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中間テストが始まった。
楠本先輩は埋め合わせするという約束を守り、最終日の前日に図書室で勉強を教えてくれることになった。
もちろん天月先輩も一緒で、2時間ほどみっちり教えてもらい、4人で図書室を出た。
ちなみに、楠本先輩があの日帰った理由は聞いていない。
弘樹も図太いようでいてその辺の線引きはちゃんとできる男だ。本人が言う気がないなら、それでいいと思っているのだろう。
「ふー、学んだ学んだ! これ間違いなく今までの最高点更新できるわ。ってわけで帰ったら寝よ~」
「え、寝るの?」
「はい! もう充分勉強したんで、これ以上は俺のキャパオーバーっす!」
何を誇っているのか意味不明だが、尋ねた天月先輩に向かいエヘンと胸を張る弘樹。
「はは、弘樹くんらしいな。ま、集中力切れてるのにやっても身にはつかないしね。自分で準備万端って思えてるなら寝たって全然いいよ」
「俺も、いつもよりはいい点取れそうです。今日までの教科も、結構できてる感じあるし。本当にありがとうございました、楠本先輩、天月先輩」
「いえいえ、どういたしまして」
そんな会話を交わしながら昇降口へ向かっていると。
「あらぁ、天月くん。楠本くんも」
廊下の先に立っていた人物が、こちらに呼びかけてきた。
ややむっちりした体をえんじ色のスーツに包んだボブヘアの女性。副校長だ。
職員室のドアに手をかけ中に入ろうとしていたようだが、その手を下ろして歩み寄ってくる。
真っ赤な唇が嬉しそうに両端を上げていた。ご機嫌なご様子だ。その目は名前を呼んだ二人だけを見ているようで、俺とはさっぱり視線が合わない。
(へぇ。ここまであからさまなんだな、この人)
副校長はイケメン好きで、キング&クイーンびいき。それは有名な話だけれど、間近で見ると予想以上に露骨だった。
やがて俺たちの前まで来た彼女は、
「こんな時間まで残ってたの? 勉強してたのかしら」
と、先輩たちに尋ねた。徹底して俺と弘樹はアウトオブ眼中だ。
「はい、彼らと図書室で」
俺と弘樹を軽く見つつ、楠本先輩が答える。副校長の顔が初めて俺のほうを向いた。
「あなたたちは……ああ、あなたが天月くんのお家にご厄介になってるっていう森中くんね。ご両親からご報告は受けています」
(ご厄介?)
そのワードにはわずかな険が感じられた。思わずピクッと眉が動いてしまう。
副校長は俺の反応など気にも留めず、弘樹に目線を滑らせ「君は?」と聞いた。
「あ、2-Dの弓削です。こいつと仲いいんで、一緒に」
俺を指差し、ニカッと笑って答える弘樹。
反比例するように、副校長の表情がサーッと冷めていくのをはっきりと見た。ご機嫌の笑顔が、苦笑めいたものに取って代わる。
「そう。この二人に勉強を教えてあげてたのね、天月くん」
「はい」
名指しされたので、天月先輩が答えた。短い返答だったが、穏やかな微笑を浮かべている。
副校長は、とてもかわいいけれどヤンチャで困る孫を前にしたような顔になった。
「天月くんは面倒見がいいのねえ。でも、大丈夫なの?」
「……どういう意味でしょう」
「人の世話を焼くより、自分の勉強のほうが大事でしょう。そっちは大丈夫なの、という意味よ」
そこで、赤い唇は再び俺に向けられた。
「森中くん。君も、天月くんが優しいからって、あまり甘えては駄目よ。天月くんは3年、受験生なんだから。とっても大事な時期なの。優秀な彼に頼りたくなるのは無理もないけれど、それが彼の負担に──」
「お言葉ですが、副校長」
凛とした声でさえぎったのは天月先輩だった。その顔から笑みは消えている。
背筋を伸ばし、両の拳をキュッと握って、まっすぐ副校長を見据えて、
「彼は僕に甘えても、負担になってもいません。勉強を教えるのも僕が言い出したことです。僕がしたいと思った行動を取っているだけです」
「……あ、天月くん……? どうしたの、私はあなたの将来が心配で……」
副校長は驚き、たじろいでいた。天月先輩がこんなふうに切り返してくるとは思ってもいなかったようだ。
けれど天月先輩にその動揺が跳ね返ることはない。揺るぎない意思を込めた瞳で、彼は言葉を続けた。
「それに、彼は僕の家に『ご厄介』になっているわけでもありません。僕たちは対等で、お互いに助け合って共同生活をしているだけです。今、僕も多くのことを彼に頼っています。だから僕も、彼に頼ってほしい、頼られたら嬉しいと思っています」
ふっと目元が緩んだ。
一度口を閉じた先輩は、柔らかな、息をのむほど綺麗な笑みを頬にのぼらせ、
「ご心配ありがとうございます。副校長のお気遣いには心から感謝いたしますが、だからこそ誤解は訂正させてください。僕は森中くんと暮らせるようになった縁をとてもありがたく感じているんです。ですから──今回のようなご懸念は、一切不要ですので」
にーーーっこり。
百点満点の笑顔で言いつつも、最後の一言は強く、凄味すら漂っていた。
「……おお、こわ」
小さな声は楠本先輩のものだ。
俺も思ってしまった。……怒っている先輩を初めて見た。笑顔で、怒っている。
「そっ、そう。ならいいのよ。じゃ、じゃあ、あと1日頑張りなさいね、みんな!」
引きつった顔で口をもにょもにょさせながら、副校長は去っていき、逃げるように職員室へ消えた。
ピシャンとドアが閉まる音を聞いてから、俺は天月先輩に目を向ける。
ほぼ同時に、その体がふらっと揺れた。
「っ、先輩!」
とっさに腕をつかんで自分のほうへ引き寄せ、支える。胸に先輩の肩がトンと当たった。
力が抜けてふらついたらしい。かかってきた体重を、俺はもう片方の手も添えて受け止めた。
「…………言っちゃった」
「え?」
呆けたような声はかなり小さくて、おまけにちょっと震えていたので、俺は本当に先輩が言ったのかといぶかった。後ろから体を支えているので、顔も見えない。
ふーっと、大きく息を吐く先輩。右手を心臓の位置に当てて、
「副校長に……初めて、意見しちゃった……」
さっきよりは明瞭な声で、そうつぶやく。
「うん、したなぁ」
楽しそうな声で答えたのは楠本先輩だ。
「いつもみたいに俺があしらうシーンだと思ってたんだけど。まさか、まったく出番が回ってこないとはね」
そう言って肩をすくめた。楽しそうではあるが、彼も驚いたようだし、なんだか悔しそうにも見えた。
「なんか……我慢できなくて、気が付いたらしゃべってたっていうか……」
そこでようやく先輩は俺に寄り掛かっていたことに気づいたようで、「あ、ごめん」と言って離れる。
「かっこよかったっすよ、天月先輩! 俺カンドーしました! なぁ、蒼羽!」
「う、うん……」
弘樹が興奮しているのに、当の俺は力のないあいづちを返してしまった。
感動していないわけじゃない。というか、している。かなり。
だって、なんて言ってた?
僕たちは対等で、頼ってほしい、頼られたら嬉しい。
俺と暮らせるようになった縁をありがたいと思ってくれている。
(……夢みたいだ)
先輩があんなふうに、しかもそれを教師に対して言ってくれるなんて。
副校長は、俺の存在が天月先輩に悪影響を与えるんじゃないかと思い、気に食わなかったのだろう。
俺を守るために言ってくれた言葉に他ならない。俺のために怒ってくれた。
「かっこよくなんかないよ。まだ心臓バクバクいってるもん……」
照れくさそうに言う頬がほんのり紅潮している。
「先輩……」
泣きそうだ。感情があふれそうになるのを、奥歯を噛んでなんとかこらえた。
「ありがとうございます、先輩。俺のために……」
「……ううん。ほんとに、なかば無意識で自分でも驚いてるくらいだから」
頬に触れる髪を指先で耳に掛けながら、先輩はそこで考えるような顔をして、
「でも……言い返せたのも、蒼羽くんのおかげかも」
と続けた。
「え……どういうことですか?」
(俺は何も言えなかった。一言も言い返せなかったのに……)
首をひねる俺に、先輩は言葉を選んでいるのか、時々視線をさまよわせながら言った。
「副校長のああいう感じ、嫌だったけど、今までは何も言えなかったんだよ。笑ってごまかしたり、流したりしてた」
「それか、俺がうまいことあしらって早めに切り上げさせるかね」
楠本先輩が付け加えた声に、天月先輩もうなずく。
「うん。でも、今日思ってることを口に出せたのは……多分前に、蒼羽くんが、嫌なことは嫌って言っていいって、言ってくれたから……」
「あ……」
(写真撮られた時の……)
思い出す。そうだ、確かに俺は、先輩にそう話した。
「おまえそんなこと言ったの? はーっ、おまえもかっけーじゃん」
弘樹が肘で脇腹をつついてくる。すぐさまはたいてやると、「いてっ」と叫んで引っ込めた。
先輩は目を伏せて、独り言のように話し続ける。
「意識してたわけじゃないけど……うん、きっと蒼羽くんのおかげ」
自分の中にあるものにアンテナを伸ばして、探り、確かめながら答えを編んでいくように。
「いつもそうだよ。この前も……あの時も……」
(いつもなんて……全然そんなことないと思うけど……)
「かわいい『弟』ができて、榛名も強くなったってことかな」
(弟……)
問いかけに、天月先輩は「どうなんだろ」と返してから俺を見て、
「でも、さっき副校長に言ったことは、全部本心だからね」
と瞳を覗き込んでくる。自分の気持ちが、ちゃんと俺に伝わっているかを確認しようとする眼差しだ。
そして、その目でこう言ってくれている。
だから周りなんて気にしないで、と。
「……はい、ありがとうございます」
また泣きそうになって、俺は慌てて奥歯を嚙みしめた。
