愛してるから『弟』でいます。

 ●〇●〇



 2日もしないうちに、校内では噂が流れ始めた。
 『キングとクイーンがおかしい』
 『二人でいるところをあまり見なくなった』
 『ケンカっていう感じじゃないけどよそよそしい。絶対何かあった』
 大体、そんな内容だ。 

「なぁ蒼羽、例の噂マジなわけ?」
「……知らねーよ」
 弘樹に聞かれたが、そうとしか答えようがなかった。
 家での先輩はいつも通りなのだ。いつも通りにふるまっている。
 ひとつ屋根の下で暮らしていれば、それがカラ元気のように感じられる時もあるけれど。
(先輩がそういうふうに装ってるのに、あえて聞くなんていうのは……)
 余計なお世話になりそうで、踏み込めずにいた。
 そしてそんな言い訳以上に──聞く勇気が、なかった。



 状況が動いたのは翌日だった。
 今日も弘樹は練習なので、ひとりの下校路。学校最寄りの駅に着いた俺は、入口付近に天月先輩と楠本先輩の姿を見つけた。
 駅に入る様子はなく、人の流れを避けられる位置で立ち話をしている。
(……噂通り、ケンカじゃないんだよな)
 でもやっぱりおかしい。
 天月先輩の表情が硬く、神妙な空気が漂っていた。
 見て見ぬふりして素通りするかどうか悩んでいたけれど、何気なく横を向いた楠本先輩と目が合った。
「や、蒼羽くん」
 パッとにこやかな顔になり、彼がひらひらと手を振る。天月先輩はそこで初めて俺に気づき、わずかにほほ笑んだ。
 素通りもできなくなって、俺は戸惑いつつも二人の傍へ歩み寄った。
「……どうも」
「この時間に帰ってるってことは、蒼羽くんも応援団とかリレーには参加しない組?」
 楠本先輩が、これまでと変わらない気さくなノリで尋ねてくる。
「はい。楠本先輩もそうなんですか」
(この人、運動神経も抜群で、よくいろんな部の助っ人に駆り出されてるって話だったよな)
 有能な人材すぎて、争奪戦を防ぐため逆に帰宅部を通しているという噂だ。たしか去年はチーム対抗リレーのアンカーだった。
「うん、俺も今年は個人競技だけ」
「へぇ……そうなんですね」
(意外だな。大戦力だろうに)
 そう思ったのは顔に出ていたようで、楠本先輩は「3年が出張るより、後輩に活躍してほしいからね~」と付け加える。
 と、それまでは俺たちの会話に耳を傾けていた天月先輩がこっちを見て言った。
「蒼羽くん、先に帰っててくれる? 僕と悠日、今からちょっと行くところがあって。ね、悠日?」
 最後は楠本先輩に目線を移し、ニコッと笑いかける。
 楠本先輩は一瞬だけ無言で天月先輩を見返して、でもすぐに口角を上げると、
「うん。蒼羽くん、またね」
 再び軽やかに手を振って身をひるがえした。
 天月先輩も「じゃあね」と俺に告げてから楠本先輩に並び、二人で近くのビルのほうに歩いていく。カフェやファストフード店が入っているテナントビルだ。
(二人で寄り道、か……?)
 けれど、後ろ姿に楽しそうな雰囲気はうかがえない。
 やっぱりこれまで見てきた二人とは様子が違って、なんともいえない違和感と疑問を抱きながら、駅へ向き直ろうとした時。
 俺は、俺以外にももう一人、先輩たちをじっと見ている人物がいることに気づいた。
「……?」
 20代なかばくらいの男だった。歩道沿いの街路樹の近くに立っていて、少し距離がある。
 でもたしかに、その男の目は先輩たちを追っていた。
(なんだ、あいつ?)
 細身のデニムに、ネイビーのシャツ。高身長だ。185㎝くらいだろうか。
 瘦せ型で、肌は白いというより青白い。不健康な印象のある白さだ。手ぶらで、どう見ても会社員という感じではない。
 先輩たちを確認すると、今まさにビルの入口へ入っていった。
 その姿が消えてからも、男はぼんやりとした眼差しで同じ場所を見続けている。
(なんか胡散くさげなヤツだな……)
 自分の眉間がぎゅっと寄るのがわかる。
 と、男はようやく視線を動かした。その顔がこっちを向き、しっかりと目が合った。
「……!」
 男はぎくりとしたように肩を揺らした。
 俺は反射的に歩き出していた。後ろめたさがなければあんな反応をするはずがない。
 男を睨み据えたままズンズンと近づき、そのままの勢いで口を開く。
「なに、見てたんですか」
 思い出したのは、前に弘樹から聞いた話だ。
 『二人とも、何度も芸能事務所に声かけられてるし、読モになってくれってしつこく勧誘してくる雑誌社もあるって聞いたぜ』
 芸能事務所や雑誌社の人間がどういう感じなのかは知らない。でもとうてい普通の会社員に見えないこの男。タチの悪い勧誘屋だという可能性は大いにある。
「え……あ……」
 男は感情の抜け落ちたような無表情だけれど、泳ぐ視線で困惑は伝わってきた。
 近くで見ると薄い二重で、顔立ちはなかなか整っている。
 とにかく無駄な肉が一切ない細さで、そのせいか首は長く、顎もとがり気味に見える。
 なんというか、体温のないロボット感というか、俗世離れした空気をまとう男だ。悪意の勧誘屋という印象からはズレるけれど…… 
「今あそこのビルに入っていった二人、ずっと見てましたよね?」
 重ねて聞くと、男はまたピクッと反応した。肯定しているようなものだ。
「失礼ですが、あの二人にご用ですか? 俺、わりと親しい間柄なんで、なんでしたら代わりに聞きますけど」
「あー……え、と……」
 顔を背け、首に手を当て言葉を濁す男。俺は無言の圧で返答を待った。
 下を向いたり、上を向いたり。しばらく悩むような素振りを見せた後で、男は深いため息をついてようやく言葉を発する。
「……怪しい者じゃない。いや、どうかな。わからないけど……」
「はあ?」
(どっちなんだよ。つーかその言い方がむちゃくちゃ怪しいだろ)
 俺の瞳は剣呑な色を濃くしたことだろう。男は「そう睨むなよ」と吐息混じりに言った。
 反論してやろうかと思ったが、その前に男が続けて話す。
「あの二人と親しいって?」
「え……はい、それなりに」
 自分で言ったことへの確認なだけに、無視もできずにとりあえずうなずいた。
「そう……」
 男はビルの入口を見て、次に自分の靴先を見て、やがて少し思い切ったように顔を上げた。
「どう? 最近変わった様子とかない? 元気にやってる?」
「は……いや、だからあんた誰なんだよ」
(何が聞きたいんだ?)
 思わず敬語も忘れて突っかかると、男は一歩後ろに下がった。
「……今の撤回。ごめん気にしないで、忘れて」
 骨ばった手を広げて俺の接近を制すと、背中を向ける。
「あ、ちょっと!」
 呼び止めたが、振り返ることなく見ていたビルとは逆方向に走り去った。
 人の多い駅前通りに逃げられ、すぐに姿も見失ってしまう。
「っ……なんなんだよ、いったい」
 『元気にやっているか』なんていう口ぶりは、顔見知りのようでもあった。先輩たちと面識はあるということだろうか。
(やっぱ、しつこく勧誘してる雑誌社のヤツとかか? それっぽくはなかったけど……)
 最近変わった様子はないか、と聞いていた。
 それなら大アリだ。きっと先輩たちには今、なんらかの問題が生じている。
(誰か知らないけど、そんな時に余計な面倒事を持ってこないでくれよな)
 いら立ちをわしゃわしゃ頭をかいて散らし、俺は駅へと向かった。



 その後、先輩は俺より1時間ほど遅く帰ってきた。
 あの男のことを、俺は迷ったけれど伝えないことにした。
 先輩は今、悩みを抱えていると思うから。これ以上、心を重くさせるようなことは避けたかった。
 9時を回った頃。キッチンの片付けも終え、リビングでテレビを見ながら二人でくつろいでいると、先輩のスマホがメッセージを着信した。
 画面を見た先輩は、きれいなカーブを描く眉をスッと寄せる。
「……どうかしたんですか?」
「あ……うん……」
 少し迷うような間があったけれど、先輩は不安のにじむ声でそのまま「悠日が……」と続けた。
 視線が再びスマホ画面に戻る。
 隠したいのではなく、言いにくそうな気配を察して、俺も横から覗き込んだ。
 それはクラスメイトからのメッセージのようだった。
 『楠本が××町のちょっとヤバそうなエリアに、切羽詰まった感じで入っていくのを見た』
 『中間の成績は下がるし体育祭の打診も断るし、やっぱり何かあったんじゃないのか。あいつ大丈夫か?』
 そういうような内容だった。
 地名は、新宿区にある有名な歓楽街だ。治安のよい街ではなく、区画によっては怪しかったりいかがわしい店も多くあると聞く。高校生が夜に一人で行くような場所ではない。
(なんでそんなところに……)
 スマホを右手で固く握る先輩の顔は青ざめていた。
「何か心当たりありますか、先輩?」
「……ううん、わからない……」
 俺の声で我に返ったように顔を上げ、弱々しく首を振る。
「楠本先輩に電話してみたらどうですか」
「……そうだね」
 先輩は音声通話を発信し、スマホを耳に当てた。
 コール音は俺にも小さく聞こえた。けれど、つながらない。
「メッセージは?」
 送ってみる。既読がつかない。
 もう一度電話した。先ほどと同じくコール音が鳴るだけ。
 先輩の頬がどんどん強張っていく。
 やっぱり楠本先輩には、クラスメイトも気づくほどの異変があって。天月先輩は、ずっとそれを心配していたんだ。
 そして、今。彼の憂慮はますます膨らみ、雷雲のようにうごめいているに違いない。
「探しに行きましょう、先輩」
 俺は立ち上がった。
 座ったままの先輩が、困惑を隠そうともせず見上げてくる。
「……××町に?」
「そうです。連絡つかないなら行くしかない」
 立つ気配のない先輩に少し強く言ったが、それでも彼の腰は上がらなかった。
「でも……僕が行っても迷惑かも……」
 長いまつ毛を伏せて、俺を見ないまま床に声を落とす。
「迷惑って……」
(ああ、そうか。先輩は……踏み込むのが怖いんだな)
 渡り廊下での光景を思い出した。
 笑顔の仮面をつけたまま去っていった楠本先輩。引き止められなかった天月先輩。
 天月先輩は、それ以上踏み込んで、明らかな拒絶をされるのが怖いのだ。
 優しい人だ。もちろん、相手を困らせたくないという優しさもあるだろうけど。
(でも、今は……)
「そんな真っ青な顔してなに言ってんですか。気にしてる場合じゃないでしょ」
 俺は先輩の左腕を取った。驚いて再び俺を見た彼の眼差しを、しっかりとらえる。
「楠本先輩が心配なんでしょ? 大事なんでしょ? だったら行かないと。何かあってからじゃ、後悔しても遅いんですよ」
「蒼羽くん……」
 俺につかまれているだけだった左手、その拳がきゅっと握られる。瞳にも意志の力がこもった。
「そうだね、行こう」
 立ち上がる。身支度もそこそこに、俺たちは家を飛び出した。



 今日も曇りがちだった空からは、電車に乗っている間に雨が降り始めた。
 新宿駅を出るとすっかり本降りで、駅前のロータリーは色とりどりの傘で埋め尽くされている。
 ××町といっても広い。乗車中、先輩はメッセージをくれたクラスメイトに目撃した具体的な位置を確認したけれど、まだ楠本先輩がそこにとどまっているとは限らない。
 本人への連絡はずっと未読とコールのみだ。無視されているのか、気づく余裕もない状態なのか……。
「とにかく、行ってから聞き込みしかないですね」
「うん」
 売店で買ったビニール傘を手に、人混みを急ぎ足で歩いていく。
 ところが、ものの2分もしないうちに前を行く先輩の足が止まった。
「……悠日!」
「えっ?」
 俺は立ち位置を替えて、先輩の背中で隠れていた前方を見やる。
 ロータリーから通りへ出る出入り口のひとつ。その脇の花壇の前に、座り込んでいる人がいた。
 傘もささずに、片方の膝を立てて、もう片方の足は投げ出して。
 膝に頭を載せているので顔は見えない。身動きひとつせず、意識があるのかも怪しい。
 その異様な状態に、周囲の人はいぶかしげな顔で遠巻きにしている。
「悠日!」
 叫ぶように呼んで、先輩が駆け寄る。俺も後を追った。
「悠日、大丈夫!?」
 傘を放り投げるように手放し、屈み込んでその人の両肩をつかむ先輩。
 彼のこんなに緊迫した声は初めて聞いた。
 座り込んでいた人物がゆっくりと顔を上げる。楠本先輩だった。濡れた髪が血の気の失せた顔に張り付いている。
「っ……! こんなに冷えて……!」
 目まで隠している楠本先輩の髪を払い、一瞬その眼差しをとらえてから。
 天月先輩はたまりかねたように、その体をきつく抱きしめた。
「……榛名……なんで……」
 楠本先輩は魂が抜けたような顔でされるままになっている。かすれる声を漏らしたが、そこにも感情らしい感情はうかがえない。
「沼田が見かけて、心配して連絡くれたんだよ」
 抱きしめたまま答える天月先輩は涙声だった。
「沼田……ああ、あいつがバンドの練習してるスタジオ、この辺りだったか……」
 抑揚なく言ってから、楠本先輩は「ミスったな……」と続けた。
 心はまだ夢かあの世を浮遊しているような、弱々しい声だ。それでも少しはマシになったのを察してか、天月先輩は体を離した。
 両肩は支えたままで、顔を近づけて「何があったの?」と聞く。
「…………」
「悠日。話してよ」
 楠本先輩は目を伏せた。
「……ちょっと。でも、榛名が気にするようなことじゃないよ」
 今度の声は、わざと抑揚を殺したような。意識してつむいだ、拒絶だった。
「悠日……」
 もどかしげに呼んだ天月先輩の指先に力がこもる。
 高ぶりを静めるようにゆっくりと呼吸してから、彼は再び問いかけた。
「悠日は『ちょっとしたこと』で、こんなずぶ濡れにはならないよね」
「…………」
 楠本先輩は答えない。うつむいたまま、呼びかける相手を見ようとしない。
「……話してくれないのは、僕が信用できないから? 僕じゃ力不足だから?」
「……だから、話すようなことはないんだって。帰ろうとしてたんだよ。でも……疲れてさ。少し休んでただけ」
 かたくなに向き合うことを避けて、楠本先輩はそう話した。
 ──逃げと嘘でコーティングした、温度のない言葉を吐き出していた。
(なんだ。この人も、天月先輩と同じか)
 俺はそう思った。けれど、天月先輩の時よりもイラついている。
 なんでだよ、ふざけんなよ、という気持ちだった。
 なんで恐れる、なんで逃げる? こんなに、想われてるのに。
 俺が大好きな、この人に。
「いい加減にしてくださいよ。なに怖がってんですか」
 気づくと、怒りもあらわにそう怒鳴りつけていた。
 それまでは入り込む隙もなくて、ただ天月先輩の後ろに突っ立っていた俺だ。
 楠本先輩は、今初めて俺の存在に気づいたように顔を上げた。
「……蒼羽くん?」
 天月先輩も驚きと懸念を浮かべて俺を見上げる。
 何を言うつもりかと心配しているのかもしれない。でももう、止まらなかった。
 こんな二人の姿、見ていられない。
「なんでビビるんですか。一番近くに……こんなに近くにいるのに。天月先輩のこと、よくわかってるんじゃないんですか?」
 そう、楠本先輩も怖がっている。抱えている何かを、天月先輩にさらけ出すことを。
(言い訳なんかしたってムダだからな。俺にはわかる)
 だって同じだから。かたくなにうつむいて、心を外から塗り込めて、自分にも周りにも言い訳して逃げているあの感じ。
 あの頃の俺と同じだ。天月先輩と出会って変わる前の、いじけていた俺と。
「………。蒼羽くん、君……」
 呆然と俺を見て、楠本先輩が何か言おうとした。でも俺は、それもさえぎって続ける。
「この人のこと、見くびらないでくださいよ。この人がどれだけ優しい人か、あなただって知ってるでしょ。俺ですら知ってるんですよ。バカみたいに優しくて、あったかくて、こっちの弱いとこも情けないとこもダメなとこも、それどころか、ぐちゃぐちゃで自分でもよくわかんないとこまで、全部受け止めて包み込んでくれる人だって」
 天月先輩が息をのむのがわかった。見開かれた目が俺をじっと見ているのも。
 けど今は、楠本先輩から視線を外さない。
 とにかくもどかしかった。
 なんですれ違ってるんだ。こんなにも、お互いのことを大事に思い合っていながら。
「言いにくい事情があるのかもしれないし、よっぽどのことなのかもしれないけど。話してって言われてるのに逃げる必要、どこにあるんですか。先輩はちゃんと受け止めてくれます。そういう人です。もっとこの人のこと、信じてください」
 ああ、頭が熱い。脳内でグラグラ熱湯が煮えたぎっている。
「今のあなたたち、見てて焦れったいです。大切な相手なんでしょ。だったらお互いにぶつかったらいいじゃないですか。本音をぶちまけ合ったらいいじゃないですか」
 楠本先輩をにらみつけて力の入った眉間から鼻筋へ、水が伝っていく。それで、いつの間にか自分も傘をさしていないことに気づいた。さっき怒鳴った時に投げ捨てていたようだ。
「…………」
「…………」
 楠本先輩も天月先輩も、放心したように俺を見ている。周囲のざわめきと雨音が沈黙を埋めた。
 止まったような時間を、先に動かしたのは楠本先輩だった。
 わずかに唇の端を上げて──ふっと、苦く笑った。
「……こんなナイフみたいな説教、久しぶりに食らったな」
 言いながら、肩にかかっていた天月先輩の手をつかんで下ろす。そして片手を地面について立ち上がると、俺と天月先輩が放り出した傘を広い、それぞれに差し出した。
「はい、早くさして」
「悠日……これは君が」
 天月先輩が自分に向けられた傘を押し戻す。けれど楠本先輩は「いいよ」と断った。
「俺はもう、今さらさす意味ないだろ。自業自得だし。俺のせいで君たちまでずぶ濡れになるほうが困る」
「……わかった」
 先輩が傘を受け取る。「ほら君も」と言われて、俺も受け取った。
 楠本先輩は水滴を落とす髪を無造作にかき上げてから、改めて天月先輩を見る。
「心配させて悪かった。でも……少し考えさせてくれないか。整理したい」
「悠日……」
 二人は再び言葉なく、無言で見つめ合った。
 けれどもう、楠本先輩の瞳にさっきまでの拒絶はない。
 やがて、天月先輩は「うん」とうなずいた。
「じゃ、気をつけて帰って」
 最後に薄くほほ笑んで言い、楠本先輩は駅のほうへと歩き出した。軽快とはとうてい言えないけれど、その足取りはしっかりしている。
 天月先輩は後を追おうとはせず、じっとその後ろ姿を見送った。
(大丈夫だ。きっと、話してくれる。整理ってのができたら)
「信じて待ちましょう、先輩」
 もちろん、俺に言われるまでもなく先輩もそのつもりだろうけれど。
 少しでも励ませればと、俺は意識して明るい声で言った。
「うん、そうだね」
 駅のほうからこちらに向き直り、先輩も笑みを浮かべる。
「ありがとう、蒼羽くん」
「え? 何がですか。ていうか、えっと……その、出しゃばってすいませんでした」
 頭が冷えてくると、今さらながらとんでもないことを言ってしまったという自覚がわいてきた。
 楠本先輩に伝わったようで御の字だけれど、
(『怖がるな』とか……この間まで先輩への気持ち認めるのも怖がってた俺が、よく言えたもんだよな)
 ずいぶん調子のいい話だ。
 だけど、やっぱり、黙っていられなかった。
 傍で見ていれば、楠本先輩は怖がる必要なんかないんだと、よくわかるから。
(だって、天月先輩はこんなに……)
「出しゃばったんじゃなくて、君が僕を助けてくれたんだよ」
 今は穏やかに、俺を気遣ってかそんなふうに答えてくれる先輩。
 さっきは必死だった。泣きそうなほどに声を震わせていた。
(それだけ、楠本先輩が大切で……特別だからだ)
 クシュンと、先輩が小さなくしゃみをした。その体は俺より濡れている。
「俺たちも帰りましょう。このままじゃ風邪ひきます」
 家に着いたらすぐ風呂を沸かそう。今はやるべきこと、先輩を温めることに集中しよう。
 そう言い聞かせて、痛みはいったん胸の奥底に封じ込めた。