ワンルームの天井を見つめていた。
エアコンの風が乾いていて、カーテンのすそがわずかに揺れる。
ベッドの上、仰向け。胸の上に置いたスマホが微かな重みで呼吸の上下を伝えてくる。

“LEON(☆):都合悪かったら、また今度でも。無理しないでね”

さっき届いたメッセージを、もう何度読み返したかわからない。
優しい。だからこそ、危ない。
甘さで包んでくるくせに、逃げ道も必ず残してくる……その手つきが、怖い。

(行ったらまた、おかしくなる。昨日みたいに)

昨日の洗面所。距離ゼロの視線。触れないまま熱だけ残す、あの間合い。
思い出すだけで心臓が忙しくなる。
男にこんな反応をしてる自分が信じられないのに、身体は先に思い出してる。
理性は「やめろ」と言ってる。
でも、手はLINEの入力欄の上で、じっと待っている。

(……会いたい)

たったそれだけ。
認めた瞬間、胸の中の何かが崩れる音がした。
崩れた破片は、意外なほど静かに落ちていく。

机の上には、レポートのプリント。端っこに書き足したメモは半分で止まっている。
ペン先にはまだインクが残っているのに、言葉の方が尽きた。
ノートを閉じ、深呼吸。
画面に戻る。入力欄の白が、やけに眩しい。

(どうする。断る。いや、保留。……いや、違う)

親指が動く。打っては消し、消しては打つ。

「今は忙しいから」「また今度」「ありがとう」「今日じゃなくても」
保険みたいな言葉を並べて、全部消した。
そんなの、どれも嘘だ。

――素直に、短く。

打ち込む。
“行くよ”
二文字。送信マークの赤が脈打つみたいに見えた。
一瞬、指が止まる。
そのまま、押した。

送信済。
即座に既読。
たったそれだけのことなのに、背中に冷たい汗がにじむ。

“LEON(☆):嬉しい。じゃあ、今日の夜、何時がいい?”

思っていたよりずっと早い返信。
予定を合わせて、店の名前と時間が決まる。
淡々としたやりとりのはずが、指先はずっと熱かった。

スマホを伏せる。
部屋の静けさが戻ってくる。
何も音がないのに、うるさいのは心臓だけだ。

シャワーを浴びた。
鏡の前で髪を整え、無難なシャツを選ぶ。
香水はつけない。つけたくない。
昨日、あの人の匂いが近すぎたから。
香りが混じっては、境界が消える気がした。

日が傾いていく道を駅へ向かう。
自動販売機の硬貨が落ちる音がやけに大きく響いた。
電車の窓に映る自分の顔は、思っているより落ち着いていて、逆に落ち着かない。
扉が開くたびに、胸が一段深く沈む。
誰にも触れられてないのに、肩が強張っている。
スマホはポケットの中。取り出すと揺れが増えそうで、あえて触らない。

繁華街。
ネオンが点き始める時刻は、昼と夜の境目が曖昧になる。
湿った風。遠くのスピーカーから漏れるダンスビート。
歩道の端で立ち止まる。
約束の店は、昨日と同じ、黒い扉の向こう。

(引き返すなら今だ)

心のどこかで、まだ言い訳を探していた。
レポートが、眠気が、体調が。
どれもほんの少しの真実を含んではいるけど、本当の理由になりきれない。
扉のプレートに書かれた店名を目でなぞる。
金属の縁が街灯に反射して、淡く光った。

(行くと決めたのは俺だ。逃げるなら、最初から送るなよ……)

喉の奥が乾いた。
舌先で上顎を押して、呼吸を整える。
胸ポケットからスマホを取り出す。
“着いた”
短いメッセージを送る。
すぐに返事は来た。

“LEON(☆):おかえり。中で、待ってる”

“おかえり”。
その言葉に一瞬つまずいた。
帰る場所……なんて。
やめてほしい。そんなふうに、思いたくなるじゃないか。

(俺、迷ってばっかだな……)

額に手をやり、軽く押す。
考えるのをいったん止める。
今は、扉を開けるだけ。

建物の前に立つ。
重厚な木のドア。真鍮の取っ手。
手のひらを当てると、ひんやりとした温度が皮膚に移る。
深呼吸。
息を吸って、吐く。もう一度。

音楽が鼓動に混ざる。
遠くでタクシーがクラクションを短く鳴らした。
世界はいつも通り動いているのに、俺の足だけが地面から離れない。
それでも、取っ手を握り──指が、しっかりと押す。

扉が、少しだけ重みを残して滑る。
隙間から、冷たい空気と、甘い香りが流れてくる。
暗がりと光が交わる境目に、また別の夜が始まる気配。

(――行く)

胸の内で小さく呟きながら、俺は扉を押し広げた。