恋した君は、嘘のキミ──それでも、好きにならずにいられなかった──

夜になっても、雨の匂いはまだ街に残っていた。
昼間の土砂降りはもう止んでいるのに、濡れたアスファルトがじっとりと湿り気を放っていて、風が吹くたびにその匂いが部屋の隅々にまで入り込んでくる。窓を少し開けたら、カーテンが湿った風に煽られて、あのときの傘の内側の匂いまで蘇りそうで――慌てて閉めた。

机に向かう。レポートのワードを開いても、白紙の画面がただ眩しいだけだった。キーを叩く気配は一向に訪れず、代わりに浮かぶのは帰り道の残像だ。
紺の傘。濡れた前髪。肩が触れそうな距離。
そして、ふいに思ってしまった一言。

(……かっこいい、なんて)

舌打ちをして、椅子から立ち上がる。人気のないリビングに出て冷蔵庫を開けて、冷たい水をコップに注ぐ。
一口飲んでも、喉の渇きは癒えなかった。
むしろ胃の奥が熱くなって、余計に落ち着かない。

(……違う。俺は違うんだ)

鏡の前に立ってみても、返ってくるのは寝不足で冴えない顔。
こんなやつを「好きだ」なんて、ありえるわけがない。そう自分に言い聞かせても、昼間の「覚えてる?」の声が蘇る。思い出すたびに胸の奥で何かがざわついた。

ベッドに腰を下ろし、無理やり参考書を開いて数行読んだところで、枕元に置いていたスマホが小さく震えた。

「……っ」

心臓が跳ねる。
画面に映った文字を見た瞬間、全身の血が逆流するみたいに熱を持った。

――奏真。

送信者の名前の下に、たった一文。

《話がしたい》

短い。あまりにも短すぎる。
たった五文字なのに、意味は無限に膨らんでいく。
“どんな話を?”
“今すぐに?”
“俺に対して、本気で?”

考え始めた途端、思考は収拾がつかなくなった。

(……返すか? いや、返せない。いや、返さないと……でも――)

親指が勝手に画面を押していた。
青いチェックが現れて、“既読”の二文字が残る。

「……あ」

声にならない声が漏れる。
やってしまった。取り消しなんてできない。
見てしまったという事実だけが、彼に届いてしまった。

それ以上、言葉を打つことができなかった。
「なんの話だ」と返すことも、「今は無理だ」と断ることも。
文字を打ち込もうとすれば指が止まり、消しては画面を閉じ、また開いては消す。
白い吹き出しだけがいくつも並び、空白の会話が自分を嘲笑っているみたいだった。

時計の秒針がやけに遅く見える。
部屋の中の空気が凝固して、音が全部遠くに追いやられた気がした。
窓の外で車が通る音さえ、やけに鈍く聞こえる。

「……くそ」

ベッドに倒れ込み、スマホを胸に押し当てる。
光の熱が皮膚を通して心臓にまで沁み込んでいくみたいだった。
画面を閉じても、瞼の裏にはしっかりと浮かんでいる。

――《話がしたい》

その一文。
それだけのはずなのに、意味を勝手に拡張して、俺を揺さぶってくる。

返事は書けない。
でも返さないままでは落ち着かない。
堂々巡りの中で、心臓は壊れそうな速さで暴れ続ける。

暗い部屋。
静寂の中に、光るスマホの画面だけが残る。
青白い明かりが天井を照らし、荒い呼吸と鼓動の速さを際立たせる。

目を閉じても、その光と文字は消えなかった。
いや、むしろ瞼の裏でより鮮明になって、声と一緒に迫ってきた。

《話がしたい》

――その短さが、呪いみたいに胸を支配していた。