愛してるから『弟』でいます。

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「先輩、朝ですよー! はいはい起きて、起きてくださーい!」
「……うにゅ……む……」
「うにゅじゃなくて! ほら、起きた起きた! 起きないとくすぐりますよ!」
 布団を剥いでそう脅すと、先輩はふるっと体を震わせる。
 もう何度か試してみて、この人は非常に脇腹が弱いことを把握済みだ。
「お……起き……ます……」
「うん、起きましょう。はい、着替えそこ。朝飯は和食です。卵焼きにももう醤油かけてありますからね。そのまま食べてくださいね」
「わかった……顔……洗ってくる……」
「そこクローゼットです、ドアはこっち」
 ふらついている背中を押して部屋のドアまで連れていくと、その後は時々壁にぶつかりつつも洗面所に消えていった。
 俺はキッチンで味噌汁を温め直す。
 アツアツの味噌汁は先輩が来てから出すのだ。熱いものを飲むと、先輩は割と高速で覚醒する。これも、この数日で学んだ。火傷せずに熱い飲み物を飲むところまで見届けたら、後はもう心配はない。
「……おいしい。シジミのお味噌汁かぁ。蒼羽くんはなんでも上手に作るよねぇ」
「先輩だってなんでも作れるじゃないですか」
「うん。でもこれ、ほんとおいしいから」
 湯気の向こうで先輩が、ほわんとした顔で言う。

 同居を始めて一週間ほどが過ぎた。
 慣れとは恐ろしいものだ。夢見心地だった初日が嘘のように、先輩を起こすのも、こんな朝食風景も、徐々に日常になってきている。
 初日にあったようなトラブルも、あれ以降は一度もない。
 今でもあの朝の先輩の言動はどういう意味だったのか気にはなるけど、当人が覚えていないのだから尋ねようもなかった。
「学校、どう? 嫌なこととか何もない?」
「大丈夫です。ほぼ落ち着きました」
 気にかけてくれる言葉に、すぐにそう答えた。
 これも事実だ。周りから向けられていた好奇の目も、今はもうほとんど気にならない。
 3年の親しい人たちには、先輩が「親の事情で一時的に共同生活をしている」と説明してくれたらしい。それがファンの人たちの間に回って、だいぶ落ち着いた。
 遠縁の親戚だとか勝手な解釈も広まっているようだけれど、それならそれでいい。事実はごく一部が知っていれば。
 時々、もの言いたげな視線を感じたり、こっちを見て噂話をされているように感じることはあるけれど、そんなものは気にしなければいい。そう思っているうちに、本当に気にならなくなってきた。
「そっか、よかった。あ、今日の晩御飯は僕が作るね。食べたいものある?」
「んー……昨日洋食だったんで、中華とかですかね」
 朝飯が俺の担当になっている分、夜は先輩が作ってくれることが多い。もちろん俺も多少は手伝うけれど。
「了解。ふふ、何にしよっかな~」
 目の覚めた先輩は楽しそうだ。なんてのどかな朝。
 先輩と食べる朝飯はおいしい。自分が作ったいつもの味なのに、なぜかとてもおいしく感じる。



 さらに翌週には、俺の学校生活はまた新たな変化を見せていた。
「へぇ。蒼羽くん、ハーフだったんだ」
「らしいんですよ。けどママさんに似たんで、こんな感じで。ぱっと見は全然わかんないですよね。言われてみれば、そうかも?って思うくらいで」
「そうだね。言われなきゃ気づかないね」
 まじまじと俺の顔を見ているのは楠本先輩。その前の、なぜか我が物顔で説明していたのは弘樹だ。
 昼休みの屋上。俺は弘樹と、天月先輩、楠本先輩という4人で、ランチタイムを過ごしていた。
「悠日が、もっと蒼羽くんと話してみたいって言ってて。よかったら一緒にお昼食べないかって言ってるんだけど、どうかな」
 天月先輩からそう誘われたのが昨夜のこと。
(楠本先輩が? なんで俺と?)
 不思議だったが、断る理由もない……というか断りにくい。けど俺一人で臨むのもヒヨッてしまって、
「えと……いつも一緒に飯食ってるヤツいるんで、そいつも連れてっていいですか?」
 と、とっさに弘樹を巻き込んだ。
 弘樹は「マジかよ! マジかよ!」と驚きつつも巻き込まれてくれ、今に至る。
(というかこいつ、神経図太いから案外余裕だよな……)
 最初こそそわそわしていたものの、数分ですっかり落ち着き、先輩たちとも普通に会話している。
 口数が多いのは弘樹と楠本先輩。
 天月先輩はニコニコしながら話を聞いていて、俺はどんな顔をしていいかわからず、黙々と購買で買ったパンを頬張っていた。
 聞かれたことには答えるけど、基本、人見知りの社交性ナシキャラなのだ俺は。
 まぁ、俺のことは弘樹が説明してくれているからいいだろう。連れてきて大正解だった。
「弘樹くんと蒼羽くん、クラスは違うんだよね?」
「あ、はい。2年になって分かれました。お二人は同じですよね」
「うん、3年間一緒。副校長の陰謀説とか流れてて笑うけど」
「知ってます知ってます。実際どうなんでしょうね~」
「ないだろ、さすがに。俺は単に縁があるんだと思ってるよ」
「縁、ですか?」
「そ。最初から、榛名にはなんかそういうの、感じたんだ」
 楠本先輩は、どこか甘い目線を天月先輩に向ける。天月先輩も、柔らかい表情でそれを受け止めた。
「えー、気になるなそれ。お二人って、どうやって仲良くなったんですか」
 好奇心丸出しでわくわくと尋ねる弘樹。楠本先輩が懐かしそうに目線を空に投げ、
「1年の時、席が隣になったんだよ。最初って出席番号順だろ。榛名が1列目の一番前で、俺は2列目の一番前」
「あー、『あ』と『く』ですもんね。楠本先輩、折り返して2列目の前か。残念なやつですね~」
「そそ。俺もそう思って、榛名に声かけて同じようなこと言ってさ」
「僕も『相田』とか『青木』とか居てくれたら回避できたんだけど、今回は残念とか話してね」
 ほぼ聞き役だった天月先輩も懐かしくなったのか、楠本先輩と笑みを交わしながら会話に入る。
「名前トークでしばらく盛り上がって、聞いたら下の名前も『はるな』と『はるひ』で似ててさ。すっかり親近感わいて、意気投合して。そこからずっと仲良し」
 言って、楠本先輩は隣の天月先輩の肩を抱き寄せた。
 コーヒー牛乳のパックを持っていた先輩は「わ、ちょっと」と慌てつつも、されるままになっている。
「なるほどー、そんな馴れ初めだったんですねー。あ、でも出席番号順で席が近かったってのは俺らも同じか。な、蒼羽?」
「え……あ、ああ」
 話を振られたことに気づくのが遅れ、俺はワンテンポ遅い返事を返した。
「そっか。『も』と『ゆ』だもんね」
 さっき聞いたばかりの弘樹の苗字を思い出しながら言ったのは天月先輩だ。
「ですです。俺が蒼羽の後ろだったんですよね」
「どっちから声かけたの?」
「蒼羽だと思いますか? もちろん俺ですよ。けどコイツ、すげー仏頂面で──」
「へぇ……!」
 弘樹が話す俺との思い出話を、天月先輩は興味深そうに聞いている。
 先輩が前のめりになった時に、自然と楠本先輩の腕が離れた。
 俺は、いつの間にか詰めていた息をふっと吐く。
(なんで……)
 どうしてなんだろう。天月先輩を──楠本先輩の近くにいる天月先輩を見ていると、腰に石でもぶら下げられたみたいに、体が重くなる。ずしりと、俺を沈める。
(こんな感覚、前はなかったのに……)
 先輩がいるのに、口の中のパンは綿でも食べているみたいに味気ないのはどうしてなんだろう。



「おまえさ。やっぱどう考えても、天月先輩のこと好きだろ」
「!」
 先輩たちと別れて教室に向かっている時、弘樹に言われた。
「な……なん……」
 足を止め、へどもどする俺を、弘樹はあきれた目で見て、
「はい、ごまかせてないー」
 容赦なく、斬り捨てる。
(う……)
 正直、返す言葉がなかった。硬く固まっていた心臓に、ぐっさりとナイフを突き立てられた気分だ。
 自分でも、さすがに目を背けられなくなってきている。これまでの自分と、少しずつ変わってきていること。
「さっきも、顔に出てたぞ」
「な、何が……?」
「だーかーらー。わかってんだろ。おもっきり、楠本先輩に嫉妬してたじゃん」
 二度目のグサリ。
(やっぱり……あれはそういう……)
 あの時の胸苦しさを思い出した。
 ほらまた、あの二人が親密に笑い合っているところを想像するだけで、ざわざわする。
(やきもち焼いてるんだ……俺は)
「そ、そん、なに……?」
 弘樹がこんなふうに言うってことは、先輩にも不審に映っていただろうか。
 不安になって思わず弘樹の腕に取りすがると、弘樹は「落ち着け」と苦笑して、
「おまえ基本不愛想だから、先輩たちは気づいてないと思うよ。けど俺は、お前がずっと天月先輩見てたの知ってるからなぁ。俺にはバレバレ」
「そ……そか……」
「ほっとしてる場合か。どうすんの」
「え……どうするって?」
「他の男に嫉妬するくらい好きなのに、ごまかし続ける気なのかってこと。いいかげん、ちゃんと自分の気持ちと向き合ったら? せっかく同居人になれたのに、ここで素直にならなくていつなるんだよ」
「……そんなこと、言われても……」
(素直になるって……なんだよ)
 俺は楠本先輩に嫉妬した。それはもう認めるしかないかもしれない。
 俺の中で、天月先輩の位置が変わったんだ。
 今までは遠くから見つめるだけで、話すことさえなかった。
 でも今は一緒に暮らして、俺の生活の中に先輩が、先輩の生活の中に俺がいる。
 そんなふうに近づいてしまったから、きっと俺は、わがままになってきているんだ。
(そうだ……わがままでしかない、よな)
 誰と親しくしようが先輩の自由で、先輩の好きにすればいいのに、俺がモヤモヤしているなんて。
(そんなの俺の勝手な感情で、先輩にとっては……)
「……やれやれ」
 黙り込んでしまった俺に、弘樹は笑いまじりの大きなため息をついて、
「ま、じっくり考えろよ。どっちが楽なのかはわかんないけど……俺は、噓つきはダセーって思うタイプ」
 そう言うと、「じゃ」と手を上げてD組の教室に駆けていく。
(嘘つき……)
 俺はぼんやりと、その後ろ姿を見送った。