●〇●〇
心ここにあらずで過ごす1週間は異様なほど早いのだと、俺は16の春にして学んだ。
あれよという間に天月先輩との同居が決まり、荷物をまとめ、冷蔵庫の整理をし、バイト先に家庭の事情だと言ってしばらくの休みをもらい。
そして次の週末、土曜日の朝。俺の引っ越しと、母さん&和馬さんの渡米の日。
俺は母さんと、自宅マンションのエントランス前で和馬さんの車を待っていた。
同居する家は、天月家のほうに決まったのだ。森中家より間取りが広く一室余っているというし、学校に近いのもこちらだったので、悩むべくもなく。
もちろん一時的な同居なので、最低限の荷物を運ぶだけ。母さんも同じで、滞在先のホテルに何でもあるからと、スーツケースひとつで渡米する。
「あ、来た来た」
引っ越し作業の後そのままフライトだからと、ラフな服装にロングヘアをアップにした母さんが、声を弾ませた。
ちょうど今、国道を曲がって前の通りに入ってきたダークブルーのバン。あれが和馬さんの車らしい。目を凝らしていると、運転席の和馬さん、助手席の天月先輩の顔も確認できた。
「お待たせ! おはよう、玉季さん、蒼羽くん」
やがて、路肩につけたバンからまず和馬さんが降りてきた。少し遅れて、天月先輩も降りてくる。
その瞬間だけ、俺の目にはバンが王室御用達の馬車に見えた。
(なんでこの人は、何をしてても上品できれいなんだ……)
「おはようございます、玉季さん」
母さんにペコッと会釈してから、ロイヤルなその人は、
「蒼羽くんも、おはよう。晴れてよかったね」
(うっ……!)
いきなりの名前呼びと朝日に輝く笑顔を食らって、思わず胸を押さえそうになる。
校内で見かけることはあったが、ちゃんと会って言葉を交わすのは1週間ぶりだ。やっぱりまだ全然慣れない。動悸がする。手のひらに3回『神』と書いて飲みたい。
(しかも……し、私服……)
今日の先輩は、モスグリーンのシャツに、ストレッチのきいたスリムなベージュのチノパンという格好だった。ザ・私服だ。制服とはイメージが違って新鮮すぎる。
私服というなら会食の時もなのだが、あの日の先輩は黒のジャケットだった。
うちの制服はグレーチェックのスラックスに黒のブレザーだから、座ってしまえばほとんど学校での姿とイメージが変わらなかったのだ。
今日は無理だ。こんなの、ドキドキするなというほうが無理だ。
「お、おはおは、おはようごじゃいますっ」
かくして挨拶すらまともにできない俺だったが、心優しきクイーンは笑うでもツッコむでもなく、さらりと流して、
「荷物、どれくらい?」
と聞いてきた。
「あ、えと……段ボール5個です。あと、リュックとスポーツバッグ」
「それと、私のスーツケースね」
「よし、1回で積めそうだな。じゃ、さっそく運ぼうか」
和馬さんの掛け声で、4人でマンションへ入る。少ない荷物の積み込みはあっという間に終わった。
いったんリビングに戻ったところで、和馬さんが俺と母さんに向けて言う。
「最後に一応、忘れ物がないかや、戸締りの確認をしておいたらどうだい? 僕は車で待っているよ。何かあるといけないし」
「あ、そうですね」
「じゃあ私、自分の部屋とお風呂場見てくるわね。蒼羽、他お願い!」
「わかった」
和馬さんと母さんがリビングを出ていった。俺と先輩の二人になる。
(……なんで先輩、和馬さんと車に戻らなかったんだろ……?)
チラと向けた視線の先で、先輩は興味深そうに室内を見回していた。
「……あの、どうか……?」
「あ、ごめん、ジロジロ見て、綺麗に片付いてるなと思って」
「……そうですか?」
「うん、居心地よさそうな部屋だ。掃除は君が?」
「そうですね、掃除も整とんも、大体は俺が。母さんより俺のほうが時間あるし、上手いんで」
「君のほうが掃除上級者なんだ?」
「はい。あの人、典型的な『四角い部屋を丸く掃除機する人』なんですよ」
そう答えると、先輩はおかしそうにくすっと息を漏らした。
「それ、父さんもだよ」
「和馬さんもですか? きっちりしてる人のように見えてたけど……」
「仕事とか、外面はね。私生活では、結構大ざっぱ」
「……母さんと同じだ。似てるとこあるんですね」
「みたいだね。渋々行ったパーティーで気が合ったっていうのも納得かも」
顔を見合わせてふふっと笑い合った。
(すご……なんか、普通に会話できてる……?)
まだ心臓はドクドクいってるし、のぼせたように顔が熱いけど。少しずつ、上滑りじゃない会話をできるようになってきている。
「あ……ライラック。これも君が?」
テレビ台の上の花瓶に気づいた先輩が、傍に歩み寄った。
「はい。母さん、花好きなんで」
俺も、そっと花に触れている先輩の隣に立つ。
「季節ごとに旬の花を飾っておくと喜ぶんですよ。エッセイの執筆とかやってる時だと在宅時間長いんで、気晴らしにもなるかと思って。常になんか飾ってます」
「そっか。花って手かかるのに……優しいんだね」
(……手がかかるって知ってるってことは、先輩も花、好きなのかな)
「別に大したことじゃ──あっ、てか、これどうにかしないと……」
2ヵ月間、この家は留守になるのだ。このままにしておいたら枯れて、水も腐ってしまう。
花の世話は日々のルーティーンになっているので忘れなかったが、今日が迫るにつれ浮ついていたし、始末にまで気が回っていなかった。
「捨てるしかないか……」
「いや、まだ奇麗なのにもったいないよ。これも運ぼう」
言うなり先輩は、花瓶を手に取った。
「……先輩んちに飾ってくれるんですか?」
「そう。まだ咲いてるのに捨てるなんてかわいそうでしょ」
(かわいそう!)
先輩の腕に抱かれ、先輩にそんなことを言ってもらえるなんて、なんて幸せなライラックなんだこいつは。
「わかりました」
俺たちはキッチンに移動すると、手早く作業を開始した。先輩が花瓶から花を抜いて水を流している間に、俺がキッチンペーパーを濡らす。先輩が花を支えてくれているので、俺がペーパーを茎に巻き付け、さらにアルミホイルとビニール袋で覆う。
「うん、これでいい」
ものの1分ほどで作業を終えると、先輩は花を手に、満足そうに相好を崩した。
(……もしかして今、初めての共同作業をしてしまったんじゃ)
花瓶を洗いながら、ふと気づいてボッと頬が熱くなる。
「お風呂場もトイレの窓もちゃんと閉まってたわ。蒼羽、他は──あら、何してるの、あなたたち?」
母さんがリビングに戻ってきた。俺は慌てて花瓶を水切りラックに置くと、ごまかすように大声を張り上げる。
「ちょっと花の片付け忘れてて! 急いで確認してくるから、先に車行ってて! 先輩も行っててください! 花、頼んます!」
「……僕も戸締まり見るよ?」
「いいです! すぐ終わります!」
(絶対今、顔真っ赤だから! 見ないでくれ……!)
多少は普通に会話できるようになった気もしたが、やっぱり憧れの人との共同生活はハードルが高そうだ。
とはいえ、もう引き返せない。
荷物を天月家に運び終わると、近くのファミレスでランチを取った。そして午後2時頃、「6月の再会を楽しみにしてる」と告げ、和馬さんと母さんは空港へ。2組の親子はしばしの別れとなる。
いよいよ、俺と先輩の共同生活が幕を上げた。
心ここにあらずで過ごす1週間は異様なほど早いのだと、俺は16の春にして学んだ。
あれよという間に天月先輩との同居が決まり、荷物をまとめ、冷蔵庫の整理をし、バイト先に家庭の事情だと言ってしばらくの休みをもらい。
そして次の週末、土曜日の朝。俺の引っ越しと、母さん&和馬さんの渡米の日。
俺は母さんと、自宅マンションのエントランス前で和馬さんの車を待っていた。
同居する家は、天月家のほうに決まったのだ。森中家より間取りが広く一室余っているというし、学校に近いのもこちらだったので、悩むべくもなく。
もちろん一時的な同居なので、最低限の荷物を運ぶだけ。母さんも同じで、滞在先のホテルに何でもあるからと、スーツケースひとつで渡米する。
「あ、来た来た」
引っ越し作業の後そのままフライトだからと、ラフな服装にロングヘアをアップにした母さんが、声を弾ませた。
ちょうど今、国道を曲がって前の通りに入ってきたダークブルーのバン。あれが和馬さんの車らしい。目を凝らしていると、運転席の和馬さん、助手席の天月先輩の顔も確認できた。
「お待たせ! おはよう、玉季さん、蒼羽くん」
やがて、路肩につけたバンからまず和馬さんが降りてきた。少し遅れて、天月先輩も降りてくる。
その瞬間だけ、俺の目にはバンが王室御用達の馬車に見えた。
(なんでこの人は、何をしてても上品できれいなんだ……)
「おはようございます、玉季さん」
母さんにペコッと会釈してから、ロイヤルなその人は、
「蒼羽くんも、おはよう。晴れてよかったね」
(うっ……!)
いきなりの名前呼びと朝日に輝く笑顔を食らって、思わず胸を押さえそうになる。
校内で見かけることはあったが、ちゃんと会って言葉を交わすのは1週間ぶりだ。やっぱりまだ全然慣れない。動悸がする。手のひらに3回『神』と書いて飲みたい。
(しかも……し、私服……)
今日の先輩は、モスグリーンのシャツに、ストレッチのきいたスリムなベージュのチノパンという格好だった。ザ・私服だ。制服とはイメージが違って新鮮すぎる。
私服というなら会食の時もなのだが、あの日の先輩は黒のジャケットだった。
うちの制服はグレーチェックのスラックスに黒のブレザーだから、座ってしまえばほとんど学校での姿とイメージが変わらなかったのだ。
今日は無理だ。こんなの、ドキドキするなというほうが無理だ。
「お、おはおは、おはようごじゃいますっ」
かくして挨拶すらまともにできない俺だったが、心優しきクイーンは笑うでもツッコむでもなく、さらりと流して、
「荷物、どれくらい?」
と聞いてきた。
「あ、えと……段ボール5個です。あと、リュックとスポーツバッグ」
「それと、私のスーツケースね」
「よし、1回で積めそうだな。じゃ、さっそく運ぼうか」
和馬さんの掛け声で、4人でマンションへ入る。少ない荷物の積み込みはあっという間に終わった。
いったんリビングに戻ったところで、和馬さんが俺と母さんに向けて言う。
「最後に一応、忘れ物がないかや、戸締りの確認をしておいたらどうだい? 僕は車で待っているよ。何かあるといけないし」
「あ、そうですね」
「じゃあ私、自分の部屋とお風呂場見てくるわね。蒼羽、他お願い!」
「わかった」
和馬さんと母さんがリビングを出ていった。俺と先輩の二人になる。
(……なんで先輩、和馬さんと車に戻らなかったんだろ……?)
チラと向けた視線の先で、先輩は興味深そうに室内を見回していた。
「……あの、どうか……?」
「あ、ごめん、ジロジロ見て、綺麗に片付いてるなと思って」
「……そうですか?」
「うん、居心地よさそうな部屋だ。掃除は君が?」
「そうですね、掃除も整とんも、大体は俺が。母さんより俺のほうが時間あるし、上手いんで」
「君のほうが掃除上級者なんだ?」
「はい。あの人、典型的な『四角い部屋を丸く掃除機する人』なんですよ」
そう答えると、先輩はおかしそうにくすっと息を漏らした。
「それ、父さんもだよ」
「和馬さんもですか? きっちりしてる人のように見えてたけど……」
「仕事とか、外面はね。私生活では、結構大ざっぱ」
「……母さんと同じだ。似てるとこあるんですね」
「みたいだね。渋々行ったパーティーで気が合ったっていうのも納得かも」
顔を見合わせてふふっと笑い合った。
(すご……なんか、普通に会話できてる……?)
まだ心臓はドクドクいってるし、のぼせたように顔が熱いけど。少しずつ、上滑りじゃない会話をできるようになってきている。
「あ……ライラック。これも君が?」
テレビ台の上の花瓶に気づいた先輩が、傍に歩み寄った。
「はい。母さん、花好きなんで」
俺も、そっと花に触れている先輩の隣に立つ。
「季節ごとに旬の花を飾っておくと喜ぶんですよ。エッセイの執筆とかやってる時だと在宅時間長いんで、気晴らしにもなるかと思って。常になんか飾ってます」
「そっか。花って手かかるのに……優しいんだね」
(……手がかかるって知ってるってことは、先輩も花、好きなのかな)
「別に大したことじゃ──あっ、てか、これどうにかしないと……」
2ヵ月間、この家は留守になるのだ。このままにしておいたら枯れて、水も腐ってしまう。
花の世話は日々のルーティーンになっているので忘れなかったが、今日が迫るにつれ浮ついていたし、始末にまで気が回っていなかった。
「捨てるしかないか……」
「いや、まだ奇麗なのにもったいないよ。これも運ぼう」
言うなり先輩は、花瓶を手に取った。
「……先輩んちに飾ってくれるんですか?」
「そう。まだ咲いてるのに捨てるなんてかわいそうでしょ」
(かわいそう!)
先輩の腕に抱かれ、先輩にそんなことを言ってもらえるなんて、なんて幸せなライラックなんだこいつは。
「わかりました」
俺たちはキッチンに移動すると、手早く作業を開始した。先輩が花瓶から花を抜いて水を流している間に、俺がキッチンペーパーを濡らす。先輩が花を支えてくれているので、俺がペーパーを茎に巻き付け、さらにアルミホイルとビニール袋で覆う。
「うん、これでいい」
ものの1分ほどで作業を終えると、先輩は花を手に、満足そうに相好を崩した。
(……もしかして今、初めての共同作業をしてしまったんじゃ)
花瓶を洗いながら、ふと気づいてボッと頬が熱くなる。
「お風呂場もトイレの窓もちゃんと閉まってたわ。蒼羽、他は──あら、何してるの、あなたたち?」
母さんがリビングに戻ってきた。俺は慌てて花瓶を水切りラックに置くと、ごまかすように大声を張り上げる。
「ちょっと花の片付け忘れてて! 急いで確認してくるから、先に車行ってて! 先輩も行っててください! 花、頼んます!」
「……僕も戸締まり見るよ?」
「いいです! すぐ終わります!」
(絶対今、顔真っ赤だから! 見ないでくれ……!)
多少は普通に会話できるようになった気もしたが、やっぱり憧れの人との共同生活はハードルが高そうだ。
とはいえ、もう引き返せない。
荷物を天月家に運び終わると、近くのファミレスでランチを取った。そして午後2時頃、「6月の再会を楽しみにしてる」と告げ、和馬さんと母さんは空港へ。2組の親子はしばしの別れとなる。
いよいよ、俺と先輩の共同生活が幕を上げた。
