白銀の塔 88階 深夜1時11分

血の匂いが床に滲んでいた。
オジェ=ル=ダノワの袖口には、紅の飛沫が染み込み、純白のシャツのフリルが静かに揺れる。
彼は銀守紅星の両肩を押さえ込み、冷たい床に肉を打ちつけた。

白い瞳が紅い光を射抜く。
その光は氷の刃のようであり、同時に焦がす炎のようでもあった。

「名前を呼んで」

低く、甘く、腐った蜜のような声。
紅星は息を荒げ、左胸のバッジを押さえた。
紅い瞳に怒りとも諦めともつかぬ光を宿し、首を横に振る。

「……断る」

オジェは無言で顔を近づけ、指先で紅星の顎を掴む。
「銀守紅星……呼んで。僕の名を」

その声が、紅星の心に過去を呼び覚ました。

六年前 東神市・黎明区 冬

凍てついた空でオリオン座が光る夜。
災害地の瓦礫の中で、紅星は銀色の特殊警備服に身を包み、静佳と出会った。

白い袖を血に染めながら、彼女は負傷者を抱えて走ってくる。
「こっち! まだ生きてる!」

紅星は無言で道を開けた。
静佳は安堵の笑みを浮かべてつぶやく。
「あなた……正義って、こんなにも温かいのね」

紅星は答えなかった。ただその言葉が、彼の心の奥に熱を残した。

再び現在。
オジェの指が紅星の首筋を這う。

「呼んで……オジェって」

紅星は震える唇で拒絶した。
「……やめろ」

「君の正義なんて、家族と一緒に消えたろう?」
オジェの白い髪が振り乱れ、笑いが滲む。

四年前 市立総合病院・屋上

冬の夜風。
紅星は肩に銃弾を受け、飛沫を滴らせていた。
静佳は手早く白衣の袖を裂き、傷口を押さえる。

「……痛い?」

紅星は首を振った。
「痛みは、正義の証だ」

静佳の瞳が夜の灯のように柔らかく光る。
「あなたの正義……温かすぎる。でも、信じてる」

紅星は初めて微笑み、彼女の手を握った。
「星良……って、こういうことか」

静佳は微笑んだ。
「家族は、星の光だよ」

現在。

オジェは紅星の胸を掴み、指先でバッジを弾く。

「その紅星章、誰につけてもらった?」

紅星は歯を食いしばった。
「……関係ない」

オジェは吐息を笑いに変える。
「呼んで、僕の名を。全部、だ」

二年前 自宅の夜。

任務から戻った紅星に、幼い星良が飛びつく。
「こうせいパパ!」
「パパのバッジ、かっこいい!」

紅星は笑い、抱き上げる。
「正義の光は、どんな夜も照らすんだ」

台所から静佳が顔を出す。
「おかえり。星良、ずっと待ってたよ」

その平穏が、彼にとってすべてだった。

再び現在。

オジェは紅星の耳元で囁いた。
「君の光は、僕が喰らう」

紅星の瞳に涙が滲む。
「……黙れ」

オジェはその唇に指を押し当てる。
「呼んで。僕の名を」

紅星は震える声で言った。
「……オ……ジェ……」

オジェの口元に、微笑が浮かぶ。
「いい子だ」

一年前 深夜の自宅。

紅星は報告書を読みながら、寝息を立てる星良を見ていた。
静佳がそっと肩に手を置く。
「紅星……無理しないで」

彼はその手を握り返す。
「家族を守るためなら、どんな闇でも潜る」

静佳は頬を寄せた。
「私たち、ずっと一緒だよ」

現実が戻る。
オジェは紅星の首に鎖を巻きつけた。

「永遠に、僕のものだ」

紅星は目を閉じ、静かに息を吐く。
「……正義は、死なない」

「じゃあ、どうなるか見せてみな」

紅星は唇を震わせながら言葉を絞り出した。
「……オジェ=ル=ダノワ」

鎖が鳴り、血が床に滴る。

紅星の身体が傾ぎ、オジェの腕に崩れ落ちた。

白い瞳が一度だけ緩み、静寂が部屋を包む。
腐った蜜の匂いが漂い、風がカーテンを揺らした。

床の上、紅星の胸の紅い章だけが、まだ微かに光を残していた。
その光がやがて滅びると、部屋にはただ、冷たい銀の静寂が残った。
銀守紅星の正義は、家族の記憶の中で生き続け、星の光を失うことなく、永遠に燃え続けていた。

——完。