●〇●〇
坂を転がり落ちる時、最初はゆっくりでも、その速度は徐々に速まり、最後には驚くほど加速するものだ。
そしてそんな状況に焦っている時ほど、進行方向には障害物のひとつもなく、なんなら道はさぁお滑りなさいとばかりに綺麗にならされていたりする。
なす術もなく転がり落ち、待ち受ける池にドボンと盛大にはまる。
そんな展開は、あるもので。
「平常心、平常心、平常心……」
月曜の朝。俺は先輩の部屋の前で、深呼吸を繰り返していた。
先輩を起こすという行為は、最初こそ緊張していたものの、いつからかすっかり俺の日常になっていた。
これは俺の使命だ、先輩とのバトルだと思えば頭が切り替わる。
肩や腕を揺すったり、脇腹や足の裏をくすぐったり、頬をペチペチたたいたり、手を引っ張ったり抱き起こしたり。
そんなことも、意外と勢いでできていた。
でも、昨日からまたダメになってしまった。
いや、本当はもう少し前から変化はあったけれど、必死でそれに目をそむけ、気にしないようにしていたのかもしれない。
だけど、土曜日のあれこれがあって、見ないふりも限界を迎えた。
今の俺は、同居を始めた頃に逆戻り。もしくはそれ以上に困ったことになっている。
……あの人のことを意識して、過敏になっている。
(何も考えるな、何も思い出すな、何も迷うな。ただいつも通り起こす、それだけだ)
「──よしっ」
気合いの声を発してドアを開け、中に入った。
「先輩、朝です。起きてください」
呼びかけながら歩み寄ると、先輩はこっち向きで寝ていて、すぐに寝顔が目に入った。
「っ……」
透き通るように白い肌。整った鼻梁。長いまつ毛。閉じられた淡く色づく唇。
気持ちよさそうに眠っている顔は、女王というよりお姫様のようだ。
いつもより少し幼くて、穢れなど一切知らない、無垢な天使なんじゃないかと錯覚する。
(って、だからこういうことを考えちゃ……。集中しろ、起こすことに全集中!)
「時間です、先輩! 起きて!」
布団をめくり、肩をつかんでゆさゆさ揺する。
「うーん……」
吐息混じりの声がもれた。他にもふにゅーとかむむーとかうなるが、まぶたが持ち上がることはない。
(……起こしちまうか)
時折そうするように、俺は強硬手段に出た。上半身を抱き起こし、強制的に「起き上がらせ」る作戦だ。
「よっと……はい先輩、起きましょうね~」
ベッドと体の間に腕を差し入れ、よいせと上体を起こさせる。
もちろん先輩にはまったく力が入っていないので、目覚めるまでまた揺すり続けなくてはならない。しっかり両肩をつかんで、ガクガクガク。
「せ・ん・ぱ・い・お・き・てー!」
「………ん……んん……?」
ようやくのろのろと目が開いた。焦点の定まらない瞳が俺の顔に向けられている。
「ん……あ、れ……?」
頭と視線をしばらくふらふらとさまよわせていた先輩の口から、小さな声が漏れた。
「んー……どした、の……?」
「え? どうしたって?」
何かを不思議がっているような問いに、聞き返す俺。
先輩は答えず、ゆっくり持ち上げた右手で俺の頬に触れた。
「……!」
「あれぇ……いつもと、違う……」
「は……せ、先輩っ……?」
右手を、頬を撫でるように何度か動かした後、先輩は左手も上げて同じように触れてくる。
なにが起こっているんだ?
俺の頬を両手で包んだ状態で、先輩は体を寄せてきて……
「今日は……キス……しないの……?」
「……っ!!」
俺は金縛りにあったように硬直した。
体の内側では、機関銃が乱射されているかと思うくらい心音も脈拍もとんでもないことになっているが、指一本動かせない。
先輩の顔が近づいてくる。視界が先輩でいっぱいになる。
ドッドッドッドッドッ。うるさい鼓動が耳を埋めて思考は停止する。
頬に触れていた手がそっと離れ、ますます顔が近づいて……
先輩は、俺の肩口に顔をうずめた。
(……え……)
「………ふすー……」
「…………」
「……くー……」
寝息が耳元で聞こえる。
先輩は俺に抱きつき、肩に顔を載せて、再び眠りに落ちていた。
「~~~~っ……!!」
やっと手が動いた。俺に預けられた体を、ガバリと引きはがす。
その勢いの強さで頭を盛大にガクンと振られ、先輩はまた目を開けた。
「ふぇ……ん……朝……?」
「…………」
「ふぁ……おはよ、蒼羽くん……」
「…………おはようございます」
低く地を這うような声は、情けないくらいに震えていた。
「……んん……どうしたの……?」
先輩も俺の異変に気づいたようで、首を傾けて不思議そうにしている。
俺は返事をせず、先輩の上腕をつかんでいた手を離して立ち上がった。
「……蒼羽くん?」
「……すいません。俺、今日は先に行きます」
「え?」
返答は待たない。というか、さっきから目線も合わせていない。
「すいませんっ。朝飯は置いてあるんで!」
それだけを言い捨て、部屋を飛び出した。
(ダメだ……もうダメだ……)
もし神様とやらがいるなら、ひどいいたずらだ。
先輩の寝起きの悪さは相変わらずだが、最近はあんなこと全然なかったのに。
気にはかかっていたけれど、1カ月も経って、だいぶ忘れかけていたのに。
トドメを刺すようにさっきのあれは……勘弁してほしい。
早めに登校してまだ人は半数ほどの教室。俺は自席に突っ伏して、死んでいた。
テスト後の解放感と来月にある体育祭の話題で、級友たちの声は明るい。
だがそんなざわめきも、別世界のもののように遠く聞こえ……頭の中では、さっきの先輩の声がいつまでも繰り返されていた。
「蒼羽~? あ、いたいた」
入口のほうから声が聞こえ、足音が近づいてくる。
弘樹だとわかったが、頭を上げる気力はなかった。
「おい、蒼羽! 起きろよ!」
ベシッと後頭部をはたかれる。
そのまま弘樹は、まだ主の来ない前の席にドカッと腰を下ろした。
「……寝てねーし」
仕方なく俺は、もそもそと体を起こす。
「なんだよ、自分の教室行けよ」
「なんだよはこっちのセリフだっての。なんで今日天月先輩と別行動なの。さっき昇降口で会って、よくわかんないけどおまえが先に飛び出してったって言ってたぞ。寂しそうに」
「…………」
(寂しそうにとか、わざわざ報告しないでくれ……)
「おい、話せよ。なんかあったんじゃねーの」
「……一緒にいられる心境じゃなかったんだよ」
「へ? どゆ意味?」
「……一緒にいたら……心臓、壊れる……」
「…………」
今度は弘樹が黙り込んだ。短い沈黙。
「よし、来い」
弘樹はチラと時計を見てから、立ち上がって俺の腕を引いた。
「まだ時間ある。屋上行くぞ」
「で、どゆこと? 詳しく話せ」
おとなしく屋上までついてきた俺に、弘樹は真っ向から聞いてきた。
俺は視線を床に落とす。
心配してくれているのはわかるし、こいつに隠し事をできるとも思えない。
でもまだ、最後のあがきで打ち明けることに迷いがあった。
「蒼羽」
静かに呼ばれる。とがめるような調子ではない。
弘樹も、俺がいっぱいいっぱいなことには気づいているのだろう。
(……こいつに抵抗したところで、今さらか)
俺は観念した。
土曜日のベランダでの出来事、名前呼びの提案のこと。今朝の一件も、キス云々のところは伏せたけれど、抱きつかれて動揺したと話した。
「一緒に暮らすの……最初は事あるごとにすげードキドキしてたけど、ある程度は慣れてきてたんだ。けど、最近はまたダメで……」
「どうダメなんだよ。最近はどうなんの」
「…………はちみつ味の電流を流されたような気分になる」
「は?」
弘樹は何ソレという顔をした。でも、そうなんだから仕方ない。
「そういう感じなんだよ」
(ものすごく甘くて……だけど痛くて、しびれるみたいな……)
先輩の笑顔や言葉や触れ合いに、俺は何度もそんな感覚を味わって、クラクラしている。
「おまえ案外ポエマーなんだな。まぁ、わかるようなわからないような、だけど」
弘樹ははぁっとこれ見よがしなため息をついてから、続けて尋ねた。
「なぁ、それってさあ」
その先、言おうとしていることは確認するまでもない。
「ああ、そうだよ」
俺は待たずに自ら口を開いた。
さすがにもうごまかせない。もう、降参だ。
「好きだよ。めちゃくちゃ好きだよ」
初めて声に出したその想いは、そのとたん明確な形を持って俺を包んだようだった。
柔らかくて優しいのに、ぴったり俺にまとわりついて呼吸を妨害する布みたいだ。切ない胸苦しさに襲われる。
「おー、言い切ったな。恋の好き?」
「……わかってんのに聞くな。ああ、そういう好きだよ」
「はは、やっと認めたかー」
弘樹はあっけらかんと笑った。しかめ面になっていそうな俺とは対照的に、さわやかな顔だ。
人の気も知らないで、とは思わない。むしろ、俺の本心なんてとうに見抜いていたからこその反応だろう。
単に、俺が逃げていただけなんだ。この感情を認めてしまうのが怖くて。
(でも……もう、逃げられないところまで来た)
先輩といる時の、他にはない高揚と幸福感と、苦しさ。
キンキンに冷えた珠とアツアツの珠を同時に飲み込まされてから、でっかい手でぎゅっと体を抱き込まれているような感覚だ。相反する感情が内側で暴れて、身動きできない。
こんな感覚、あの人に対してしか抱かない。
俺はあの人が好きだ。これは、恋の好きだ。
楠本先輩と親しげな姿を見るとモヤッたのだって、好きだからだ。そう、ただの嫉妬だ。
わがままだと思うが、どうしようもない本心なんだ。
「好きだから……どうしたらいいのかわかんないんだよ。まともに顔見られねー……」
フェンスに手を突き、今度は俺が特大のため息を落とす。
「んー。そこはさぁ、『どうしたらいいか』じゃなくて、『どうしたいか』でいいんじゃねーの」
「……え?」
一定して間延びした調子の弘樹を、俺はまじまじと見た。
「どうしたいか、って……?」
「いや、だからそのまんま」
弘樹はフェンスに背中をあずけた。少し顔を上向け、空を見ながら、
「別に今すぐ答えを出せって言ってるわけじゃねーけど。考えるにしても、『どうしたらいい』じゃなくて、シンプルに、自分がどうしたいかだろ。大事なのそこだろ」
(俺が……どうしたいか……?)
「家族みたいになりたい、兄貴みたいに思ってほしい──そう言われて嬉しかったけど、引っかかったんだろ?」
「……うん」
「それってどういうことなのかってのを、よく考えろよ。おまえは、このままあの人の『弟』になるのでいいわけ?」
「……。それは……」
あの時の感情を思い出す。
何かがうずいて、素直に喜ぶことのできなかったあの時。
(俺は……多分、『弟』になりたいわけじゃない……)
だって『弟』は、『兄』に恋なんてしないから。
『家族』になってしまったら、それは不自然なことになってしまうかもしれないから。
(でも、じゃあ、俺はどうしたい? 先輩に告白して、付き合いたいのか?)
自問した直後、反射的に「まさか」と思ってしまう。
先輩と両想いになって付き合う? まさか、と。
そんな未来起こりうるわけがない。想像もつかない。俺が勝手に好きなだけで、そんなことを望んでるわけでもないのだ。
(俺が……俺が望んでるのは……)
「……あー、クソ。わかんねー……!」
ぐるぐる考えても答えは出なくて、俺はいら立ちをそのまま吐き出した。
「あー、落ち着け落ち着け」
なだめるように弘樹が俺の背中をさする。
「悪かったよ。やっと恋だって認めたばっかで、そんな一気に気持ちの整理はできないよな」
次にはポンポンと背中をたたいて、少し考えるような間の後、弘樹は続けた。
「──あのさ。自分で言うのもなんだけど、俺、男同士の恋愛に対して割と理解あると思わん?」
「……は? なんだよ、いきなり……」
「思わん? おまえが天月先輩好きなの、最初からすんなり受け入れてただろ」
急に話が変わってとまどう俺を無視して、弘樹は同じ質問を繰り返す。
「……ま、まあ……そうかも……?」
(たしかに、男なんだからどうこうみたいなことは、一度も言われた覚えないな)
そう思ったからうなずくと、弘樹は満足げに笑って言った。
「好きになんのに男も女も関係ないって思ってるけど。それってさ、実は慣れてるからってのもあるんだよな」
「慣れて……? どういう意味だ?」
「もう一人、よく知ってんだよ。身近な同性好きになって、悩んでるヤツ」
「えっ。そうなのか?」
「うん、幼馴染でさー。暴露すると、1年の時おまえに話しかけたのも、なんかあいつに雰囲気似てるなーって思って。ほっとけなかったからってのあるんだよな~」
「マジか……ってか、どういう雰囲気だよ?」
「人見知りでコミュ障で、なんかをこじらせてて、友達作るの苦手そうな感じ?」
「………」
(否定できん……)
「当たりだろ?」
「う、うるせー! 悪かったな、コミュ障でこじらせてて!」
「ははっ、怒るなって。しゃべってみたらドンピシャだったけど、まさかこんなところまで似てるとは思わなかったわー。やー、これも類友なのかな」
「いや類友は違うだろ」
一応ツッコむが、もちろん弘樹はそんなことを気にする男ではない。
キツネっぽい目をこいつにしては大きく開いて、名案とばかりに提案してきた。
「とにかく。そいつ、おまえより断然片思いこじらせ歴長いんだよ。あ、恋って認めてからの期間の話だけどな。今度紹介するから、会ってみない? いいアドバイスもらえるかもだぞ」
坂を転がり落ちる時、最初はゆっくりでも、その速度は徐々に速まり、最後には驚くほど加速するものだ。
そしてそんな状況に焦っている時ほど、進行方向には障害物のひとつもなく、なんなら道はさぁお滑りなさいとばかりに綺麗にならされていたりする。
なす術もなく転がり落ち、待ち受ける池にドボンと盛大にはまる。
そんな展開は、あるもので。
「平常心、平常心、平常心……」
月曜の朝。俺は先輩の部屋の前で、深呼吸を繰り返していた。
先輩を起こすという行為は、最初こそ緊張していたものの、いつからかすっかり俺の日常になっていた。
これは俺の使命だ、先輩とのバトルだと思えば頭が切り替わる。
肩や腕を揺すったり、脇腹や足の裏をくすぐったり、頬をペチペチたたいたり、手を引っ張ったり抱き起こしたり。
そんなことも、意外と勢いでできていた。
でも、昨日からまたダメになってしまった。
いや、本当はもう少し前から変化はあったけれど、必死でそれに目をそむけ、気にしないようにしていたのかもしれない。
だけど、土曜日のあれこれがあって、見ないふりも限界を迎えた。
今の俺は、同居を始めた頃に逆戻り。もしくはそれ以上に困ったことになっている。
……あの人のことを意識して、過敏になっている。
(何も考えるな、何も思い出すな、何も迷うな。ただいつも通り起こす、それだけだ)
「──よしっ」
気合いの声を発してドアを開け、中に入った。
「先輩、朝です。起きてください」
呼びかけながら歩み寄ると、先輩はこっち向きで寝ていて、すぐに寝顔が目に入った。
「っ……」
透き通るように白い肌。整った鼻梁。長いまつ毛。閉じられた淡く色づく唇。
気持ちよさそうに眠っている顔は、女王というよりお姫様のようだ。
いつもより少し幼くて、穢れなど一切知らない、無垢な天使なんじゃないかと錯覚する。
(って、だからこういうことを考えちゃ……。集中しろ、起こすことに全集中!)
「時間です、先輩! 起きて!」
布団をめくり、肩をつかんでゆさゆさ揺する。
「うーん……」
吐息混じりの声がもれた。他にもふにゅーとかむむーとかうなるが、まぶたが持ち上がることはない。
(……起こしちまうか)
時折そうするように、俺は強硬手段に出た。上半身を抱き起こし、強制的に「起き上がらせ」る作戦だ。
「よっと……はい先輩、起きましょうね~」
ベッドと体の間に腕を差し入れ、よいせと上体を起こさせる。
もちろん先輩にはまったく力が入っていないので、目覚めるまでまた揺すり続けなくてはならない。しっかり両肩をつかんで、ガクガクガク。
「せ・ん・ぱ・い・お・き・てー!」
「………ん……んん……?」
ようやくのろのろと目が開いた。焦点の定まらない瞳が俺の顔に向けられている。
「ん……あ、れ……?」
頭と視線をしばらくふらふらとさまよわせていた先輩の口から、小さな声が漏れた。
「んー……どした、の……?」
「え? どうしたって?」
何かを不思議がっているような問いに、聞き返す俺。
先輩は答えず、ゆっくり持ち上げた右手で俺の頬に触れた。
「……!」
「あれぇ……いつもと、違う……」
「は……せ、先輩っ……?」
右手を、頬を撫でるように何度か動かした後、先輩は左手も上げて同じように触れてくる。
なにが起こっているんだ?
俺の頬を両手で包んだ状態で、先輩は体を寄せてきて……
「今日は……キス……しないの……?」
「……っ!!」
俺は金縛りにあったように硬直した。
体の内側では、機関銃が乱射されているかと思うくらい心音も脈拍もとんでもないことになっているが、指一本動かせない。
先輩の顔が近づいてくる。視界が先輩でいっぱいになる。
ドッドッドッドッドッ。うるさい鼓動が耳を埋めて思考は停止する。
頬に触れていた手がそっと離れ、ますます顔が近づいて……
先輩は、俺の肩口に顔をうずめた。
(……え……)
「………ふすー……」
「…………」
「……くー……」
寝息が耳元で聞こえる。
先輩は俺に抱きつき、肩に顔を載せて、再び眠りに落ちていた。
「~~~~っ……!!」
やっと手が動いた。俺に預けられた体を、ガバリと引きはがす。
その勢いの強さで頭を盛大にガクンと振られ、先輩はまた目を開けた。
「ふぇ……ん……朝……?」
「…………」
「ふぁ……おはよ、蒼羽くん……」
「…………おはようございます」
低く地を這うような声は、情けないくらいに震えていた。
「……んん……どうしたの……?」
先輩も俺の異変に気づいたようで、首を傾けて不思議そうにしている。
俺は返事をせず、先輩の上腕をつかんでいた手を離して立ち上がった。
「……蒼羽くん?」
「……すいません。俺、今日は先に行きます」
「え?」
返答は待たない。というか、さっきから目線も合わせていない。
「すいませんっ。朝飯は置いてあるんで!」
それだけを言い捨て、部屋を飛び出した。
(ダメだ……もうダメだ……)
もし神様とやらがいるなら、ひどいいたずらだ。
先輩の寝起きの悪さは相変わらずだが、最近はあんなこと全然なかったのに。
気にはかかっていたけれど、1カ月も経って、だいぶ忘れかけていたのに。
トドメを刺すようにさっきのあれは……勘弁してほしい。
早めに登校してまだ人は半数ほどの教室。俺は自席に突っ伏して、死んでいた。
テスト後の解放感と来月にある体育祭の話題で、級友たちの声は明るい。
だがそんなざわめきも、別世界のもののように遠く聞こえ……頭の中では、さっきの先輩の声がいつまでも繰り返されていた。
「蒼羽~? あ、いたいた」
入口のほうから声が聞こえ、足音が近づいてくる。
弘樹だとわかったが、頭を上げる気力はなかった。
「おい、蒼羽! 起きろよ!」
ベシッと後頭部をはたかれる。
そのまま弘樹は、まだ主の来ない前の席にドカッと腰を下ろした。
「……寝てねーし」
仕方なく俺は、もそもそと体を起こす。
「なんだよ、自分の教室行けよ」
「なんだよはこっちのセリフだっての。なんで今日天月先輩と別行動なの。さっき昇降口で会って、よくわかんないけどおまえが先に飛び出してったって言ってたぞ。寂しそうに」
「…………」
(寂しそうにとか、わざわざ報告しないでくれ……)
「おい、話せよ。なんかあったんじゃねーの」
「……一緒にいられる心境じゃなかったんだよ」
「へ? どゆ意味?」
「……一緒にいたら……心臓、壊れる……」
「…………」
今度は弘樹が黙り込んだ。短い沈黙。
「よし、来い」
弘樹はチラと時計を見てから、立ち上がって俺の腕を引いた。
「まだ時間ある。屋上行くぞ」
「で、どゆこと? 詳しく話せ」
おとなしく屋上までついてきた俺に、弘樹は真っ向から聞いてきた。
俺は視線を床に落とす。
心配してくれているのはわかるし、こいつに隠し事をできるとも思えない。
でもまだ、最後のあがきで打ち明けることに迷いがあった。
「蒼羽」
静かに呼ばれる。とがめるような調子ではない。
弘樹も、俺がいっぱいいっぱいなことには気づいているのだろう。
(……こいつに抵抗したところで、今さらか)
俺は観念した。
土曜日のベランダでの出来事、名前呼びの提案のこと。今朝の一件も、キス云々のところは伏せたけれど、抱きつかれて動揺したと話した。
「一緒に暮らすの……最初は事あるごとにすげードキドキしてたけど、ある程度は慣れてきてたんだ。けど、最近はまたダメで……」
「どうダメなんだよ。最近はどうなんの」
「…………はちみつ味の電流を流されたような気分になる」
「は?」
弘樹は何ソレという顔をした。でも、そうなんだから仕方ない。
「そういう感じなんだよ」
(ものすごく甘くて……だけど痛くて、しびれるみたいな……)
先輩の笑顔や言葉や触れ合いに、俺は何度もそんな感覚を味わって、クラクラしている。
「おまえ案外ポエマーなんだな。まぁ、わかるようなわからないような、だけど」
弘樹ははぁっとこれ見よがしなため息をついてから、続けて尋ねた。
「なぁ、それってさあ」
その先、言おうとしていることは確認するまでもない。
「ああ、そうだよ」
俺は待たずに自ら口を開いた。
さすがにもうごまかせない。もう、降参だ。
「好きだよ。めちゃくちゃ好きだよ」
初めて声に出したその想いは、そのとたん明確な形を持って俺を包んだようだった。
柔らかくて優しいのに、ぴったり俺にまとわりついて呼吸を妨害する布みたいだ。切ない胸苦しさに襲われる。
「おー、言い切ったな。恋の好き?」
「……わかってんのに聞くな。ああ、そういう好きだよ」
「はは、やっと認めたかー」
弘樹はあっけらかんと笑った。しかめ面になっていそうな俺とは対照的に、さわやかな顔だ。
人の気も知らないで、とは思わない。むしろ、俺の本心なんてとうに見抜いていたからこその反応だろう。
単に、俺が逃げていただけなんだ。この感情を認めてしまうのが怖くて。
(でも……もう、逃げられないところまで来た)
先輩といる時の、他にはない高揚と幸福感と、苦しさ。
キンキンに冷えた珠とアツアツの珠を同時に飲み込まされてから、でっかい手でぎゅっと体を抱き込まれているような感覚だ。相反する感情が内側で暴れて、身動きできない。
こんな感覚、あの人に対してしか抱かない。
俺はあの人が好きだ。これは、恋の好きだ。
楠本先輩と親しげな姿を見るとモヤッたのだって、好きだからだ。そう、ただの嫉妬だ。
わがままだと思うが、どうしようもない本心なんだ。
「好きだから……どうしたらいいのかわかんないんだよ。まともに顔見られねー……」
フェンスに手を突き、今度は俺が特大のため息を落とす。
「んー。そこはさぁ、『どうしたらいいか』じゃなくて、『どうしたいか』でいいんじゃねーの」
「……え?」
一定して間延びした調子の弘樹を、俺はまじまじと見た。
「どうしたいか、って……?」
「いや、だからそのまんま」
弘樹はフェンスに背中をあずけた。少し顔を上向け、空を見ながら、
「別に今すぐ答えを出せって言ってるわけじゃねーけど。考えるにしても、『どうしたらいい』じゃなくて、シンプルに、自分がどうしたいかだろ。大事なのそこだろ」
(俺が……どうしたいか……?)
「家族みたいになりたい、兄貴みたいに思ってほしい──そう言われて嬉しかったけど、引っかかったんだろ?」
「……うん」
「それってどういうことなのかってのを、よく考えろよ。おまえは、このままあの人の『弟』になるのでいいわけ?」
「……。それは……」
あの時の感情を思い出す。
何かがうずいて、素直に喜ぶことのできなかったあの時。
(俺は……多分、『弟』になりたいわけじゃない……)
だって『弟』は、『兄』に恋なんてしないから。
『家族』になってしまったら、それは不自然なことになってしまうかもしれないから。
(でも、じゃあ、俺はどうしたい? 先輩に告白して、付き合いたいのか?)
自問した直後、反射的に「まさか」と思ってしまう。
先輩と両想いになって付き合う? まさか、と。
そんな未来起こりうるわけがない。想像もつかない。俺が勝手に好きなだけで、そんなことを望んでるわけでもないのだ。
(俺が……俺が望んでるのは……)
「……あー、クソ。わかんねー……!」
ぐるぐる考えても答えは出なくて、俺はいら立ちをそのまま吐き出した。
「あー、落ち着け落ち着け」
なだめるように弘樹が俺の背中をさする。
「悪かったよ。やっと恋だって認めたばっかで、そんな一気に気持ちの整理はできないよな」
次にはポンポンと背中をたたいて、少し考えるような間の後、弘樹は続けた。
「──あのさ。自分で言うのもなんだけど、俺、男同士の恋愛に対して割と理解あると思わん?」
「……は? なんだよ、いきなり……」
「思わん? おまえが天月先輩好きなの、最初からすんなり受け入れてただろ」
急に話が変わってとまどう俺を無視して、弘樹は同じ質問を繰り返す。
「……ま、まあ……そうかも……?」
(たしかに、男なんだからどうこうみたいなことは、一度も言われた覚えないな)
そう思ったからうなずくと、弘樹は満足げに笑って言った。
「好きになんのに男も女も関係ないって思ってるけど。それってさ、実は慣れてるからってのもあるんだよな」
「慣れて……? どういう意味だ?」
「もう一人、よく知ってんだよ。身近な同性好きになって、悩んでるヤツ」
「えっ。そうなのか?」
「うん、幼馴染でさー。暴露すると、1年の時おまえに話しかけたのも、なんかあいつに雰囲気似てるなーって思って。ほっとけなかったからってのあるんだよな~」
「マジか……ってか、どういう雰囲気だよ?」
「人見知りでコミュ障で、なんかをこじらせてて、友達作るの苦手そうな感じ?」
「………」
(否定できん……)
「当たりだろ?」
「う、うるせー! 悪かったな、コミュ障でこじらせてて!」
「ははっ、怒るなって。しゃべってみたらドンピシャだったけど、まさかこんなところまで似てるとは思わなかったわー。やー、これも類友なのかな」
「いや類友は違うだろ」
一応ツッコむが、もちろん弘樹はそんなことを気にする男ではない。
キツネっぽい目をこいつにしては大きく開いて、名案とばかりに提案してきた。
「とにかく。そいつ、おまえより断然片思いこじらせ歴長いんだよ。あ、恋って認めてからの期間の話だけどな。今度紹介するから、会ってみない? いいアドバイスもらえるかもだぞ」

