恋した君は、嘘のキミ──それでも、好きにならずにいられなかった──

ゼミが終わった夕方の廊下は、人の出入りがまばらだった。
ほとんどの学生は正門の方へ抜けていく。部室に向かう声が遠くで響き、足音の余韻だけが廊下の壁に薄く残る。

俺はわざと、鞄をゆっくりと肩にかけ、出るタイミングをずらした。
わざと、雑誌棚の返却口にレポートを入れてから教室を出た。
偶然を避けたつもりだった。

――なのに。

廊下の角を曲がったとき、前に一人だけ人影があった。
背筋をすっと伸ばした、見慣れたシルエット。
白いシャツの背中。

「……っ」

反射的に足を止める。
来るな。追いつくな。そう心の中で繰り返す。
けれど歩みを遅くしたところで、相手もまた周囲に人がいないことに気づいたのか、ふいに振り返った。

目が合った。

その瞬間、心臓が喉元までせり上がった。
慌てて視線を逸らすが、遅い。
声が飛んできた。

「――陸」

たった一言。
それだけで足が止まってしまう。
逃げるために曲がった廊下で、今度は逃げ場がなかった。

「ちょっといいか」

落ち着いた声。
大勢の前では優等生らしく理路整然と話すのに、二人きりになるとこうして低く抑えた声を出す。
その響きが、どうしても耳の奥を震わせる。

「……俺、お前に用なんかない」
「俺にはある」

間髪入れずに返されて、背中に汗が滲む。
足を動かそうとしたが、歩幅は小さくしか出なかった。
すぐ隣まで追いつかれる。

「お前がどう思っててもいい」

歩調を合わせながら、彼は静かに言った。
顔を見なくても、真剣さが伝わってくる声だった。

「俺は――諦めない」

廊下の端に夕日が差し込んでいた。
窓ガラスに二人の影が並ぶ。
その影を見ただけで、胸がざわついた。

「……っ」

反射的に振り返る。
まっすぐな瞳が、こちらを貫いてきた。
嘘でも冗談でもない。
軽口や戯れではなく、ただ真剣に。

「……勝手にしろ!」

叫んだ声が、自分でも驚くほど荒かった。
喉が焼けるみたいに熱い。
言い捨てて足を速める。
けれど心臓の速さは足音を凌駕して、逃げ切れない。

(なんで……そんな顔で言うんだよ)

瞼の裏に焼きついて、視界のどこにも逃げ場がない。
まっすぐな視線。
押しつけでもなく、強制でもなく。
ただ「諦めない」とだけ告げた目。

足を速めても、耳の奥でその声が何度も繰り返される。
「諦めない」――諦めない――諦めない。

階段の踊り場で立ち止まった。
手すりを掴む手が震えている。
声を張り上げたせいじゃない。
心臓が暴れて、息が吸えなくなっていた。

(……何を、勝手に……!)

怒りと混乱で胸がいっぱいになる。
なのに、その奥底で別の熱が芽を出していることに、気づかないふりをするのがやっとだった。

教室を出てから十分も経たないはずなのに、時間が何倍にも膨らんだように感じられた。
夕日が沈みかけて、窓枠が赤く染まる。
その赤が胸の奥に染みて、逃げようとしても逃げられなかった。

――諦めない。

その言葉に貫かれたまま、俺は返す言葉を失っていた。