●〇●〇
俺は荷物を玄関に運ぶところまでを担当して、その先の移動は和馬さんがやってくれていたので、まだろくに室内を見ていなかった。さっそく、先輩が案内してくれる。
「──で、ここが蒼羽くんの部屋」
「……わ。自分ちより広いです」
天月家は12階建てマンション最上階角部屋で3LDK、玄関の先にLDKがあり、その左右をキッチンと3つの洋室が囲んでいるという、真四角タイプの間取りだった。
玄関入ってすぐの廊下にある洗面所、風呂場、トイレの位置をさらっと聞き、リビングへ進むと、先輩が開けたのは向かって左側、手前の部屋だ。
余っていた空室とのことだが、中にはベッドとデスク、カラの小さな本棚が置かれていた。クローゼットは作り付け。俺の荷物も壁際に置かれている。
(てか、どう見ても、誰かが使ってた部屋……)
「……あの、この部屋って?」
「姉が使ってた部屋なんだよ。去年の9月からイギリスの大学に留学してて、今はいないんだ」
「お姉さんがいたんですか」
小さな衝撃だった。あの、先輩にとっては小4の夏、彼はいつも一人だったから。会食の時に話も出なかったし、すっかり一人っ子だと思い込んでいた。
(お姉さんは、親戚んちには来てなかったのかな)
「……あっちがすごく水が合うって言ってたから、当分は居着くんじゃないかなぁ」
そう言ってがらんとした室内を見る先輩の横顔は、ちょっとだけ寂しそうだった。
(1年経たないうちに家族が二人とも海外に……そりゃ、寂しいか)
独り暮らしにこの家は広すぎる。俺との同居を望んだのは、そういう理由もあったのかもしれない。
「ベッド、シーツや布団は予備の新品に替えてあるから。枕もね」
「すいません、手間かけて」
「謝られるようなことじゃないよ。あと、バルコニー側じゃないから、小さな窓しかなくて申し訳ないんだけど」
「全然いいですよ。気にしません」
「ありがとう。ちなみに、隣は僕の部屋だから」
「っ! そ、そうなんですね」
(ということは、反対側のキッチン横が和馬さんの部屋ってことか。クッ、逆がよかった……!)
壁1枚挟んだ向こうに先輩がいるなんて、夜、寝られるだろうか。自信がない。
「リビングのほうも説明しとくね」
「あ、はいっ」
シンプルだが質のよさそうな調度品の置かれたLDKに戻った。
カウンターキッチンの前に4人掛けのダイニングテーブル、バルコニー側にソファセット。テレビ台の上には、この家の花瓶に生け替えられたライラック。
先輩はスイッチの位置や、どれがどのリモコンかなどを丁寧に説明してくれた。
「──こんなところかな。何か他に、聞いておきたいことはある?」
「……や、大丈夫だと思います」
(本当に、今日からここに住むんだな……)
遅すぎるのだが、ようやく少しだけ実感がわいてきた。と同時に、否応のない緊張も。
(今から2ヵ月間……ここで、この人と……)
「……ごめんね」
「──え?」
急に謝られて顔を向けると、先輩は言葉通り、申し訳なさそうな表情で俺を見ていた。
「ごめんって、何が……?」
「……蒼羽くん、すごく暗い顔してるから。やっぱり後悔してるのかなって」
「っ! いや、ちがっ、これは……!」
強張った顔をしていたのは確かだろうが、少し違う。
「これは、そのっ。家族以外と暮らすなんて初めてだから……ちょっとだけ、緊張っていうか……」
「……ほんとに?」
わずかに安堵を覗かせつつも、先輩はまだ信じきれないようだ。
「今さら言ってもずるいけど、強引に押し切ったことはわかってるんだよ。蒼羽くんはまだ戸惑ってたのに、僕がお願いしたからOKしてくれたんだよね。……本当に、迷惑じゃなかった?」
「……ない、です。迷惑なんて、そんなことは」
(迷惑とか、嫌がるとか、そんなことは、あるわけない)
この人の存在を、俺がそんなふうに感じるなんてありえない。
「俺も……母さん、和馬さんと行けて嬉しそうだったし……二人が安心してくれてたから……これでいい、です……」
精一杯そう伝えると、先輩はようやくほっとしたように口元を緩めた。
「よかった。本当に、本当にありがとう、蒼羽くん」
「!!」
不意打ちを食らった。また、先輩に両手を取られたのだ。ぎゅっと握ってくる力はこの前より強い。
(なんで!? これクセなのか!?)
「子供の意思を尊重したいっていうのは本心だろうし、あの日は冗談めかしてたけど、父さん、実は結構本気で僕の独り暮らしを心配してたんだよ」
「は、はははぁ……そ、そんなにですかっ?」
「うん。だから、できるだけ安心してほしくて。『やっぱり親と暮らさなきゃダメだ、アメリカに来い』なんて言われても、僕も困るし」
「な、なななななるほどぉ! て、てか、あの、手……っ」
「手? ──あ、ゴメン!」
やっと俺が緊張ド爆発していると気づいたのか、パッと離して、そのまま右手で頬を掻く先輩。
「ついやっちゃうんだよね。僕、父さんについて海外で暮らしてた時期もあるから、ちょっとこういう感覚、周りとずれてるみたいで」
(あ……そういうことか)
合点がいった。アレだ、スキンシップの感覚が外国的なのだ。
「悠日にもよく注意されるんだよ……気を付けるね」
「……は、はい」
(マジで、頼んます……心臓持たないんで)
荷解きを終えた頃。部屋のドアがノックされ、先輩が声をかけてきた。
『蒼羽くん、開けてもいい?』
「はい、どうぞっ」
「わ、もう片付いてるね。さすが」
ドアを開けた先輩は、荷物がすべてきちっと収納された室内を見て目を見張る。
「大した量じゃなかったですから。……で、どうしたんですか?」
「そうそう、夕飯の相談しようと思って」
(あー、もうそんな時間か)
片付けに集中していたが、窓に目を向ければ、いつの間にか日暮れが迫っていた。
「といっても、疲れてるでしょ。親たちには健康的な生活するようにって言われてるけど、今日くらいはサボってもいいよね。だからさ、ピザでも取らない?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、片眼を閉じる先輩。おい待て、なんだその表情。天使なのか小悪魔なのかどっちだ。絶妙な割合で共存させないでくれ。
と、そんなジャブを食らいつつも、正直提案は非常にありがたかった。引っ越しはさほど労力を要したわけでもないが、体力よりも、精神的な疲れがある。もちろん、俺が終始先輩にドギマギしていたせいなのだが。
先輩は単なる気疲れと受け止めているだろうが、そんな俺の心境を察してくれているのかもしれない。
「賛成です。そうしましょう」
「了解。リクエストある? 逆に、嫌いなものとかも」
「なんでも食いますけど……じゃあ、シーフード系で」
「いいね、僕も好きだよ、シーフード。ならハーフ&ハーフの片方はシーフードで、もう片方は……オーソドックスにソーセージとかミート系でいい?」
「はい、任せます。けど……」
「ん? どうしたの?」
「や……先輩も、ピザとか食うんですね」
ついぽろっと素直な感想を口にすると、先輩はおかしそうな、それでいてどこか不安そうな、なんともいえない顔をした。
「なにそれ。僕はそういうの、食べなそうってこと?」
「はい……どっちかっていうと。だってスタイル完ペキだし、肌つるっつるだし。食生活とかめっちゃ気を遣ってそうっていうか、ジャンクフードなんか食べないかと思ってました」
「つるつるって」
「いやほんと、つるっつるじゃないですか。他の人類と同じ細胞で構成されてるとは思えないレベルできれいです。きれいすぎます」
「……なんか蒼羽くん、いきなり饒舌だね?」
「! あっ、すいません!」
(やばい、いつも思ってることがそのまんま口から出てた!)
先輩は嫌そうには見えないが、戸惑いがちの微笑を浮かべている。ひかれただろうか。
「ううん、いいんだけど。まぁ、そうだね。栄養バランスとか多少は気にするけど、人並みだと思うよ。ピザとかハンバーガーとかスナック菓子とかも好きだし、しょっちゅうじゃないけど、全然食べるよ」
そう言った声はカラッとしていた。けれどすぐまたふっとトーンを落とし、探るように俺を見上げると、
「……僕がジャンクフードも普通に食べる人だと、いや?」
と聞いてくる。瞳の奥のほうに、やっぱりわずかな不安が見え隠れしている気がした。何を不安がることがあるのかはわからないけど。
「なんで嫌なんですか。むしろ安心しました。俺もジャンクフード食うし、ていうか好きだし。自炊サボってデリバリーなんてテンション上がるやつじゃないですか」
「!」
先輩の瞳が揺れた。その色は今の俺ともよく似たブラウンカラーなのに、なぜか碧い海の水面を連想させる。深くて、それでいて澄んだ水中の揺らめきだ。
「そっか。…………よかった」
しばらくじっと俺を見ていた先輩は、やがて花のつぼみがふわっと開くように笑った。
「え?」
(嬉しそう……そんなにピザ食いたかったのかな)
その後の夕飯時、実際に先輩は、ニコニコしながらとてもおいしそうにピザとサイドメニューのポテトを食べていた。高級フレンチより、高校生にはやっぱりこっちだよね、なんて言いながら。
飲み物は買い置きされていたジンジャーエールだ。二人で手を汚しながら食べて、俺も相変わらずドキドキはしていたけど、楽しい食事だった。先輩がすごく楽しそうだから、俺も楽しかった。
食後は少ない洗い物を二人で片づけた。先輩は自分がやるからいいと言ったけど、任せるなんて申し訳なくて、なんとか皿拭き役をゲットしたのだ。
自分で希望しておいて、また共同作業だ……とそわそわしてしまったことは秘密だ。皿を落とさなくてよかった。
夜も更けてきた頃に入浴タイム。俺はいつもシャワー派なので、ここでもそれでいいと伝えた。そうでなくても先輩が使っているのと同じ湯舟に浸かるなんてかなりやばい。
先輩は基本、浸かるタイプらしい。なら最後に僕が掃除するからと、先を譲ってもらった俺が、部屋に引き上げてベッドの上でボーっとしていると……
『蒼羽くん、もう寝た?』
ノックはなしで控えめな声がドア越しに聞こえてきた。
「! お、起きてます」
しゅっと背筋を伸ばして返事すると、すぐにドアが開く。
「遅くにごめんね、いっこ聞いておきたいことがあ──どうしたの?」
「……………」
どうしたの、じゃない。俺はベッドの上にあぐらをかいたまま硬直していた。
だって、だって、だって。入ってきた先輩はパジャマ姿で、しかもそのパジャマの胸元は制服のシャツよりぐっと開いていて、白い肌の鎖骨ラインがしっかり見えていて。
しかも、濡れ髪のまま。柔らかそうなその髪を、タオルでふきふきなんてしつつ乱して、前髪の隙間から覗く目で、こっちを見ているのだ。
どっかん。頭の中で音がした。脳が沸騰してぐずぐずに溶けていってる気がする。
「蒼羽くん? 蒼羽くーーーん?」
「……はっ」
いかん、先輩が顔の前でひらひら手を振っている。帰ってこい、俺。
「……なっ、なんでもないっすっ」
俺はがばっと立ってベッドから降りると、とっさにデスクへ寄って引き出しを開け始めた。
「え、えーと……あれっ、どこにしまったかなぁ~?」
「? 何か探し物?」
「は、はい! えぁぁっ……あ、あれです、充電器!」
もちろん探しているふりだ。右の一番上に入っているのを知っているからあえてそこは開けない。ただ先輩を直視できないだけだ。目の毒すぎる。
「忘れてきた? なかったら貸すよ?」
「いやっ、多分どっかに……そ、それより、何か用事だったんじゃ?」
探すふりを続けながら聞くと、先輩は思い出したように「ああ、うん」と言って、
「えっとね。蒼羽くん、明日の朝は何時くらいに起きる? 普段の休日は遅起きタイプ?」
明日は日曜日。まだ休みだ。
「や、遅起きってことはないです。平日よりちょっと遅いくらいっすね。勝手に目覚めるんで、遅くても8時までには起きてます」
「そっか、わかった」
先輩はやけに神妙な声で答える。気にかかって振り向くと、顔も真顔で、
「起きたら、パンとか冷蔵庫にあるもの、好きに食べててくれていいよ。それと……」
そこで一度言葉を切ると、消え入りそうな小さい声で、最後にこう言った。
「…………あんまり驚かないでね」
「……?」
(驚く? 何に?)
そう尋ねる前に先輩が「それだけなんだ、じゃあおやすみ」ときびすを返したので、聞けなかった。そそくさと出ていく背中を見送る。
(明日……何かあるのか?)
首をかしげつつも、充電器を取り出しベッドに戻った。
俺は荷物を玄関に運ぶところまでを担当して、その先の移動は和馬さんがやってくれていたので、まだろくに室内を見ていなかった。さっそく、先輩が案内してくれる。
「──で、ここが蒼羽くんの部屋」
「……わ。自分ちより広いです」
天月家は12階建てマンション最上階角部屋で3LDK、玄関の先にLDKがあり、その左右をキッチンと3つの洋室が囲んでいるという、真四角タイプの間取りだった。
玄関入ってすぐの廊下にある洗面所、風呂場、トイレの位置をさらっと聞き、リビングへ進むと、先輩が開けたのは向かって左側、手前の部屋だ。
余っていた空室とのことだが、中にはベッドとデスク、カラの小さな本棚が置かれていた。クローゼットは作り付け。俺の荷物も壁際に置かれている。
(てか、どう見ても、誰かが使ってた部屋……)
「……あの、この部屋って?」
「姉が使ってた部屋なんだよ。去年の9月からイギリスの大学に留学してて、今はいないんだ」
「お姉さんがいたんですか」
小さな衝撃だった。あの、先輩にとっては小4の夏、彼はいつも一人だったから。会食の時に話も出なかったし、すっかり一人っ子だと思い込んでいた。
(お姉さんは、親戚んちには来てなかったのかな)
「……あっちがすごく水が合うって言ってたから、当分は居着くんじゃないかなぁ」
そう言ってがらんとした室内を見る先輩の横顔は、ちょっとだけ寂しそうだった。
(1年経たないうちに家族が二人とも海外に……そりゃ、寂しいか)
独り暮らしにこの家は広すぎる。俺との同居を望んだのは、そういう理由もあったのかもしれない。
「ベッド、シーツや布団は予備の新品に替えてあるから。枕もね」
「すいません、手間かけて」
「謝られるようなことじゃないよ。あと、バルコニー側じゃないから、小さな窓しかなくて申し訳ないんだけど」
「全然いいですよ。気にしません」
「ありがとう。ちなみに、隣は僕の部屋だから」
「っ! そ、そうなんですね」
(ということは、反対側のキッチン横が和馬さんの部屋ってことか。クッ、逆がよかった……!)
壁1枚挟んだ向こうに先輩がいるなんて、夜、寝られるだろうか。自信がない。
「リビングのほうも説明しとくね」
「あ、はいっ」
シンプルだが質のよさそうな調度品の置かれたLDKに戻った。
カウンターキッチンの前に4人掛けのダイニングテーブル、バルコニー側にソファセット。テレビ台の上には、この家の花瓶に生け替えられたライラック。
先輩はスイッチの位置や、どれがどのリモコンかなどを丁寧に説明してくれた。
「──こんなところかな。何か他に、聞いておきたいことはある?」
「……や、大丈夫だと思います」
(本当に、今日からここに住むんだな……)
遅すぎるのだが、ようやく少しだけ実感がわいてきた。と同時に、否応のない緊張も。
(今から2ヵ月間……ここで、この人と……)
「……ごめんね」
「──え?」
急に謝られて顔を向けると、先輩は言葉通り、申し訳なさそうな表情で俺を見ていた。
「ごめんって、何が……?」
「……蒼羽くん、すごく暗い顔してるから。やっぱり後悔してるのかなって」
「っ! いや、ちがっ、これは……!」
強張った顔をしていたのは確かだろうが、少し違う。
「これは、そのっ。家族以外と暮らすなんて初めてだから……ちょっとだけ、緊張っていうか……」
「……ほんとに?」
わずかに安堵を覗かせつつも、先輩はまだ信じきれないようだ。
「今さら言ってもずるいけど、強引に押し切ったことはわかってるんだよ。蒼羽くんはまだ戸惑ってたのに、僕がお願いしたからOKしてくれたんだよね。……本当に、迷惑じゃなかった?」
「……ない、です。迷惑なんて、そんなことは」
(迷惑とか、嫌がるとか、そんなことは、あるわけない)
この人の存在を、俺がそんなふうに感じるなんてありえない。
「俺も……母さん、和馬さんと行けて嬉しそうだったし……二人が安心してくれてたから……これでいい、です……」
精一杯そう伝えると、先輩はようやくほっとしたように口元を緩めた。
「よかった。本当に、本当にありがとう、蒼羽くん」
「!!」
不意打ちを食らった。また、先輩に両手を取られたのだ。ぎゅっと握ってくる力はこの前より強い。
(なんで!? これクセなのか!?)
「子供の意思を尊重したいっていうのは本心だろうし、あの日は冗談めかしてたけど、父さん、実は結構本気で僕の独り暮らしを心配してたんだよ」
「は、はははぁ……そ、そんなにですかっ?」
「うん。だから、できるだけ安心してほしくて。『やっぱり親と暮らさなきゃダメだ、アメリカに来い』なんて言われても、僕も困るし」
「な、なななななるほどぉ! て、てか、あの、手……っ」
「手? ──あ、ゴメン!」
やっと俺が緊張ド爆発していると気づいたのか、パッと離して、そのまま右手で頬を掻く先輩。
「ついやっちゃうんだよね。僕、父さんについて海外で暮らしてた時期もあるから、ちょっとこういう感覚、周りとずれてるみたいで」
(あ……そういうことか)
合点がいった。アレだ、スキンシップの感覚が外国的なのだ。
「悠日にもよく注意されるんだよ……気を付けるね」
「……は、はい」
(マジで、頼んます……心臓持たないんで)
荷解きを終えた頃。部屋のドアがノックされ、先輩が声をかけてきた。
『蒼羽くん、開けてもいい?』
「はい、どうぞっ」
「わ、もう片付いてるね。さすが」
ドアを開けた先輩は、荷物がすべてきちっと収納された室内を見て目を見張る。
「大した量じゃなかったですから。……で、どうしたんですか?」
「そうそう、夕飯の相談しようと思って」
(あー、もうそんな時間か)
片付けに集中していたが、窓に目を向ければ、いつの間にか日暮れが迫っていた。
「といっても、疲れてるでしょ。親たちには健康的な生活するようにって言われてるけど、今日くらいはサボってもいいよね。だからさ、ピザでも取らない?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、片眼を閉じる先輩。おい待て、なんだその表情。天使なのか小悪魔なのかどっちだ。絶妙な割合で共存させないでくれ。
と、そんなジャブを食らいつつも、正直提案は非常にありがたかった。引っ越しはさほど労力を要したわけでもないが、体力よりも、精神的な疲れがある。もちろん、俺が終始先輩にドギマギしていたせいなのだが。
先輩は単なる気疲れと受け止めているだろうが、そんな俺の心境を察してくれているのかもしれない。
「賛成です。そうしましょう」
「了解。リクエストある? 逆に、嫌いなものとかも」
「なんでも食いますけど……じゃあ、シーフード系で」
「いいね、僕も好きだよ、シーフード。ならハーフ&ハーフの片方はシーフードで、もう片方は……オーソドックスにソーセージとかミート系でいい?」
「はい、任せます。けど……」
「ん? どうしたの?」
「や……先輩も、ピザとか食うんですね」
ついぽろっと素直な感想を口にすると、先輩はおかしそうな、それでいてどこか不安そうな、なんともいえない顔をした。
「なにそれ。僕はそういうの、食べなそうってこと?」
「はい……どっちかっていうと。だってスタイル完ペキだし、肌つるっつるだし。食生活とかめっちゃ気を遣ってそうっていうか、ジャンクフードなんか食べないかと思ってました」
「つるつるって」
「いやほんと、つるっつるじゃないですか。他の人類と同じ細胞で構成されてるとは思えないレベルできれいです。きれいすぎます」
「……なんか蒼羽くん、いきなり饒舌だね?」
「! あっ、すいません!」
(やばい、いつも思ってることがそのまんま口から出てた!)
先輩は嫌そうには見えないが、戸惑いがちの微笑を浮かべている。ひかれただろうか。
「ううん、いいんだけど。まぁ、そうだね。栄養バランスとか多少は気にするけど、人並みだと思うよ。ピザとかハンバーガーとかスナック菓子とかも好きだし、しょっちゅうじゃないけど、全然食べるよ」
そう言った声はカラッとしていた。けれどすぐまたふっとトーンを落とし、探るように俺を見上げると、
「……僕がジャンクフードも普通に食べる人だと、いや?」
と聞いてくる。瞳の奥のほうに、やっぱりわずかな不安が見え隠れしている気がした。何を不安がることがあるのかはわからないけど。
「なんで嫌なんですか。むしろ安心しました。俺もジャンクフード食うし、ていうか好きだし。自炊サボってデリバリーなんてテンション上がるやつじゃないですか」
「!」
先輩の瞳が揺れた。その色は今の俺ともよく似たブラウンカラーなのに、なぜか碧い海の水面を連想させる。深くて、それでいて澄んだ水中の揺らめきだ。
「そっか。…………よかった」
しばらくじっと俺を見ていた先輩は、やがて花のつぼみがふわっと開くように笑った。
「え?」
(嬉しそう……そんなにピザ食いたかったのかな)
その後の夕飯時、実際に先輩は、ニコニコしながらとてもおいしそうにピザとサイドメニューのポテトを食べていた。高級フレンチより、高校生にはやっぱりこっちだよね、なんて言いながら。
飲み物は買い置きされていたジンジャーエールだ。二人で手を汚しながら食べて、俺も相変わらずドキドキはしていたけど、楽しい食事だった。先輩がすごく楽しそうだから、俺も楽しかった。
食後は少ない洗い物を二人で片づけた。先輩は自分がやるからいいと言ったけど、任せるなんて申し訳なくて、なんとか皿拭き役をゲットしたのだ。
自分で希望しておいて、また共同作業だ……とそわそわしてしまったことは秘密だ。皿を落とさなくてよかった。
夜も更けてきた頃に入浴タイム。俺はいつもシャワー派なので、ここでもそれでいいと伝えた。そうでなくても先輩が使っているのと同じ湯舟に浸かるなんてかなりやばい。
先輩は基本、浸かるタイプらしい。なら最後に僕が掃除するからと、先を譲ってもらった俺が、部屋に引き上げてベッドの上でボーっとしていると……
『蒼羽くん、もう寝た?』
ノックはなしで控えめな声がドア越しに聞こえてきた。
「! お、起きてます」
しゅっと背筋を伸ばして返事すると、すぐにドアが開く。
「遅くにごめんね、いっこ聞いておきたいことがあ──どうしたの?」
「……………」
どうしたの、じゃない。俺はベッドの上にあぐらをかいたまま硬直していた。
だって、だって、だって。入ってきた先輩はパジャマ姿で、しかもそのパジャマの胸元は制服のシャツよりぐっと開いていて、白い肌の鎖骨ラインがしっかり見えていて。
しかも、濡れ髪のまま。柔らかそうなその髪を、タオルでふきふきなんてしつつ乱して、前髪の隙間から覗く目で、こっちを見ているのだ。
どっかん。頭の中で音がした。脳が沸騰してぐずぐずに溶けていってる気がする。
「蒼羽くん? 蒼羽くーーーん?」
「……はっ」
いかん、先輩が顔の前でひらひら手を振っている。帰ってこい、俺。
「……なっ、なんでもないっすっ」
俺はがばっと立ってベッドから降りると、とっさにデスクへ寄って引き出しを開け始めた。
「え、えーと……あれっ、どこにしまったかなぁ~?」
「? 何か探し物?」
「は、はい! えぁぁっ……あ、あれです、充電器!」
もちろん探しているふりだ。右の一番上に入っているのを知っているからあえてそこは開けない。ただ先輩を直視できないだけだ。目の毒すぎる。
「忘れてきた? なかったら貸すよ?」
「いやっ、多分どっかに……そ、それより、何か用事だったんじゃ?」
探すふりを続けながら聞くと、先輩は思い出したように「ああ、うん」と言って、
「えっとね。蒼羽くん、明日の朝は何時くらいに起きる? 普段の休日は遅起きタイプ?」
明日は日曜日。まだ休みだ。
「や、遅起きってことはないです。平日よりちょっと遅いくらいっすね。勝手に目覚めるんで、遅くても8時までには起きてます」
「そっか、わかった」
先輩はやけに神妙な声で答える。気にかかって振り向くと、顔も真顔で、
「起きたら、パンとか冷蔵庫にあるもの、好きに食べててくれていいよ。それと……」
そこで一度言葉を切ると、消え入りそうな小さい声で、最後にこう言った。
「…………あんまり驚かないでね」
「……?」
(驚く? 何に?)
そう尋ねる前に先輩が「それだけなんだ、じゃあおやすみ」ときびすを返したので、聞けなかった。そそくさと出ていく背中を見送る。
(明日……何かあるのか?)
首をかしげつつも、充電器を取り出しベッドに戻った。
