勇気を振り絞ってドアを押した。
開店前の店内は、シャンデリアの光だけが煌めいていて、いつもより静かだった。
グラスが磨かれる音や、控えめに流れるBGM。
華やかさよりも、待機中の静けさが勝っていて、余計に緊張が増す。
「――あれ? もう客が?」
「いや、まだ開店前だろ……え? その子……」
カウンターにいたスタッフたちが、一斉にこちらを見た。
笑いを含んだ驚きの声が飛び交い、空気がざわつく。
(やっぱり来るんじゃなかった……!)
顔から火が出そうになる。俺は慌てて声を荒げた。
「ち、違う! あの、俺は別に――!」
「違わないよ」
背後から落ち着いた声が重なった。
振り返ると、そこにはスーツ姿の――奏真が立っていた。
「レオン」ではなく、奏真。
その眼差しは俺だけを真っ直ぐ見ていて、冗談の影なんてひとつもなかった。
スタッフたちが「おいおい……」と苦笑するなか、さらに奥の方から低い声が響いた。
「……なんだ、騒がしいと思ったら」
姿を現したのは年配の男だった。
髪には白いものが混じり、整ったスーツを着こなし、手には磨き終えたばかりのグラスを持っている。
視線をこちらに向けただけで、空気が一気に張りつめた。
ただ者じゃないと直感する。
「奏真。……その子は?」
刺すような問いに、背筋が凍る。
俺は反射的に口を開きかけたが、言葉が出なかった。
説明の仕方も、立場の言いようも、頭の中で絡まって解けない。
そのとき、奏真が一歩前に出た。
俺と男の間に立つようにして、はっきりと答える。
「客じゃない。俺の――大事な人です」
「……っ!」
全身が一気に熱を帯びる。
鼓動が耳の奥で爆発するみたいに鳴り響く。
年配の男は数秒こちらを見て、表情を崩さずに小さくうなずいた。
「……そうか。なら、よろしく頼む」
それだけ言って、静かに奥へと引っ込んでいった。
店内に残ったのは、スタッフたちの小さなざわめきと、俺の荒い呼吸だけだった。
「……い、今の誰だよ」
必死に小声で訊くと、奏真はわずかに笑った。
「オーナーだよ。俺の叔父さん」
「……はぁ?! 最初に言えよ!」
「言うタイミング、なかっただろ」
※
小一時間ほどして、スタッフに案内されバックヤードに移動する。
扉を閉めると、フロアのざわめきが遠ざかり、急に世界が静かになった。
狭い控室にはハンガーラックや鏡台が並んでいて、香水と整髪料の匂いが充満している。
「……お前、なんでここで働いてんの?」
ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。
奏真は椅子に腰を下ろし、ネクタイを緩めながら答える。
「親戚がやってるんだよ、ここ。時給がいいし、融通も利く。大学の学費や生活費をカバーするには、効率が良かった……てとこかな」
あまりにもあっさりした理由に、俺は拍子抜けした。
ヘビーな理由があったら俺はこいつのためにどう動けるか、なんて思っていたからだ。
「……そんな理由で、あんな……」
「バイトにしては、悪くないだろ? ハメを外しすぎることもないし」
「……っ」
悔しいことに、その堂々とした態度に言い返せなかった。
俺が勝手に抱えていた不安や嫉妬が、子供じみて見える。
奏真は少し笑って、真顔に戻る。
「でも、今日は“客”としてじゃなくて……“恋人”として陸に来てほしかった」
その言葉に、胸が締め付けられた。
からかわれているわけじゃない。
さっきまでの軽口とは違う。
まっすぐに俺を見ている。
「……二度と来ねーからな!」
気づけば声を荒げていた。
照れ隠しにしかならないのに、口から勝手に飛び出す。
奏真は笑いもせず、ただ「わかってる」と頷いた。
※
店を出た瞬間、夜風が肌に触れてひやりとした。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠のいて、ネオンの明かりが歩道のアスファルトに揺れている。
奏真が横に並んで歩く。
客やスタッフに冷やかされて散々ソワソワしていた俺は、まだ耳の奥がじんじんしていた。
けど、その中で彼はまるで平気そうに、堂々とした足取りで出口まで導いてくれた。
そして――ふいに歩みを止めると、俺の手を取った。
指先が触れ合っただけで、心臓がまた跳ね上がる。
「……陸、好きだ」
真顔。
さっきまでのホストの顔でも、優等生の顔でもない。
ただ、ひとりの男として、まっすぐに俺を見ていた。
「……っ!」
思わず声が裏返る。
顔から火が出そうになって、反射的に怒鳴っていた。
「お前、こんなところで……!」
振りほどこうとしたけど、手は離れない。
むしろ指先は強く絡められて、逃げ道を塞がれている。
街の雑踏が遠くなる。
心臓の音ばかりが近すぎて、呼吸が乱れた。
少しの沈黙。
視線を逸らしたまま、声を絞り出す。
「……俺も……」
自分でも驚くほど小さな声。
でも確かに、相手に届くくらいの音で。
奏真の口元が、ふっと緩んだ。
夜のネオンに照らされて、その笑みは柔らかく光った。
俺は慌てて顔を逸らす。
見られたら、もっと真っ赤になるのがわかっていたから。
――でも、繋いだ手は、結局最後まで離せなかった。
開店前の店内は、シャンデリアの光だけが煌めいていて、いつもより静かだった。
グラスが磨かれる音や、控えめに流れるBGM。
華やかさよりも、待機中の静けさが勝っていて、余計に緊張が増す。
「――あれ? もう客が?」
「いや、まだ開店前だろ……え? その子……」
カウンターにいたスタッフたちが、一斉にこちらを見た。
笑いを含んだ驚きの声が飛び交い、空気がざわつく。
(やっぱり来るんじゃなかった……!)
顔から火が出そうになる。俺は慌てて声を荒げた。
「ち、違う! あの、俺は別に――!」
「違わないよ」
背後から落ち着いた声が重なった。
振り返ると、そこにはスーツ姿の――奏真が立っていた。
「レオン」ではなく、奏真。
その眼差しは俺だけを真っ直ぐ見ていて、冗談の影なんてひとつもなかった。
スタッフたちが「おいおい……」と苦笑するなか、さらに奥の方から低い声が響いた。
「……なんだ、騒がしいと思ったら」
姿を現したのは年配の男だった。
髪には白いものが混じり、整ったスーツを着こなし、手には磨き終えたばかりのグラスを持っている。
視線をこちらに向けただけで、空気が一気に張りつめた。
ただ者じゃないと直感する。
「奏真。……その子は?」
刺すような問いに、背筋が凍る。
俺は反射的に口を開きかけたが、言葉が出なかった。
説明の仕方も、立場の言いようも、頭の中で絡まって解けない。
そのとき、奏真が一歩前に出た。
俺と男の間に立つようにして、はっきりと答える。
「客じゃない。俺の――大事な人です」
「……っ!」
全身が一気に熱を帯びる。
鼓動が耳の奥で爆発するみたいに鳴り響く。
年配の男は数秒こちらを見て、表情を崩さずに小さくうなずいた。
「……そうか。なら、よろしく頼む」
それだけ言って、静かに奥へと引っ込んでいった。
店内に残ったのは、スタッフたちの小さなざわめきと、俺の荒い呼吸だけだった。
「……い、今の誰だよ」
必死に小声で訊くと、奏真はわずかに笑った。
「オーナーだよ。俺の叔父さん」
「……はぁ?! 最初に言えよ!」
「言うタイミング、なかっただろ」
※
小一時間ほどして、スタッフに案内されバックヤードに移動する。
扉を閉めると、フロアのざわめきが遠ざかり、急に世界が静かになった。
狭い控室にはハンガーラックや鏡台が並んでいて、香水と整髪料の匂いが充満している。
「……お前、なんでここで働いてんの?」
ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。
奏真は椅子に腰を下ろし、ネクタイを緩めながら答える。
「親戚がやってるんだよ、ここ。時給がいいし、融通も利く。大学の学費や生活費をカバーするには、効率が良かった……てとこかな」
あまりにもあっさりした理由に、俺は拍子抜けした。
ヘビーな理由があったら俺はこいつのためにどう動けるか、なんて思っていたからだ。
「……そんな理由で、あんな……」
「バイトにしては、悪くないだろ? ハメを外しすぎることもないし」
「……っ」
悔しいことに、その堂々とした態度に言い返せなかった。
俺が勝手に抱えていた不安や嫉妬が、子供じみて見える。
奏真は少し笑って、真顔に戻る。
「でも、今日は“客”としてじゃなくて……“恋人”として陸に来てほしかった」
その言葉に、胸が締め付けられた。
からかわれているわけじゃない。
さっきまでの軽口とは違う。
まっすぐに俺を見ている。
「……二度と来ねーからな!」
気づけば声を荒げていた。
照れ隠しにしかならないのに、口から勝手に飛び出す。
奏真は笑いもせず、ただ「わかってる」と頷いた。
※
店を出た瞬間、夜風が肌に触れてひやりとした。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠のいて、ネオンの明かりが歩道のアスファルトに揺れている。
奏真が横に並んで歩く。
客やスタッフに冷やかされて散々ソワソワしていた俺は、まだ耳の奥がじんじんしていた。
けど、その中で彼はまるで平気そうに、堂々とした足取りで出口まで導いてくれた。
そして――ふいに歩みを止めると、俺の手を取った。
指先が触れ合っただけで、心臓がまた跳ね上がる。
「……陸、好きだ」
真顔。
さっきまでのホストの顔でも、優等生の顔でもない。
ただ、ひとりの男として、まっすぐに俺を見ていた。
「……っ!」
思わず声が裏返る。
顔から火が出そうになって、反射的に怒鳴っていた。
「お前、こんなところで……!」
振りほどこうとしたけど、手は離れない。
むしろ指先は強く絡められて、逃げ道を塞がれている。
街の雑踏が遠くなる。
心臓の音ばかりが近すぎて、呼吸が乱れた。
少しの沈黙。
視線を逸らしたまま、声を絞り出す。
「……俺も……」
自分でも驚くほど小さな声。
でも確かに、相手に届くくらいの音で。
奏真の口元が、ふっと緩んだ。
夜のネオンに照らされて、その笑みは柔らかく光った。
俺は慌てて顔を逸らす。
見られたら、もっと真っ赤になるのがわかっていたから。
――でも、繋いだ手は、結局最後まで離せなかった。

