愛してるから『弟』でいます。

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 天気は午後から急下降し、学校を出る頃には雨になっていた。
 傘を打つ雨音を聞くとはなしに聞きながら、駅から家までの道を歩く。
『なんか参考なった? ま、おまえはおまえの答えを探してみろよ』
 弘樹は俺と槇原の話を細かく聞きはせず、それだけ言って笑っていた。
「俺の答え……」
 雨音に飲み込まれるほどの、小さな声で呟いてみる。
(『困らせるだろうから』は逃げ……ほんと、そうだよな)
 ストレートに体を射抜く言葉だった。先輩のためを思っているつもりで、俺は自分を正当化するもっともらしい理由を探していただけなのかもしれない。
(俺がどうしたいのか、どうなりたいのかを、ちゃんと見つめないと……)
 言い訳や建前ではない、本当の願望。飾りのない自分の想いを。
 そんな思案を巡らせていて、ふと、脳裏によみがえった声があった。


『本当の気持ちを、ありのまま言えばいいんじゃないかな。言いたいことを、ちゃんと言ってみようよ』


 俺を包んでいた雨の音が、あの夏のセミの鳴き声にとって代わる。
 そう。これも──あの人からもらった、宝物のような言葉のひとつだ。



「ケンカした? お母さんと?」
「ケンカっていうか……」
 いつもの公園。
 学校で目のことでいじめられて泣いてしまったあの日以来、俺はここに足を運ぶのがほぼ日課になっていた。
 普通じゃないのも悪いことばかりじゃないと。この目の色を綺麗だと言ってくれた彼に、とても救われたから。
 でも、その日の俺がまたあまり元気じゃないことを、彼はすぐに見抜いてしまった。
 今日は、別に話そうと思っていたわけじゃなかったのだけれど。
(どうして、なんでもわかっちゃうんだろう)
 かっこ悪い話だ。見抜かれて白状したものの、説明が続かない。
 自分が拗ねているだけだと、わかっているから。
「言いたくないなら無理には聞かないけど。でも……あーくんの心が、泣いてるみたいだよ?」
「っ! な、泣いてないよ……!」
 顔に熱が昇るのを感じながら否定する。でも彼は、くもりのない瞳で「ほんとに?」と俺を覗き込んできた。
 その時、声がした。
 他にも、遊具で遊ぶ子供たちが大勢いる公園。その声で満ちているこの場では、耳につく大人の声だ。
「ダイキー! そろそろ帰るわよ!」
「え~、もう!?」
 見れば、買い物袋を提げたお母さんが、俺たちより少し幼い男の子を迎えに来たようだ。友達と一緒だった男の子は残念そうな顔をしながらも、彼女のもとに駆けていく。
「早くない? まだぜんぜん明るいのにー」
「あら。餃子包むのやってみたいって、ダイキが言ったんでしょ。だったらもう帰らないと」
「あっ。そうだった!」
「やだ、忘れてたの? 餃子の皮、いっぱい買ったのよ」
「ごめんごめん! やる! おれうまくできるかなー!?」
「ふふっ、どうかしらね~。でも大丈夫。どんな形でも、パパは喜んで食べてくれるわよ」
 親子は楽しげに会話しながら遠ざかっていった。
 その姿を目で追いながら、俺は本当だ、と思う。
 チクチクと刺されるようなこの痛み。……心だけはひっそりと、涙を流しているのかもしれない。
 チラと隣を見ると、あの人もまだ親子を目で追っていた。俺の視線に気づくと、どこか気まずそうな苦笑を浮かべて視線を離す。
 俺は白状することにして、ぎこちなく話し始めた。
「2学期に運動会があるんだけど……お母さん、今年も仕事で来れないって」
「……今年も?」
「うん。今まで1回も、来てくれたことない。いつもばーちゃんだけ」
「……そうなんだ」
「昨日の夜、聞いて……つい、言っちゃったんだ。お母さんなんか、死ぬまでずっと仕事してたらいい、って」
 居場所のない学校。運動会だって、別に好きじゃないし楽しくもない。
 でもだからこそ。せめてお母さんが見てくれていたら、応援してくれたら、頑張れる気がするのに。俺の名を呼ぶ声援は、いつもひとつだ。
「……そっか」
 返ってくる声は終始静かだった。でも冷たくはない。
 俺からこぼれ落ちるものをそのまま全部受け止めて、そっと包んでくれるような声だった。
「お母さん、芸能人なんだっけ。曜日なんて関係なさそうだもんね。忙しいんだね」
「……うん」
 小さく答えたきり、俺は黙り込んだ。
 わかってはいるのだ。彼女が休みなく働くのは俺のためなのだと。
 『女ひとりで子供を育てるって、とても大変なことなのよ』とばーちゃんにもよく言われる。ばーちゃんにはもう外で働く元気がないから仕方ないのだ、我慢してやってくれ、と。昨夜も聞いた。
「……でもさ」
 沈黙を破ったのはあの人だった。
「さみしい時は、さみしいがっていいんじゃないかな」
「え……?」
 俺はまじまじと隣を見た。
 この人には俺の心の声が聞こえているんじゃないだろうかと、なかば本気で疑いながら。
「お母さんは、あーくんのためにお仕事がんばってるんだよね。でも、いそがしくて、大変で、気づく余裕がないのかもしれないよ。あーくんがどれだけさみしいのかってことに」
 だから、思い切って言ってみたら、と。彼は穏やかに提案してくる。
「でも……そんなこと言っても、困らせるだろうし……」
 この人の言葉でも、さすがに俺はためらった。
 そうだ、のみ込んできた言葉は山のようにある。
 もっとたくさん、一緒に晩ご飯が食べたい。学校の行事や授業参観に来てほしい。
 もっとたくさん、話がしたい。なんでもないその日のことを、笑いながらたわいなく話してみたい。
 テレビの中の奇麗なお母さんじゃなくていい。お化粧をしていない、普段着のお母さんでいい。そういうお母さんがいい。傍にいてほしい。
 だけど──そんなこと言えない。無理なことなんだから。
「言ってみないとわからないよ」
 あの人はやはり静かな声でそう言った。
「だって、お母さんはあーくんが大好きなはずだもの。だから毎日がんばってるんだもの。そんなあーくんがさみしいのを、お母さんがどうでもいいとか、仕方ないって思うわけない」
 願うような、言い聞かせるような、なんだか切なるものを含んだ声音だった。
 その言葉に、俺の心もわずかに揺らぐ。
「……そ、そうかな……?」
 期待よりも不安のほうがはるかに大きいけれど。
 それでもかすかな期待を抱いておずおずと聞き返すと、彼は深くうなずいた。
「うん。ぼくは、気持ちは伝わるって……信じたい」
「信じたい……?」
 その一言は、大きな勇気を俺にくれた。
 この人が信じてくれるなら。俺も、信じてみたいと。信じてみようと思えた。



 次に母親が帰ってきた日。俺はこれまで秘めていた思いを、洗いざらいぶちまけた。
 小さなことも大きなことも全部。見栄も照れもかなぐり捨てて、ただもっと一緒にいたいのだと訴えた。
 母親は呆然とした後、「ごめんね」と言って俺を抱きしめた。
 そして彼女は、働き方を変えた。
 女優業はほぼ引退し、時間に融通の利くモデル業と美容家業にシフトしたのはこの時だ。
 一緒に晩ご飯を食べられる日が、格段に増えた。運動会にも来てくれた。そのたびに俺は、あの人の言葉がなかったら、この時間もなかっただろうなと感謝した。


(ほんとに……あの人からもらった言葉は、特別なものばっかりだ)
 そこで回想から覚めたのは、地面の色が変わったのに気づいたからだった。
 レンガ色のタイル。いつの間にか、エントランスを抜けてマンションの敷地に入っていた。
 天月家に帰り着くと、先輩ももう帰ってきていて、笑顔で迎えてくれる。
「おかえりなさい、蒼羽くん」
「ただいまです」
「午後から急に気温下がったよね。今年は梅雨入り早いのかなぁ。今ホットミルク淹れてたんだけど、蒼羽くんも飲む?」
「あ……じゃあ、いただきます」
 最近の俺は、初対面の頃に戻ったように口数少なめだ。
 これまで通りに接しなくてはと思っているのだが、難しい。
 顔を見るたびにあの朝のことを思い出してしまうし、抱えている想いがぐるぐる頭の中で回って、気がそぞろになってしまう。
 でも先輩は何も聞こうとせず、いつも通りに接してくれていた。
 着替えてリビングに出ると、タイミングを合わせて先輩がホットミルクを持ってきてくれる。カップを受け取り、二人でソファに座った。
「そういえば昼間に父さんからメッセージが来たんだけど、蒼羽くんのほうには玉季さんから連絡あった?」
「いや、ないです。和馬さん、なんて?」
 思えばもう6月。彼らが帰国するのは今月の予定だ。こんなふうに尋ねてくるからには、それに関しての内容だろう。
「まだスケジュールが確定したわけじゃないけど、多分中旬くらいには帰ってくるって。で、その後2、3週間は日本にいるそうだよ」
「……そうですか」
(じゃあ、2週間もしないうちに帰ってくるのか)
 帰国したその日に返答を迫られるわけではないだろう。でも、彼らがまたアメリカに戻るまでには決めないといけない。これからの生活のことを。
 アメリカに行くという選択肢はなかった。やっぱりそれは想像できない。
(でも……これからも先輩と暮らすのか、一人で暮らすのか。それは決めないとな)
 先輩と『家族』になるのか、ならないのか。イコール、そういうことでもある。
 先輩はそういうふうに受け止めるだろうし、俺自身、先輩への想いを抱えて単なるシェアハウス感覚で暮らすことなんてできそうにないから。
「まだ時間はあるから、じっくり考えたらいいよ」
 選択を迷っていることが顔に出ていたのだろう。先輩はふわりとほほ笑んで、そう気遣ってくれる。
 俺の迷いが、自分への恋心にあるなんてことはまったく気づいていないだろうけど。
(なんでこの人の笑顔はいつもこんなに優しくて、きれいなんだ)
 泣きそうな気分でそう思った。
 揺れて揺れて、悩みまくっている時でさえ、この笑顔を自分に向けてもらえることは嬉しくて仕方ないのだ。ぎゅっと胸が締め付けられて、痛みと甘さで満たされる。
 ここでの暮らしを手放すことを想像すると、喪失感で全身が大きな空洞になったような錯覚を覚える。
(クソ……俺は、どうしたいんだ……?)
 数週間のうちには、答えを見つけないといけない。