●〇●〇
話を終えると、楠本先輩は長居は申し訳ないと言い、すぐに帰っていった。
その後、遅めの夕食を済ませて、深夜近く。
俺が風呂から上がってリビングに入ると、掃き出し窓のカーテンが開いていた。ガラス越しに先輩が背中を向けて立っているのが見える。
「先輩。大丈夫なんですか、外出て」
窓を開けて呼びかけると、振り向いた先輩は涼やかに苦笑した。
「蒼羽くん、心配性すぎ。もうほとんど治ってるんだし、気温も暑いくらいなんだから平気だよ」
「う……すいません」
(まぁ、過保護になってるとは思う。つい心配で……)
でも、本人が言う通り体調は問題なさそうだ。夜風があるが、室内に入り込んできた空気は生ぬるい。
俺もサンダルをつっかけ、ベランダに出た。
先輩は柵に両手を置き……空でも見ていたのだろうか。同じように柵に腕を載せ、並んで立つ。
「──よかったですね、楠本先輩と話せて」
目線は空に向けておもむろに切り出すと、すぐ隣でうなずく気配がした。
「うん。蒼羽くんがとんでもない誤解してたのにはびっくりしたけどね」
「あー……その話はもう……」
とんだ独り相撲だったとわかり、まだ穴を掘って入りたいくらいだ。
その話題は勘弁してくださいと懇願しかけたところで、しかし俺はハタと気づいた。
待て。ひとつ、解決していないことがあるじゃないか。
(天月先輩が楠本先輩とそういう関係じゃないんだったら……『あれ』は、誰と間違えてたんだ?)
『今日はキスしないの?』──あの、寝言の意味は。
「どうしたの? 何か気になることでも?」
黙り込んだ俺を先輩が覗き込んでくる。
聞くか? 聞くなら今だ。いや、でもこんな立ち入ったこと……。
数秒逡巡する。けれど、最後には覚悟を決めた。
また逃げてどうする。楠本先輩だって、腹を決めて全部話してくれたんだ。
「……あのっ。俺が二人の関係を誤解してたのには、もうひとつ理由があってっ……」
えらく力の入った声になってしまって、楠本先輩は「え、あ、うん」と面食らったように身を引いた。
俺ははぁっと息を吐いて鼓動を落ち着ける。
「なに? もしかして僕が誤解させるようなことしてた?」
「実は……えっと、前に寝ぼけた先輩が……その……俺に、キ、キスを迫ってきたことがあってっ……」
あの時のことを生々しく思い出し、顔が熱くなるのを感じながらも打ち明けた。
「キス!? ええっ、うそっ!?」
先輩は叫んだ後で、ここが外だと思い出しパッと口を押さえる。
「まさか……蒼羽くんの勘違いじゃ……」
「ほんとです! 誰かと間違えてたみたいで……だから、その……そういう相手がいるんだと思って……」
「迫った……? 僕が……??」
深くうつむいて先輩が考え込む。うんうんとうなりそうな勢いで悩んでいるようだ。
たっぷり1分ほどそうしていたが、やがて唐突に顔を上げ、
「わかった! それ、キスを迫ってたんじゃなくて、避けようとしてたんだよ!」
「えっ……避けようと?」
「うん。きっと、子供の頃の夢を見てたんだと思う。僕、あの調子だから、いつも家族の誰かに起こしてもらってたんだけど。一時期、父さんがひげを生やしててね。頬にキスをしてから、ひげでジョリジョリ~ッて頬ずりして起こしてくるのにハマッてたんだよ。僕が嫌がって、早めに起きたから」
「はぁ!? ひげ……!?」
「そう。嫌がらせかってくらい何度もキスしてから、ジョリジョリッて。まぁそこまでしないと起きない僕が悪いんだけど。あれ、気持ち悪いし痛いし、すごく嫌で。今でもたまに夢で見ちゃうんだよねぇ。その時に蒼羽くんが起こしに来たから、父さんと間違えてたんじゃないかなぁ」
「……和馬さんと……」
(それじゃあのセリフも……ねだってたんじゃなくて、単にキスしてこないのが不思議だっただけってことか……?)
そういえば、何かを探るように頬を触られた気もする……。
「~~~~っ。マジか…………」
俺はガクッと屈み込み、両手で頭を抱えた。
(またしても、勝手な早とちりを……)
「え、蒼羽くん? 大丈夫?」
肩に手が触れる。困惑させているのはわかっているが、ちょっと頭が上げられない。
(絶対、とんでもなく情けない顔してる、今……)
「すいません、力抜けて……はぁぁ……」
「ごめんね、僕まったく覚えてなくて……。そりゃ、そんなことがあったら驚くよね。誤解するのにも色々と理由があったんだね……」
「や、先輩は悪くないです。勘違いしたのは俺なんで」
これ以上こっちがヘタッていると先輩が落ち込みそうだ。俺はグッと体に力を入れて立ち上がった。顔の赤みは、多少でもマシになっていることを祈る。
「改めて伝えておくけど……僕と悠日はあくまで友達だし、僕にはそういう相手もいないから」
向かい合った俺に、先輩ははにかみながら言った。
「はい。肝に銘じておきます。もう変な勘違いはしません」
力強く誓うと、しゃちほこばった言い方がおかしかったのか、ふふっと笑われる。
「蒼羽くんって……ほんとに、いい子だよねぇ」
「……いい子って」
妙にしみじみと言われたのが、くすぐったくて戸惑った。
先輩は気に障ったと誤解したようで、軽く慌てる。
「あ、ひとつしか違わないのに失礼な言い方だったかな。でも、違うんだよ。子ども扱いしたわけじゃなくて……ただ、いいなって思ってるってことを伝えたくて」
「別に怒ってないですよ。先輩に『いい子』って言ってもらえるほどの人間でもないと思いますけど」
(勝手に誤解して一人で悶々と悩んだり、突っ走ったり。バカみたいだよな、俺)
内心で自嘲しながらこめかみを掻く。
「そんなことない!」
先輩が急に語調を強め、ずいっと身を寄せてきた。至近距離、真正面から見上げられて思わず息を詰めてしまう。
「蒼羽くん、自分のことを低く評価しすぎ。蒼羽くんに、僕も悠日もたくさん助けられてるんだよ。悠日が僕と向き合ってくれたのだって、蒼羽くんのおかげなんだから」
「へっ? いや、俺はそんな──」
「そんなことあるの! 当事者が言ってるんだから信じてよ!」
さらに顔を寄せて訴えてくる先輩。頬を紅潮させ、両手はグーだ。
(う……かわ……)
うっかりときめきそうになって、俺は目線を外した。ヤバい、落ち着きつつあった顔の火照りが再燃する。
気をそらそうとして、ふと、そういえば以前のこの人の印象はまず『きれい・美しい』だったのに、同居を始めてからはかわいくて仕方ないな、などと考えた。まったく気がそらせていない。
「蒼羽くん」
視線を引き戻そうとするように、名前を呼ばれた。真剣な声音だ。
俺は再び、彼と向き合う。
「あのね、蒼羽くん。僕、君に話したいことが──」
と、その時、強めの風がベランダを走り抜けていった。
直後、先輩が短くくしゃみをする。
「! 大丈夫ですか? 冷えたんじゃ──」
「平気だよ。今のはムズッとしただけで……多分、砂ぼこり」
鼻の下をこすりながらコンクリートの床を見る先輩。俺もぐるっと首をめぐらせた。
「ああ……ここ、ガランとしてるし逆に砂ぼこりがたまりやすいのかもですね。何もないと放置しがちになるし。掃除しなきゃですね」
「そうだね。……ここ、やっぱり殺風景で寂しいよね」
先輩はしばらく灰色の床を見続けていた。思い詰めたような横顔にどうしたんだろうと思いつつ、俺はそっと尋ねる。
「……ところで、さっき何か言おうとしてました?」
「あ……うん」
こちらを向いた先輩は、ニコッときれいな笑みを作った。
「今日はいい。今度、話すよ」
「……? そうですか。じゃ、そろそろ中に戻りましょうか」
(何を言おうとしてたんだろう……?)
話を終えると、楠本先輩は長居は申し訳ないと言い、すぐに帰っていった。
その後、遅めの夕食を済ませて、深夜近く。
俺が風呂から上がってリビングに入ると、掃き出し窓のカーテンが開いていた。ガラス越しに先輩が背中を向けて立っているのが見える。
「先輩。大丈夫なんですか、外出て」
窓を開けて呼びかけると、振り向いた先輩は涼やかに苦笑した。
「蒼羽くん、心配性すぎ。もうほとんど治ってるんだし、気温も暑いくらいなんだから平気だよ」
「う……すいません」
(まぁ、過保護になってるとは思う。つい心配で……)
でも、本人が言う通り体調は問題なさそうだ。夜風があるが、室内に入り込んできた空気は生ぬるい。
俺もサンダルをつっかけ、ベランダに出た。
先輩は柵に両手を置き……空でも見ていたのだろうか。同じように柵に腕を載せ、並んで立つ。
「──よかったですね、楠本先輩と話せて」
目線は空に向けておもむろに切り出すと、すぐ隣でうなずく気配がした。
「うん。蒼羽くんがとんでもない誤解してたのにはびっくりしたけどね」
「あー……その話はもう……」
とんだ独り相撲だったとわかり、まだ穴を掘って入りたいくらいだ。
その話題は勘弁してくださいと懇願しかけたところで、しかし俺はハタと気づいた。
待て。ひとつ、解決していないことがあるじゃないか。
(天月先輩が楠本先輩とそういう関係じゃないんだったら……『あれ』は、誰と間違えてたんだ?)
『今日はキスしないの?』──あの、寝言の意味は。
「どうしたの? 何か気になることでも?」
黙り込んだ俺を先輩が覗き込んでくる。
聞くか? 聞くなら今だ。いや、でもこんな立ち入ったこと……。
数秒逡巡する。けれど、最後には覚悟を決めた。
また逃げてどうする。楠本先輩だって、腹を決めて全部話してくれたんだ。
「……あのっ。俺が二人の関係を誤解してたのには、もうひとつ理由があってっ……」
えらく力の入った声になってしまって、楠本先輩は「え、あ、うん」と面食らったように身を引いた。
俺ははぁっと息を吐いて鼓動を落ち着ける。
「なに? もしかして僕が誤解させるようなことしてた?」
「実は……えっと、前に寝ぼけた先輩が……その……俺に、キ、キスを迫ってきたことがあってっ……」
あの時のことを生々しく思い出し、顔が熱くなるのを感じながらも打ち明けた。
「キス!? ええっ、うそっ!?」
先輩は叫んだ後で、ここが外だと思い出しパッと口を押さえる。
「まさか……蒼羽くんの勘違いじゃ……」
「ほんとです! 誰かと間違えてたみたいで……だから、その……そういう相手がいるんだと思って……」
「迫った……? 僕が……??」
深くうつむいて先輩が考え込む。うんうんとうなりそうな勢いで悩んでいるようだ。
たっぷり1分ほどそうしていたが、やがて唐突に顔を上げ、
「わかった! それ、キスを迫ってたんじゃなくて、避けようとしてたんだよ!」
「えっ……避けようと?」
「うん。きっと、子供の頃の夢を見てたんだと思う。僕、あの調子だから、いつも家族の誰かに起こしてもらってたんだけど。一時期、父さんがひげを生やしててね。頬にキスをしてから、ひげでジョリジョリ~ッて頬ずりして起こしてくるのにハマッてたんだよ。僕が嫌がって、早めに起きたから」
「はぁ!? ひげ……!?」
「そう。嫌がらせかってくらい何度もキスしてから、ジョリジョリッて。まぁそこまでしないと起きない僕が悪いんだけど。あれ、気持ち悪いし痛いし、すごく嫌で。今でもたまに夢で見ちゃうんだよねぇ。その時に蒼羽くんが起こしに来たから、父さんと間違えてたんじゃないかなぁ」
「……和馬さんと……」
(それじゃあのセリフも……ねだってたんじゃなくて、単にキスしてこないのが不思議だっただけってことか……?)
そういえば、何かを探るように頬を触られた気もする……。
「~~~~っ。マジか…………」
俺はガクッと屈み込み、両手で頭を抱えた。
(またしても、勝手な早とちりを……)
「え、蒼羽くん? 大丈夫?」
肩に手が触れる。困惑させているのはわかっているが、ちょっと頭が上げられない。
(絶対、とんでもなく情けない顔してる、今……)
「すいません、力抜けて……はぁぁ……」
「ごめんね、僕まったく覚えてなくて……。そりゃ、そんなことがあったら驚くよね。誤解するのにも色々と理由があったんだね……」
「や、先輩は悪くないです。勘違いしたのは俺なんで」
これ以上こっちがヘタッていると先輩が落ち込みそうだ。俺はグッと体に力を入れて立ち上がった。顔の赤みは、多少でもマシになっていることを祈る。
「改めて伝えておくけど……僕と悠日はあくまで友達だし、僕にはそういう相手もいないから」
向かい合った俺に、先輩ははにかみながら言った。
「はい。肝に銘じておきます。もう変な勘違いはしません」
力強く誓うと、しゃちほこばった言い方がおかしかったのか、ふふっと笑われる。
「蒼羽くんって……ほんとに、いい子だよねぇ」
「……いい子って」
妙にしみじみと言われたのが、くすぐったくて戸惑った。
先輩は気に障ったと誤解したようで、軽く慌てる。
「あ、ひとつしか違わないのに失礼な言い方だったかな。でも、違うんだよ。子ども扱いしたわけじゃなくて……ただ、いいなって思ってるってことを伝えたくて」
「別に怒ってないですよ。先輩に『いい子』って言ってもらえるほどの人間でもないと思いますけど」
(勝手に誤解して一人で悶々と悩んだり、突っ走ったり。バカみたいだよな、俺)
内心で自嘲しながらこめかみを掻く。
「そんなことない!」
先輩が急に語調を強め、ずいっと身を寄せてきた。至近距離、真正面から見上げられて思わず息を詰めてしまう。
「蒼羽くん、自分のことを低く評価しすぎ。蒼羽くんに、僕も悠日もたくさん助けられてるんだよ。悠日が僕と向き合ってくれたのだって、蒼羽くんのおかげなんだから」
「へっ? いや、俺はそんな──」
「そんなことあるの! 当事者が言ってるんだから信じてよ!」
さらに顔を寄せて訴えてくる先輩。頬を紅潮させ、両手はグーだ。
(う……かわ……)
うっかりときめきそうになって、俺は目線を外した。ヤバい、落ち着きつつあった顔の火照りが再燃する。
気をそらそうとして、ふと、そういえば以前のこの人の印象はまず『きれい・美しい』だったのに、同居を始めてからはかわいくて仕方ないな、などと考えた。まったく気がそらせていない。
「蒼羽くん」
視線を引き戻そうとするように、名前を呼ばれた。真剣な声音だ。
俺は再び、彼と向き合う。
「あのね、蒼羽くん。僕、君に話したいことが──」
と、その時、強めの風がベランダを走り抜けていった。
直後、先輩が短くくしゃみをする。
「! 大丈夫ですか? 冷えたんじゃ──」
「平気だよ。今のはムズッとしただけで……多分、砂ぼこり」
鼻の下をこすりながらコンクリートの床を見る先輩。俺もぐるっと首をめぐらせた。
「ああ……ここ、ガランとしてるし逆に砂ぼこりがたまりやすいのかもですね。何もないと放置しがちになるし。掃除しなきゃですね」
「そうだね。……ここ、やっぱり殺風景で寂しいよね」
先輩はしばらく灰色の床を見続けていた。思い詰めたような横顔にどうしたんだろうと思いつつ、俺はそっと尋ねる。
「……ところで、さっき何か言おうとしてました?」
「あ……うん」
こちらを向いた先輩は、ニコッときれいな笑みを作った。
「今日はいい。今度、話すよ」
「……? そうですか。じゃ、そろそろ中に戻りましょうか」
(何を言おうとしてたんだろう……?)
