●〇●〇
また数日が過ぎ、世間はGWに突入した。
宝賀学院は中間テストの日程がやや早めなので、ただ遊んでばかりもいられない連休だ。
弘樹以外特に親しい友人もおらず、さして頭のよくない俺も、去年は適度に勉強し、バイトし、ダラダラしているうちにあっという間に過ぎ去った。
でも今年は、去年とはちょっと違う。
「蒼羽くん、GWは友達とどこかに行ったりするの?」
4月下旬、そう聞いてきた先輩に、俺はこう答えた。
「どこにも行きません。できるだけ勉強しようと思ってます」
「え、それってテスト勉強?」
「はい。この生活になってから成績下がったとかじゃ、親、心配すると思うんで。俺頭の出来あんまよくないから、真剣めにやらないと」
そう話すと、先輩はなんだか感動したように目を丸くして、
「そっか。じゃあ、僕も協力するよ。いつでも勉強教えるから、困った時には言って」
と、言ってくれたのだ。
何回か出かける予定はあるけど、大体は家にいるから、と。
そして、5月の連休2日目。
今日はその、先輩が『何回か出かける』うちの1回だった。
「前から、友達に買い物付き合ってって頼まれてて」
先輩はそう言っていた。それ以上は聞いていない。友達というのが誰なのかも。
(やっぱ楠本先輩なのかな。でもそうなら、『悠日』っていうような気がする……)
数学の問題集を解きながら、ちらちらと先輩の顔が浮かんでしまう。
そのたびに「集中しろ」と自分をたしなめるけど、またしばらくすると──
(買い物か……先輩も服とか買ってんのかな)
(何時頃帰ってくるんだろ。夜は家で食うって言ってたけど)
(でも、買い物だけで終わるか? その後ゲーセンとかカラオケ行ったり……あんまそういうとこ行く先輩、想像できないけど……)
「──だーっ! 勉強だろっ、勉強!!」
邪念が多すぎる。こんな調子じゃ本当に成績が下がりそうだ。
俺はビシビシと両手で自分の頬をたたいて、気合いを入れ直した。
「──くん、蒼羽くん」
(ん……?)
「蒼羽くん、このままじゃ風邪ひくよ」
(……? 先輩の声……?)
「蒼羽くんってば。起きて」
「……っ!」
勢いよく上半身を起こした。すぐそばに先輩が立っていて、俺を見下ろしている。
目の前には開いたままの問題集。
気合いで数式を解き続けていたはずなのだが……いつの間にか寝落ちていたらしい。
「……すいません、俺……。今、何時ですか?」
「6時半。結構寝ちゃってた?」
「どうかな……多分、2時間くらい」
机に突っ伏していた体は凝り固まっていて、背中が少し痛い。肩をぐるりと回して筋肉をほぐす。
先輩はくすっと小さく笑うと、「待ってて」と言って部屋を出ていった。
キッチンで何かしているようだったが、1分ほどですぐに戻ってくる。
「はい、これ」
差し出されたのは、湯気の立ち上るマグカップ。かすかに甘い香りが漂う。
「……ホットミルク?」
先輩が好きだというはちみつ入りホットミルクだ。2つ持ってきたうちのひとつを俺に手渡し、残ったほうを手に、先輩はベッドに腰を下ろす。
「飲んで。体冷えてるかもしれないから」
「……ありがとうございます」
(寝てる俺見て、帰ってすぐ淹れてくれてたのか……)
ゆっくり口に運んだミルクはほんのり甘くて、優しい味だった。胃袋からじんわり温まってくるのがよくわかる。
「すいません、世話かけちゃって」
「いいよ。いつもは僕が起こしてもらってるから、蒼羽くんを起こせて嬉しい」
「……なんすか、それ」
本当に嬉しそうな顔で言うから、つい笑ってしまった。
「結構本心だよ? いつも僕だけ寝ぼけ顔見られてるの、ちょっと悔しかったんだよね」
「別に悔しかるようなことじゃないでしょ」
「だって、絶対間抜け顔じゃないかー。……あ、でも、蒼羽くんの寝顔はかわいかったな」
「……! か、かわいいって……」
(それは、先輩のほうだ)
半分寝ぼけているとろんとした顔とか、それで「おはよう」って言ってくれる時の、ちょっと子供っぽい口調とか。
あ、ほら、今も。両手でマグカップを持って、「ん?」という顔で、唇についたミルクの膜を舌先で舐め取っている。
何気ない仕草や表情、全部がきれいで、かわいい。
この数週間で、嫌ってほどそれを痛感してしまった。
「っ……」
吸い寄せられるように先輩の口元に見入っていたことに気づいて、俺は慌てて顔を背けた。
その動作が大きかったからか、先輩がこっちを見たのが視界の端に映る。
「あ……」
そのまま先輩は、サイドボードにカップを置いて立ち上がった。数歩でまた俺のすぐ傍まで来て、
「蒼羽くん、跡ついてる」
手を伸ばしてくる。先輩のほうに向けていた頬に、その指先が触れた。
感触を感じた途端、俺は電流が走ったみたいにビクリと震えてしまう。
「……! あ、と……?」
「うん、このへん。シャーペンの跡かな」
ほんのり暖かい指先が、頬から顎へすっと滑った。
くすぐったい。耳が熱い。全身が心臓になったみたいに鼓動がうるさい。
(触るとか、なしだ……)
お願いです、これ以上ドキドキさせないでください、先輩。
『おまえさ。やっぱどう考えても、天月先輩のこと好きだろ』
『いいかげん、ちゃんと自分の気持ちと向き合ったら?』
心臓の爆音に、弘樹の声が重なって聞こえてくる。
けど、何も考えられない。
先輩の温もりが残る頬に、意識を全部持っていかれる。
「すぐに消えるだろうけど。ふふ、居眠り注意だね」
そう言いながら先輩がベッドに戻るまでの数秒が、とても長かった。
そんなことがあったからだろうか。
その夜、俺は久しぶりに子供の頃の夢を見た。
「う……くっ……」
地面を蹴った。土が跳ねる。
何度かあの男の子と会った、公園のベンチ。
ここにいれば、またあの子が来るかもしれない。来ないかもしれない。
「うっ……」
地面を蹴る。土が横跳びに跳ねる。
目尻に溜まっていた涙がまた大きな粒となって、ツーと流れ落ちていく。
あの子に会いたいのか会いたくないのか、よくわからない。
……嘘だ、きっと会いたい。
だって地面を蹴りながら、あの子の顔が思い浮かぶ。
嫌な光景と交互に、あの優しい笑顔を思い出している。
「……あーくん?」
「……!」
来た。あの子だ。
目が合うと、つぶらな目が一瞬はっと見開かれる。けどすぐにその驚きを消して、彼はベンチまでやってきた。
音もなく、隣にちょこんと腰掛ける。
「…………」
「…………」
お互い何も言わず、しばらく沈黙が流れた。俺は思い出したように、涙に濡れた頬を手の甲でゴシゴシとこする。
「あ、待って」
その手首を、彼の手がつかんだ。思いがけない制止に顔を上げると、間近で視線がぶつかる。
「あーくん、跡ついてる」
「……! あ、と……?」
「うん、赤くなってる。そんなに強くこすっちゃダメだよ」
俺の手を下げて、それから彼は、ポケットから出したハンカチで頬を拭いてくれた。
優しく、優しく。繊細な壊れ物を……傷ついた心を、いたわるように。
「……何があったの?」
すっかり頬が乾き、俺も少し落ち着いた頃、彼が尋ねてくる。
ささやくような静かな声に、俺の口からも自然と言葉が出ていた。
「……こっち見るなって、言われた」
「……学校の子?」
「……うん」
今日は登校日だった。
休暇中のハイテンションだろうか。久しぶりに入った教室で俺を待っていたのは、いつもより苛烈な言葉の暴力だった。
変な色、気持ち悪い、ブキミ、出来損ないの日本人。そんなのはもう、聞き慣れていたけれど。
「その目で見られると、魂が取られそうだって。呪われそうだって。せっかくの夏休みに悪いことが起こりそうだって」
誰かが言った『呪いの目』というワードが、その場にピタリとはまった。大人数の声で、その言葉を繰り返された。
「っ……もう……いやだ……っ」
耳の奥であの声がこだまして、また目頭が熱くなる。
ぐっと奥歯を噛んで我慢したけれど、抑えきれない。
「もっと……」
せっかく拭いてもらった頬を、再び涙が伝ってしまう。
「っ……もっと、普通だったら……こんなっ……」
「だいじょうぶ」
熱いしずくを受け止めたのは、今度はハンカチじゃなかった。
「だいじょうぶだよ、あーくんは」
そう言って伸ばされた両手。まだ柔らかな、幼い両の手のひらが、すっぽりと俺の頬を包む。
「あ……」
少しだけ顔を上向けられ……真正面から俺の目を見て、彼はほほ笑んだ。
「だいじょうぶ。『普通』じゃないのも、きっと、悪いことばっかりじゃないから」
「…………」
(悪いことだけじゃない……?)
うそだ。こんな色の目をしていて、いいことなんてひとつもなかった。
どこかで自分の声がした。でも言葉にはならない。
澄んだ瞳に縫い留められたように、動けない。
「今は悲しいとか、つらいとしか思えなくても。いつかきっと、それだけじゃなかったって思えるようになるよ」
どこまでも優しい声が、一言一言、区切るようにゆっくりと紡がれる。両手で俺の頬を撫でながら。
「……ほんとに……?」
不思議だった。まだ「そんなわけない」という気持ちもあるけど、「そうかもしれない」と思い始めている自分がいる。
染み入るように流れ込んでくる言葉に、それを信じたいという気持ちが沸き上がってくる。
「うん、本当。だから、ね? 泣かないで?」
俺の視線と心をとらえたまま、その人はニコリと笑った。まぶしいくらい温かな笑顔だった。
「それに……ぼくは、好きだよ、その色。とってもキレイだ」
(好き? このおかしな色が?)
「こんなの……きれいなんかじゃ……」
「キレイだよ。宝石みたいだもの。特別の、とっておきの宝石」
「ほうせき……?」
(サファイヤとか、ルビーとかみたいな?)
そんなに宝石の名前なんて知らないけれど、頭に浮かんだのは鮮やかな赤や青や緑をした、まばゆい石たちだ。自分の目とはまったく違う。
こんなことを言われたのも初めてで、ぽかんとしてしまう。
でも、目の前のほほ笑みは気休めで言っているようにも見えなくて。
俺はただ、とても不思議な気持ちで彼の声に耳を澄ませていた。
「あのね。ぼくの父さんはね、ぼくにこう言ったんだ。──悲しい気持ちも、怒る気持ちも、なんでって思う気持ちも、たくさんあると思う。でも、お母さんとお父さんがいなければ、今のおまえもここにはいない」
「…………」
「子供を産むのってすごく、すごく大変なことで、でもお母さんは、子供の幸せだけを願って、その大変なことを乗り越えてくれた。その瞬間はたしかにあって、なくなったりしない」
「……幸せ……」
「そう、幸せ。ぼくたちに元気に育ってほしい、幸せになってほしいって願って、生んでくれたお母さんがいるからこそ、ぼくたちがいるんだよ。だから自分のことも、親からもらったものも、大事にしてくれたらうれしい。ゆっくりでいいし、全部じゃなくて、少しだけでもいいから。……父さん、そう言ってた」
「…………」
正直、彼のお父さんの言葉だというその話は、少し難しかった。そうなのかな、と思うところもあった。
でも、目の前の彼自身が、その言葉をとても大切にしているんだなと感じた。
それなら……俺も、そんなふうに思えたらいいな、と。
祈るように、思った。
──結局、俺を苦しめた目の色は、成長と共に変化していったのだけれど。
俺にとってはあの時の彼の言葉が、特別の、とっておきの宝石になったんだ。
また数日が過ぎ、世間はGWに突入した。
宝賀学院は中間テストの日程がやや早めなので、ただ遊んでばかりもいられない連休だ。
弘樹以外特に親しい友人もおらず、さして頭のよくない俺も、去年は適度に勉強し、バイトし、ダラダラしているうちにあっという間に過ぎ去った。
でも今年は、去年とはちょっと違う。
「蒼羽くん、GWは友達とどこかに行ったりするの?」
4月下旬、そう聞いてきた先輩に、俺はこう答えた。
「どこにも行きません。できるだけ勉強しようと思ってます」
「え、それってテスト勉強?」
「はい。この生活になってから成績下がったとかじゃ、親、心配すると思うんで。俺頭の出来あんまよくないから、真剣めにやらないと」
そう話すと、先輩はなんだか感動したように目を丸くして、
「そっか。じゃあ、僕も協力するよ。いつでも勉強教えるから、困った時には言って」
と、言ってくれたのだ。
何回か出かける予定はあるけど、大体は家にいるから、と。
そして、5月の連休2日目。
今日はその、先輩が『何回か出かける』うちの1回だった。
「前から、友達に買い物付き合ってって頼まれてて」
先輩はそう言っていた。それ以上は聞いていない。友達というのが誰なのかも。
(やっぱ楠本先輩なのかな。でもそうなら、『悠日』っていうような気がする……)
数学の問題集を解きながら、ちらちらと先輩の顔が浮かんでしまう。
そのたびに「集中しろ」と自分をたしなめるけど、またしばらくすると──
(買い物か……先輩も服とか買ってんのかな)
(何時頃帰ってくるんだろ。夜は家で食うって言ってたけど)
(でも、買い物だけで終わるか? その後ゲーセンとかカラオケ行ったり……あんまそういうとこ行く先輩、想像できないけど……)
「──だーっ! 勉強だろっ、勉強!!」
邪念が多すぎる。こんな調子じゃ本当に成績が下がりそうだ。
俺はビシビシと両手で自分の頬をたたいて、気合いを入れ直した。
「──くん、蒼羽くん」
(ん……?)
「蒼羽くん、このままじゃ風邪ひくよ」
(……? 先輩の声……?)
「蒼羽くんってば。起きて」
「……っ!」
勢いよく上半身を起こした。すぐそばに先輩が立っていて、俺を見下ろしている。
目の前には開いたままの問題集。
気合いで数式を解き続けていたはずなのだが……いつの間にか寝落ちていたらしい。
「……すいません、俺……。今、何時ですか?」
「6時半。結構寝ちゃってた?」
「どうかな……多分、2時間くらい」
机に突っ伏していた体は凝り固まっていて、背中が少し痛い。肩をぐるりと回して筋肉をほぐす。
先輩はくすっと小さく笑うと、「待ってて」と言って部屋を出ていった。
キッチンで何かしているようだったが、1分ほどですぐに戻ってくる。
「はい、これ」
差し出されたのは、湯気の立ち上るマグカップ。かすかに甘い香りが漂う。
「……ホットミルク?」
先輩が好きだというはちみつ入りホットミルクだ。2つ持ってきたうちのひとつを俺に手渡し、残ったほうを手に、先輩はベッドに腰を下ろす。
「飲んで。体冷えてるかもしれないから」
「……ありがとうございます」
(寝てる俺見て、帰ってすぐ淹れてくれてたのか……)
ゆっくり口に運んだミルクはほんのり甘くて、優しい味だった。胃袋からじんわり温まってくるのがよくわかる。
「すいません、世話かけちゃって」
「いいよ。いつもは僕が起こしてもらってるから、蒼羽くんを起こせて嬉しい」
「……なんすか、それ」
本当に嬉しそうな顔で言うから、つい笑ってしまった。
「結構本心だよ? いつも僕だけ寝ぼけ顔見られてるの、ちょっと悔しかったんだよね」
「別に悔しかるようなことじゃないでしょ」
「だって、絶対間抜け顔じゃないかー。……あ、でも、蒼羽くんの寝顔はかわいかったな」
「……! か、かわいいって……」
(それは、先輩のほうだ)
半分寝ぼけているとろんとした顔とか、それで「おはよう」って言ってくれる時の、ちょっと子供っぽい口調とか。
あ、ほら、今も。両手でマグカップを持って、「ん?」という顔で、唇についたミルクの膜を舌先で舐め取っている。
何気ない仕草や表情、全部がきれいで、かわいい。
この数週間で、嫌ってほどそれを痛感してしまった。
「っ……」
吸い寄せられるように先輩の口元に見入っていたことに気づいて、俺は慌てて顔を背けた。
その動作が大きかったからか、先輩がこっちを見たのが視界の端に映る。
「あ……」
そのまま先輩は、サイドボードにカップを置いて立ち上がった。数歩でまた俺のすぐ傍まで来て、
「蒼羽くん、跡ついてる」
手を伸ばしてくる。先輩のほうに向けていた頬に、その指先が触れた。
感触を感じた途端、俺は電流が走ったみたいにビクリと震えてしまう。
「……! あ、と……?」
「うん、このへん。シャーペンの跡かな」
ほんのり暖かい指先が、頬から顎へすっと滑った。
くすぐったい。耳が熱い。全身が心臓になったみたいに鼓動がうるさい。
(触るとか、なしだ……)
お願いです、これ以上ドキドキさせないでください、先輩。
『おまえさ。やっぱどう考えても、天月先輩のこと好きだろ』
『いいかげん、ちゃんと自分の気持ちと向き合ったら?』
心臓の爆音に、弘樹の声が重なって聞こえてくる。
けど、何も考えられない。
先輩の温もりが残る頬に、意識を全部持っていかれる。
「すぐに消えるだろうけど。ふふ、居眠り注意だね」
そう言いながら先輩がベッドに戻るまでの数秒が、とても長かった。
そんなことがあったからだろうか。
その夜、俺は久しぶりに子供の頃の夢を見た。
「う……くっ……」
地面を蹴った。土が跳ねる。
何度かあの男の子と会った、公園のベンチ。
ここにいれば、またあの子が来るかもしれない。来ないかもしれない。
「うっ……」
地面を蹴る。土が横跳びに跳ねる。
目尻に溜まっていた涙がまた大きな粒となって、ツーと流れ落ちていく。
あの子に会いたいのか会いたくないのか、よくわからない。
……嘘だ、きっと会いたい。
だって地面を蹴りながら、あの子の顔が思い浮かぶ。
嫌な光景と交互に、あの優しい笑顔を思い出している。
「……あーくん?」
「……!」
来た。あの子だ。
目が合うと、つぶらな目が一瞬はっと見開かれる。けどすぐにその驚きを消して、彼はベンチまでやってきた。
音もなく、隣にちょこんと腰掛ける。
「…………」
「…………」
お互い何も言わず、しばらく沈黙が流れた。俺は思い出したように、涙に濡れた頬を手の甲でゴシゴシとこする。
「あ、待って」
その手首を、彼の手がつかんだ。思いがけない制止に顔を上げると、間近で視線がぶつかる。
「あーくん、跡ついてる」
「……! あ、と……?」
「うん、赤くなってる。そんなに強くこすっちゃダメだよ」
俺の手を下げて、それから彼は、ポケットから出したハンカチで頬を拭いてくれた。
優しく、優しく。繊細な壊れ物を……傷ついた心を、いたわるように。
「……何があったの?」
すっかり頬が乾き、俺も少し落ち着いた頃、彼が尋ねてくる。
ささやくような静かな声に、俺の口からも自然と言葉が出ていた。
「……こっち見るなって、言われた」
「……学校の子?」
「……うん」
今日は登校日だった。
休暇中のハイテンションだろうか。久しぶりに入った教室で俺を待っていたのは、いつもより苛烈な言葉の暴力だった。
変な色、気持ち悪い、ブキミ、出来損ないの日本人。そんなのはもう、聞き慣れていたけれど。
「その目で見られると、魂が取られそうだって。呪われそうだって。せっかくの夏休みに悪いことが起こりそうだって」
誰かが言った『呪いの目』というワードが、その場にピタリとはまった。大人数の声で、その言葉を繰り返された。
「っ……もう……いやだ……っ」
耳の奥であの声がこだまして、また目頭が熱くなる。
ぐっと奥歯を噛んで我慢したけれど、抑えきれない。
「もっと……」
せっかく拭いてもらった頬を、再び涙が伝ってしまう。
「っ……もっと、普通だったら……こんなっ……」
「だいじょうぶ」
熱いしずくを受け止めたのは、今度はハンカチじゃなかった。
「だいじょうぶだよ、あーくんは」
そう言って伸ばされた両手。まだ柔らかな、幼い両の手のひらが、すっぽりと俺の頬を包む。
「あ……」
少しだけ顔を上向けられ……真正面から俺の目を見て、彼はほほ笑んだ。
「だいじょうぶ。『普通』じゃないのも、きっと、悪いことばっかりじゃないから」
「…………」
(悪いことだけじゃない……?)
うそだ。こんな色の目をしていて、いいことなんてひとつもなかった。
どこかで自分の声がした。でも言葉にはならない。
澄んだ瞳に縫い留められたように、動けない。
「今は悲しいとか、つらいとしか思えなくても。いつかきっと、それだけじゃなかったって思えるようになるよ」
どこまでも優しい声が、一言一言、区切るようにゆっくりと紡がれる。両手で俺の頬を撫でながら。
「……ほんとに……?」
不思議だった。まだ「そんなわけない」という気持ちもあるけど、「そうかもしれない」と思い始めている自分がいる。
染み入るように流れ込んでくる言葉に、それを信じたいという気持ちが沸き上がってくる。
「うん、本当。だから、ね? 泣かないで?」
俺の視線と心をとらえたまま、その人はニコリと笑った。まぶしいくらい温かな笑顔だった。
「それに……ぼくは、好きだよ、その色。とってもキレイだ」
(好き? このおかしな色が?)
「こんなの……きれいなんかじゃ……」
「キレイだよ。宝石みたいだもの。特別の、とっておきの宝石」
「ほうせき……?」
(サファイヤとか、ルビーとかみたいな?)
そんなに宝石の名前なんて知らないけれど、頭に浮かんだのは鮮やかな赤や青や緑をした、まばゆい石たちだ。自分の目とはまったく違う。
こんなことを言われたのも初めてで、ぽかんとしてしまう。
でも、目の前のほほ笑みは気休めで言っているようにも見えなくて。
俺はただ、とても不思議な気持ちで彼の声に耳を澄ませていた。
「あのね。ぼくの父さんはね、ぼくにこう言ったんだ。──悲しい気持ちも、怒る気持ちも、なんでって思う気持ちも、たくさんあると思う。でも、お母さんとお父さんがいなければ、今のおまえもここにはいない」
「…………」
「子供を産むのってすごく、すごく大変なことで、でもお母さんは、子供の幸せだけを願って、その大変なことを乗り越えてくれた。その瞬間はたしかにあって、なくなったりしない」
「……幸せ……」
「そう、幸せ。ぼくたちに元気に育ってほしい、幸せになってほしいって願って、生んでくれたお母さんがいるからこそ、ぼくたちがいるんだよ。だから自分のことも、親からもらったものも、大事にしてくれたらうれしい。ゆっくりでいいし、全部じゃなくて、少しだけでもいいから。……父さん、そう言ってた」
「…………」
正直、彼のお父さんの言葉だというその話は、少し難しかった。そうなのかな、と思うところもあった。
でも、目の前の彼自身が、その言葉をとても大切にしているんだなと感じた。
それなら……俺も、そんなふうに思えたらいいな、と。
祈るように、思った。
──結局、俺を苦しめた目の色は、成長と共に変化していったのだけれど。
俺にとってはあの時の彼の言葉が、特別の、とっておきの宝石になったんだ。
