 まるで、自分と同じだと思った。
 失われた名。途絶えた祈り。
 言葉を失った作家と、名を失った神。

「……名が、要るのか」
「そうだ。呼ぶ声があれば、私は在る」

 静かな時間が流れる。
 外では、雪がまた降り始めていた。
 悠真は窓の外を見つめ、そして、猫の方を向いた。

「……ミコト」

「――?」

「お前の名だ。言葉の“言”に、神の“命”。
 “言ノ神(ことのかみ)”。短くして、ミコト。どうだ?」

 猫――ミコトは、しばらく黙って悠真を見つめていた。
 やがて、柔らかな笑みを浮かべる。

「悪くない。言葉の神、か。
 お前がくれた名なら、悪くない」

 その瞬間、鈴の音がはっきりと鳴った。
 どこにも鈴などないのに、空気が澄んだ音を響かせた。
 悠真は思わず息を呑んだ。

 光がミコトの身体を包み、傷が癒えていく。
 猫の姿のまま、毛並みが柔らかく輝きを帯びる。
「名がある限り、祈りは消えぬ。――感謝するぞ、悠真」

 初めて、自分の名を呼ばれた。
 心の奥で、何かが静かにほどけていく。

 雪の音が止んだ。
 窓の外には淡い光が差し込み、冬の朝が始まろうとしていた。

 悠真はペンを取った。
 白紙のノートを開き、一行だけ書く。

 ――その夜、言葉を失った作家は、神と出会った。

 文字の上に、鈴の音がまた一度だけ鳴った。
 まるで、物語が始まったことを告げるように。