扉を押し開けた瞬間、低く流れるジャズのような音楽が、外の喧噪とは別の時間をつくっていた。
柔らかい間接照明が天井の端から落ちて、琥珀色の光が磨かれたグラスやボトルの表面に小さく跳ねる。
昨日より少し落ち着いた色合いのスーツやワンピースを着た客たちの笑い声が、壁に反響して丸く響いてくる。
微かに漂うアルコールと柑橘の香りが鼻腔をくすぐった。
その中で――
「……陸」
カウンターの向こう、レオンがいた。
グラスを磨いていた手を止め、こちらを見た瞬間、ほんの一瞬だけ、その完璧な笑顔が崩れた気がする。
すぐに形を整えて、甘くやわらかな表情に戻る。
でも、今の一瞬は何だったのか。胸の奥が小さく反応してしまう。
「来てくれて嬉しい。……おかえり」
また、その言葉だ。
声の響きが、全身の皮膚をゆっくり撫でるみたいで、背中の内側がじんわりと熱くなる。
この店の空気よりも、この人の声のほうがよほど体温を上げてくるのだ。
案内される間、周囲の視線が何度も肌に触れた。
けれどレオンは気にした様子もなく、歩幅をぴたりと合わせてくる。
指先が腰の横を軽く誘導する――ほんの一瞬の接触なのに、意識がそこに釘付けになった。
ソファに腰を下ろすと、レオンは斜め向かいに座る。
テーブル越しでも、伸ばせば届く距離。
昨日よりは落ち着いている……はずなのに、足先は落ち着きなく揺れてしまう。
「今日は何を飲む? 昨日と同じでもいいし、少し変えてみても」
「……軽めのやつ、で」
「了解。陸が飲みやすいやつにするね」
注文を取るふりをして、レオンが少しだけ声を落とす。
「……でもさ」
「ん?」
「高いのは頼まないようにしよう? 学生だよね? お金とか、無理しないでほしいから」
思いがけない言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
ホストの営業なら、むしろ高いものをすすめるはずだ。
なのに、目の前の男は、まるで本当に心配しているみたいな目をしている。
「……別に、大丈夫です、よ」
「そう? 本当は奢ってあげたいんだけど……ここで俺が奢るのはルール違反だからさ」
軽く笑いながらも、その瞬間だけはふざけていなかった。
琥珀色のグラスが運ばれてくる。昨日より少し色が深い。
氷が当たって鳴る澄んだ音が、やけに耳に残る。
「ほら」
差し出されたグラスを受け取ろうと手を伸ばす――その瞬間だった。
触れるより先に、レオンの手が俺の手を包み込んだ。
握手でもするように、両手でしっかりと。
「……っ」
指先から手首へ、温度がゆっくりと広がる。
その感覚が皮膚だけでなく、胸の奥まで届いてくる。
俺の心臓が煩いくらいに動き出していた。
「冷たいね」
「え?」
「指先。外、少し涼しかった?」
「……まあ」
レオンは視線を落とさないまま、少し笑う。
「じゃあ、温めてあげないと」
(……これ、営業だよな? だよな……?)
ホストクラブでホストが男を口説くなんてこと、るわけがない。
頭ではそう言い聞かせているのに、手は彼の温もりをなぞって離せなかった。
こういう距離感が仕事だと、知っているのに。
「……この手、もう離さないよ」
笑いながら言われた言葉が、予想よりずっと深く刺さった。
冗談とも本気ともつかない響き。
逸らそうとした視線は、結局また引き戻される。
(……離せって言えばいいのに、俺ぇ……)
そう思うのに、口が動かない。
指の温度に、ほんの少しだけ縋っている自分がいる。
「……どうしたの、黙っちゃって」
「……なんでもない、です」
「ふぅん」
その後は、趣味や大学のこと、他愛ない話題が続いた。
でも、時折こちらを射抜くような視線が、その仮面を外したように見えて息が詰まる。
あっという間に閉店が近づく。
「送るよ」と言われ、外へ出ると、いつの間にか雨が降ったらしい。
濡れたアスファルトにネオンがにじんで、街全体がぼんやりと光っている。
「今日はありがとう」
「……こちらこそ」
足を止めたレオンが、ゆっくりと顔を傾ける。
視界いっぱいに近づくまなざし。
息を吸う間もなく、頬にふっと温かい感触が触れた。
「……っ!」
「おやすみ、陸」
微笑んで離れた距離は、数十センチしかない。
鼓動が速すぎて、自分の足音が遠くに聞こえる。
(……なに、今の……)
返事もできないまま、背を向けた。
ネオンの光と、まだ残る体温が背中を押す。
夜風が頬を撫でても、その感触は消えなかった。
柔らかい間接照明が天井の端から落ちて、琥珀色の光が磨かれたグラスやボトルの表面に小さく跳ねる。
昨日より少し落ち着いた色合いのスーツやワンピースを着た客たちの笑い声が、壁に反響して丸く響いてくる。
微かに漂うアルコールと柑橘の香りが鼻腔をくすぐった。
その中で――
「……陸」
カウンターの向こう、レオンがいた。
グラスを磨いていた手を止め、こちらを見た瞬間、ほんの一瞬だけ、その完璧な笑顔が崩れた気がする。
すぐに形を整えて、甘くやわらかな表情に戻る。
でも、今の一瞬は何だったのか。胸の奥が小さく反応してしまう。
「来てくれて嬉しい。……おかえり」
また、その言葉だ。
声の響きが、全身の皮膚をゆっくり撫でるみたいで、背中の内側がじんわりと熱くなる。
この店の空気よりも、この人の声のほうがよほど体温を上げてくるのだ。
案内される間、周囲の視線が何度も肌に触れた。
けれどレオンは気にした様子もなく、歩幅をぴたりと合わせてくる。
指先が腰の横を軽く誘導する――ほんの一瞬の接触なのに、意識がそこに釘付けになった。
ソファに腰を下ろすと、レオンは斜め向かいに座る。
テーブル越しでも、伸ばせば届く距離。
昨日よりは落ち着いている……はずなのに、足先は落ち着きなく揺れてしまう。
「今日は何を飲む? 昨日と同じでもいいし、少し変えてみても」
「……軽めのやつ、で」
「了解。陸が飲みやすいやつにするね」
注文を取るふりをして、レオンが少しだけ声を落とす。
「……でもさ」
「ん?」
「高いのは頼まないようにしよう? 学生だよね? お金とか、無理しないでほしいから」
思いがけない言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
ホストの営業なら、むしろ高いものをすすめるはずだ。
なのに、目の前の男は、まるで本当に心配しているみたいな目をしている。
「……別に、大丈夫です、よ」
「そう? 本当は奢ってあげたいんだけど……ここで俺が奢るのはルール違反だからさ」
軽く笑いながらも、その瞬間だけはふざけていなかった。
琥珀色のグラスが運ばれてくる。昨日より少し色が深い。
氷が当たって鳴る澄んだ音が、やけに耳に残る。
「ほら」
差し出されたグラスを受け取ろうと手を伸ばす――その瞬間だった。
触れるより先に、レオンの手が俺の手を包み込んだ。
握手でもするように、両手でしっかりと。
「……っ」
指先から手首へ、温度がゆっくりと広がる。
その感覚が皮膚だけでなく、胸の奥まで届いてくる。
俺の心臓が煩いくらいに動き出していた。
「冷たいね」
「え?」
「指先。外、少し涼しかった?」
「……まあ」
レオンは視線を落とさないまま、少し笑う。
「じゃあ、温めてあげないと」
(……これ、営業だよな? だよな……?)
ホストクラブでホストが男を口説くなんてこと、るわけがない。
頭ではそう言い聞かせているのに、手は彼の温もりをなぞって離せなかった。
こういう距離感が仕事だと、知っているのに。
「……この手、もう離さないよ」
笑いながら言われた言葉が、予想よりずっと深く刺さった。
冗談とも本気ともつかない響き。
逸らそうとした視線は、結局また引き戻される。
(……離せって言えばいいのに、俺ぇ……)
そう思うのに、口が動かない。
指の温度に、ほんの少しだけ縋っている自分がいる。
「……どうしたの、黙っちゃって」
「……なんでもない、です」
「ふぅん」
その後は、趣味や大学のこと、他愛ない話題が続いた。
でも、時折こちらを射抜くような視線が、その仮面を外したように見えて息が詰まる。
あっという間に閉店が近づく。
「送るよ」と言われ、外へ出ると、いつの間にか雨が降ったらしい。
濡れたアスファルトにネオンがにじんで、街全体がぼんやりと光っている。
「今日はありがとう」
「……こちらこそ」
足を止めたレオンが、ゆっくりと顔を傾ける。
視界いっぱいに近づくまなざし。
息を吸う間もなく、頬にふっと温かい感触が触れた。
「……っ!」
「おやすみ、陸」
微笑んで離れた距離は、数十センチしかない。
鼓動が速すぎて、自分の足音が遠くに聞こえる。
(……なに、今の……)
返事もできないまま、背を向けた。
ネオンの光と、まだ残る体温が背中を押す。
夜風が頬を撫でても、その感触は消えなかった。

