ココのヤシ族の過去
——海に捨てられた緑の子——
碧海の島・帝国最南端
サンゴ礁が息づく楽園、ヤシ族の聖域「碧海の島」
島の民は皆、身体に緑の模様を持ち、それを「海の加護」と呼んでいた。
彼らは海の神ヤシラを崇め、模様を信仰の証として生きていた。
【第一章 誕生と海の災い】
満月の夜、ココは生まれた。
生まれたばかりのその身体には、海藻のように流れる緑の模様が全身を覆っていた。
三日目、島の巫女が囁く。
「この子は、海の怒りを呼ぶ」
巫女の声が終わらぬうちに、海は荒れた。
七日目、嵐が島を襲う。家々は倒れ、船が沈んだ。
人々は恐怖に駆られ、ココを「海の災い」と呼んだ。
母は泣き崩れ、父は絶望の中で言葉を吐く。
「海に還せ」
【第二章 海への生贄】
一歳になった冬、島では「海の贖い」の儀が行われた。
小さな木舟にココを縛りつけ、満潮の海へと流す。
舟には“ヤシラの怒りを鎮めよ”と刻まれた板が添えられていた。
波が静かに舟を攫い、やがて闇の中へ沈めていった。
それが、村の赦しだった。
そして、ひとりの子供の死刑だった。
【第三章 漂流と海の記憶】
三日目、舟は嵐に運ばれ、帝国の海へ出た。
五日目、ココの意識は消え、緑の模様が光を放ち始めた。
七日目、白銀の砂浜に舟が流れ着く。
その身体に宿る模様は、“海の記憶”を抱き締めていた。
波の音、沈没した漁船の悲鳴、魚たちの群れ——
海が持つ、すべての痛みと祈りが刻まれていた。
【第四章 オジェとの出会い】
銀警察の巡回中、オジェ=ル=ダノワはその舟を見つけた。
月光が照らす小さな身体。
手足を縛られ、冷たい水に打たれながらも、少年はまだ呼吸していた。
茶緑の髪は海藻のように濡れ、黄緑の瞳は閉じられている。
「……生きてる」
そう呟いたオジェは縄を断ち切り、少年を抱き上げた。
そして、己だけに聞こえる声で言う。
「僕のものだ」
【第五章 模様の真実】
白銀荘の白銀の塔に戻った夜、オジェは古文書を読み解いた。
「ヤシ族の“海の守護”。海の災いを受け入れ、その身で封じる。模様が光るのは、救った命の数」
ココの模様が宿していたのは、百年分の嵐から島を守った記憶。
彼は「災い」ではなく、「贖い主」だった。
【第六章 模様の変化】
| 時期 | 変化 |
|------|------|
| 救出後 | 模様が胸から腕へ広がるが、痛みは甘い疼きに変わる。 |
| オジェのキス | 模様がサンゴの花に変わり、オジェの腕に絡みつく。 |
| 満月 | 模様が発光し、オジェの傷を癒す。 |
【最終預言】
「緑の子が海に捨てられた時、ヤシ族の守護は絶える。だが、愛に拾われし時、海は再びその子を抱く」
白銀荘の夜。
ココの模様は、オジェの鎖の下で、
静かに、熱く、光を灯していた。
白銀の塔 88階・夜
夜が血のように濃く降りていた。
オジェ=ル=ダノワは、銀警察の制服を引き裂き、ソファに沈む。
シルクのシャツが肌に張り付き、白い髪が頬に落ちる。
瞳は暗い光の中で、獲物の血潮のように輝いていた。
「……ココ」
その声は、腐った蜜のように甘く、低く響いた。
ココはソファの隅で膝を抱え、怯えた瞳で闇を見つめていた。
全身を覆う緑の模様がかすかに脈動し、月光の下でぬらりと光る。
オジェが立ち上がる。
足取りはゆっくりだが、獣のような確実さ。
少年の腕を掴むと、骨が鳴った。
「寝る時間だ。……今夜も僕のベッドで、永遠にな」
ココは声を飲み込み、ただ震える。
オジェの手が鎖を外し、代わりに鉄の輪を手首に掛けた。
「逃げないで。君は、僕のものだから」
その声は、氷より冷たく、狂気より熱い。
少年は涙を流し、唇を噛み、ただ微かに頷いた。
オジェは大斧を枕元に立て、髪で彼の頬を撫でる。
「明日も、僕が面倒を見てやる。朝も昼も夜も、永遠に」
灯りが落ち、闇が部屋を支配した。
静かな寝息の合間に、オジェの吐息が耳許で囁く。
「愛してる……」
深夜。
白銀の塔は死んだように静かだった。
ココは目を覚ます。
黄緑の瞳に、光が宿る。
鎖の鍵は、昼間、オジェのポケットからこっそり抜いていた。
「カチャリ」
金属音が短く響き、鎖が床へ落ちた。
裸足で床へ降りる。
扉を開くと、リビングの月光が墓標のように広がっていた。
壁に立てかけられた大斧に、手を伸ばす。
重く、冷たい鉄。
「……やれる」
ココは心の底で呟いた。
逃げるのではなく、決着をつけるために。
廊下に出る。
息を潜め、一段ずつ階段を降りる。
八十八階——そのすべてを裸足で降りながら、心臓が跳ねるたび、死の足音が響く。
ロビーには夜警の死体。喉が裂かれ、血が広がっている。
赤と緑の足跡が、重なって混ざる。
ココは扉を開け、荒野の風に身を晒した。
髪が揺れる。
「もう二度と戻らない」
朝。
ベッドには冷えたシーツだけが残る。
オジェの瞳に、静かな殺意が生まれた。
壁から予備の大斧を抜き取る。
制服の襟を整えながら呟く。
「逃げたな。……けれど、世界は君を殺す。だから僕が先に見つけてやる」
ロビーの床には、血と足跡が残っていた。
それを指先でなぞり、唇の端がわずかに吊り上がる。
「馬鹿な子だ。……寒いだろう? 震えてるのか? 僕が裂いて温めてやる」
白銀の荒野を、男の足音が響く。
重く、狂おしく、確実に。
ココは走っていた。
風を切り、夜明けの光を避けるように。
緑の模様が海の波のごとく蠢き、全身に鼓動を送る。
「もう戻りたくない」
手の中の大斧が震える。
その刃には、憎しみでも怨みでもない、ただ“決意”が映っていた。
超高層の塔は遠ざかり、
白い朝が二人を裂く。
追う者と、逃げる者。
血の匂いと、鎖の音。
愛と狂気が交錯する世界に、
海の遠い記憶が、どこかで静かに歌っていた。
翌日。
夜はまだ、血のように赤かった。
荒野に吹く風は砂と錆の匂いを運び、足跡の上を削る。その奥に、二つの影があった。
オジェ=ル=ダノワは、音もなく立っていた。
白いコートの裾が風に翻り、右手には斧。銀色の刃が、沈む月の光をゆらめかせ、その反射の中で血のような輝きが瞬いた。
「帰ってきな、ココ」
声は低く、穏やかにすら聞こえた。
しかしその奥底には、冷たい炎が潜んでいた。
遠く、崩れた桟橋の上で少年が振り向く。
茶緑の髪は海風に乱れ、黄緑の瞳が涙に濡れている。
その足に刻まれた緑の模様は、海の色を映すように淡く光っていた。
「いやだ。二度と戻らない」
かすれた声が、夜の底で震えた。
両手にはチェーンソー型の大斧。
その刃は、彼が生き延びてきた唯一の意志だった。
「僕は……君に殺される前に、君を終わらせる」
オジェは静かに歩み寄る。
足音が砂を噛み、世界が息を詰めたように静まり返った。
「どうして、そんなに震えてる?」
「分かんない、知らない!」 (胸を張らないと! 強く逞しく! 舐めるな! 頑張れ僕!)
呼吸がぶつかる距離まで、二人は近づいた。
海の底のような静寂の中で、ココの瞳が揺れる。
その瞳に、オジェ自身の顔が映っていた。
「愛してるなら、壊してみせな」
オジェの囁きは、呪いそのものだった。
ココが叫びとともに駆け出した。
血のような風が唸り、刃が交錯する。金属と骨の摩擦音。
斧が弾かれ、光が弧を描く。オジェの肩が裂け、赤が夜気に散った。
「なぜ抗う、僕を愛しているなら!」
「意味分かんない! 僕は、君に閉じ込められたまま生きたくない!」
涙が頬を濡らし、叫びは血を混ぜた。
ココの斧が再び振り抜かれる。
だがその瞬間、オジェの腕が彼を抱き止める。
刃先がオジェの胸を渇いた音で貫いた。
「……やっと、届いたな」
息のような声。
ココは凍りついたまま、刃から手を離す。
手のひらの震えが止まらない。
「なんで……」(いけたのに……ここで負けるなんて……悔しい……)
オジェは微笑んだ。血の色をした微笑み。
「君が、僕を殺せるよう祈ってた。この手で奪い続けたものの終わりを、君に託したかった」
ココの身体が崩れ、腕の中へ落ちた。
オジェはその小さな体を抱き締め、濡れた髪に頬を寄せる。
「君の手は……あったかいね……」 (嫌な温かさ……)
「君の模様が、まだ光ってる。海が、君を呼んでるんだ」
緑の光が足元から滲み、波のように広がっていく。
砂が濡れ、崩れた桟橋の下から海が呼吸を取り戻す。
その光がココを包み、彼の身体は淡く透明になっていった。
「だめだ……行くな。置いていくな……!」
オジェの声が掠れ、血の味が唇を満たした。
それでも彼は腕を緩めなかった。
消えていくその体を、まるで新しい命のように抱き締めた。
ココが最後に微笑む。
「ありがとう。君が拾ってくれたあの日……きっと、僕は幸せだった」
海の青と光の粒がひとつになり、少年の姿が消えた。
残されたのは、オジェの腕の中の温もりの残骸と、緑に染まった砂だけ。
朝が来た。
空は真白に滲み、海の向こうの太陽が昇り始める。
オジェはその場に膝をつき、血に濡れた斧を握り締めた。
「……帰ったのか。なら、僕もすぐ行く。海の底で、もう一度抱きしめる」
彼の白い髪を朝風が撫でていく。
緑の光は消え、波だけが寄せては返した。
やがて、その呼吸のような波音が、
二人の愛の記憶を優しく包み込み、
誰もいない海に溶けていった。
——完。
——海に捨てられた緑の子——
碧海の島・帝国最南端
サンゴ礁が息づく楽園、ヤシ族の聖域「碧海の島」
島の民は皆、身体に緑の模様を持ち、それを「海の加護」と呼んでいた。
彼らは海の神ヤシラを崇め、模様を信仰の証として生きていた。
【第一章 誕生と海の災い】
満月の夜、ココは生まれた。
生まれたばかりのその身体には、海藻のように流れる緑の模様が全身を覆っていた。
三日目、島の巫女が囁く。
「この子は、海の怒りを呼ぶ」
巫女の声が終わらぬうちに、海は荒れた。
七日目、嵐が島を襲う。家々は倒れ、船が沈んだ。
人々は恐怖に駆られ、ココを「海の災い」と呼んだ。
母は泣き崩れ、父は絶望の中で言葉を吐く。
「海に還せ」
【第二章 海への生贄】
一歳になった冬、島では「海の贖い」の儀が行われた。
小さな木舟にココを縛りつけ、満潮の海へと流す。
舟には“ヤシラの怒りを鎮めよ”と刻まれた板が添えられていた。
波が静かに舟を攫い、やがて闇の中へ沈めていった。
それが、村の赦しだった。
そして、ひとりの子供の死刑だった。
【第三章 漂流と海の記憶】
三日目、舟は嵐に運ばれ、帝国の海へ出た。
五日目、ココの意識は消え、緑の模様が光を放ち始めた。
七日目、白銀の砂浜に舟が流れ着く。
その身体に宿る模様は、“海の記憶”を抱き締めていた。
波の音、沈没した漁船の悲鳴、魚たちの群れ——
海が持つ、すべての痛みと祈りが刻まれていた。
【第四章 オジェとの出会い】
銀警察の巡回中、オジェ=ル=ダノワはその舟を見つけた。
月光が照らす小さな身体。
手足を縛られ、冷たい水に打たれながらも、少年はまだ呼吸していた。
茶緑の髪は海藻のように濡れ、黄緑の瞳は閉じられている。
「……生きてる」
そう呟いたオジェは縄を断ち切り、少年を抱き上げた。
そして、己だけに聞こえる声で言う。
「僕のものだ」
【第五章 模様の真実】
白銀荘の白銀の塔に戻った夜、オジェは古文書を読み解いた。
「ヤシ族の“海の守護”。海の災いを受け入れ、その身で封じる。模様が光るのは、救った命の数」
ココの模様が宿していたのは、百年分の嵐から島を守った記憶。
彼は「災い」ではなく、「贖い主」だった。
【第六章 模様の変化】
| 時期 | 変化 |
|------|------|
| 救出後 | 模様が胸から腕へ広がるが、痛みは甘い疼きに変わる。 |
| オジェのキス | 模様がサンゴの花に変わり、オジェの腕に絡みつく。 |
| 満月 | 模様が発光し、オジェの傷を癒す。 |
【最終預言】
「緑の子が海に捨てられた時、ヤシ族の守護は絶える。だが、愛に拾われし時、海は再びその子を抱く」
白銀荘の夜。
ココの模様は、オジェの鎖の下で、
静かに、熱く、光を灯していた。
白銀の塔 88階・夜
夜が血のように濃く降りていた。
オジェ=ル=ダノワは、銀警察の制服を引き裂き、ソファに沈む。
シルクのシャツが肌に張り付き、白い髪が頬に落ちる。
瞳は暗い光の中で、獲物の血潮のように輝いていた。
「……ココ」
その声は、腐った蜜のように甘く、低く響いた。
ココはソファの隅で膝を抱え、怯えた瞳で闇を見つめていた。
全身を覆う緑の模様がかすかに脈動し、月光の下でぬらりと光る。
オジェが立ち上がる。
足取りはゆっくりだが、獣のような確実さ。
少年の腕を掴むと、骨が鳴った。
「寝る時間だ。……今夜も僕のベッドで、永遠にな」
ココは声を飲み込み、ただ震える。
オジェの手が鎖を外し、代わりに鉄の輪を手首に掛けた。
「逃げないで。君は、僕のものだから」
その声は、氷より冷たく、狂気より熱い。
少年は涙を流し、唇を噛み、ただ微かに頷いた。
オジェは大斧を枕元に立て、髪で彼の頬を撫でる。
「明日も、僕が面倒を見てやる。朝も昼も夜も、永遠に」
灯りが落ち、闇が部屋を支配した。
静かな寝息の合間に、オジェの吐息が耳許で囁く。
「愛してる……」
深夜。
白銀の塔は死んだように静かだった。
ココは目を覚ます。
黄緑の瞳に、光が宿る。
鎖の鍵は、昼間、オジェのポケットからこっそり抜いていた。
「カチャリ」
金属音が短く響き、鎖が床へ落ちた。
裸足で床へ降りる。
扉を開くと、リビングの月光が墓標のように広がっていた。
壁に立てかけられた大斧に、手を伸ばす。
重く、冷たい鉄。
「……やれる」
ココは心の底で呟いた。
逃げるのではなく、決着をつけるために。
廊下に出る。
息を潜め、一段ずつ階段を降りる。
八十八階——そのすべてを裸足で降りながら、心臓が跳ねるたび、死の足音が響く。
ロビーには夜警の死体。喉が裂かれ、血が広がっている。
赤と緑の足跡が、重なって混ざる。
ココは扉を開け、荒野の風に身を晒した。
髪が揺れる。
「もう二度と戻らない」
朝。
ベッドには冷えたシーツだけが残る。
オジェの瞳に、静かな殺意が生まれた。
壁から予備の大斧を抜き取る。
制服の襟を整えながら呟く。
「逃げたな。……けれど、世界は君を殺す。だから僕が先に見つけてやる」
ロビーの床には、血と足跡が残っていた。
それを指先でなぞり、唇の端がわずかに吊り上がる。
「馬鹿な子だ。……寒いだろう? 震えてるのか? 僕が裂いて温めてやる」
白銀の荒野を、男の足音が響く。
重く、狂おしく、確実に。
ココは走っていた。
風を切り、夜明けの光を避けるように。
緑の模様が海の波のごとく蠢き、全身に鼓動を送る。
「もう戻りたくない」
手の中の大斧が震える。
その刃には、憎しみでも怨みでもない、ただ“決意”が映っていた。
超高層の塔は遠ざかり、
白い朝が二人を裂く。
追う者と、逃げる者。
血の匂いと、鎖の音。
愛と狂気が交錯する世界に、
海の遠い記憶が、どこかで静かに歌っていた。
翌日。
夜はまだ、血のように赤かった。
荒野に吹く風は砂と錆の匂いを運び、足跡の上を削る。その奥に、二つの影があった。
オジェ=ル=ダノワは、音もなく立っていた。
白いコートの裾が風に翻り、右手には斧。銀色の刃が、沈む月の光をゆらめかせ、その反射の中で血のような輝きが瞬いた。
「帰ってきな、ココ」
声は低く、穏やかにすら聞こえた。
しかしその奥底には、冷たい炎が潜んでいた。
遠く、崩れた桟橋の上で少年が振り向く。
茶緑の髪は海風に乱れ、黄緑の瞳が涙に濡れている。
その足に刻まれた緑の模様は、海の色を映すように淡く光っていた。
「いやだ。二度と戻らない」
かすれた声が、夜の底で震えた。
両手にはチェーンソー型の大斧。
その刃は、彼が生き延びてきた唯一の意志だった。
「僕は……君に殺される前に、君を終わらせる」
オジェは静かに歩み寄る。
足音が砂を噛み、世界が息を詰めたように静まり返った。
「どうして、そんなに震えてる?」
「分かんない、知らない!」 (胸を張らないと! 強く逞しく! 舐めるな! 頑張れ僕!)
呼吸がぶつかる距離まで、二人は近づいた。
海の底のような静寂の中で、ココの瞳が揺れる。
その瞳に、オジェ自身の顔が映っていた。
「愛してるなら、壊してみせな」
オジェの囁きは、呪いそのものだった。
ココが叫びとともに駆け出した。
血のような風が唸り、刃が交錯する。金属と骨の摩擦音。
斧が弾かれ、光が弧を描く。オジェの肩が裂け、赤が夜気に散った。
「なぜ抗う、僕を愛しているなら!」
「意味分かんない! 僕は、君に閉じ込められたまま生きたくない!」
涙が頬を濡らし、叫びは血を混ぜた。
ココの斧が再び振り抜かれる。
だがその瞬間、オジェの腕が彼を抱き止める。
刃先がオジェの胸を渇いた音で貫いた。
「……やっと、届いたな」
息のような声。
ココは凍りついたまま、刃から手を離す。
手のひらの震えが止まらない。
「なんで……」(いけたのに……ここで負けるなんて……悔しい……)
オジェは微笑んだ。血の色をした微笑み。
「君が、僕を殺せるよう祈ってた。この手で奪い続けたものの終わりを、君に託したかった」
ココの身体が崩れ、腕の中へ落ちた。
オジェはその小さな体を抱き締め、濡れた髪に頬を寄せる。
「君の手は……あったかいね……」 (嫌な温かさ……)
「君の模様が、まだ光ってる。海が、君を呼んでるんだ」
緑の光が足元から滲み、波のように広がっていく。
砂が濡れ、崩れた桟橋の下から海が呼吸を取り戻す。
その光がココを包み、彼の身体は淡く透明になっていった。
「だめだ……行くな。置いていくな……!」
オジェの声が掠れ、血の味が唇を満たした。
それでも彼は腕を緩めなかった。
消えていくその体を、まるで新しい命のように抱き締めた。
ココが最後に微笑む。
「ありがとう。君が拾ってくれたあの日……きっと、僕は幸せだった」
海の青と光の粒がひとつになり、少年の姿が消えた。
残されたのは、オジェの腕の中の温もりの残骸と、緑に染まった砂だけ。
朝が来た。
空は真白に滲み、海の向こうの太陽が昇り始める。
オジェはその場に膝をつき、血に濡れた斧を握り締めた。
「……帰ったのか。なら、僕もすぐ行く。海の底で、もう一度抱きしめる」
彼の白い髪を朝風が撫でていく。
緑の光は消え、波だけが寄せては返した。
やがて、その呼吸のような波音が、
二人の愛の記憶を優しく包み込み、
誰もいない海に溶けていった。
——完。



