恋した君は、嘘のキミ──それでも、好きにならずにいられなかった──

掴まれた手首を振り払おうとした。
けれど――力が入らなかった。

本気で振り解けるはずなのに、腕の筋肉は固まったまま動かない。
逃げたい、そう思うほどに、逆にその場所に縫い付けられていく。
まるで手首にかけられたのが腕力じゃなく、見えない鎖だったみたいに。

「……離せ」

ようやく絞り出した声は、弱々しく掠れていた。
怒鳴りたかったのに、耳に届いた自分の声は情けないくらい震えていた。

「殴りたいなら殴ればいい」

すぐ目の前で、低い声が落ちる。
至近距離で見上げる顔は、まるで舞台の照明を一身に浴びているみたいに鮮明だった。
ネオンも街灯も大して届かない裏路地なのに、彼だけが浮き上がるように見えた。

「ただ、それでも俺の気持ちは変わらない」

その言葉が胸に突き刺さった瞬間、喉が詰まった。
睨み返してやろうとしたのに、視線をぶつけた途端、俺のほうが押し負けてしまう。
瞳の奥に迷いは一つもなかった。冗談でも、軽い口説きでもない。
ただ、揺らがない真剣さがそこにあった。

顔の距離は、吐息が触れるほど近い。
夜風が頬を冷たく撫でていくのに、その吐息だけが熱を帯びて肌に触れる。
その温度が、余計に俺の心臓を暴れさせた。

(……近すぎる。やめろ、こんな……)

必死に理性が抗うのに、身体はまるで言うことを聞かない。
胸の鼓動が強すぎて、肺に空気を吸う余裕すらない。
ただ、目の前の彼の顔ばかりが鮮明に映って、視界から逃げ場が消えていた。

「陸」

名前を呼ばれた。
それだけで、肺の奥の空気が震えた。
いつもなら不意打ちの軽口にしか聞こえなかったのに、今は全く違った。
夜の静けさを切り裂くように、その声だけが残った。

「……お前……」

必死に言葉を探した。
怒鳴りつけたいのに、出てきた声は震えて途切れた。
拒絶の言葉を並べたいのに、喉の奥で全部がつっかえて流れ出ない。

(ふざけるな……遊ばれてたんだ……違う、違うに決まってる……)

何度も言い聞かせる。
でも、今の彼の目を見てしまうと、その言葉が全部、力を失ってしまう。
まっすぐで、揺らがなくて、俺なんかを見抜くような目。
それが「嘘」だなんて、どうしても思えなかった。

拳を握ったままの手が小刻みに震える。
殴りたい。叫びたい。
でもそのどれもが実行できないまま、時間だけが過ぎていく。

静寂が重い。
遠くで車のクラクションが鳴る。
居酒屋の笑い声が、かすかに風に乗って届く。
全部、別の世界の音に思えるほど、この路地は二人きりの空気に閉じ込められていた。

至近距離で視線が絡む。
瞳孔の揺れまで読み取れるくらい近くて、逸らすことができなかった。
むしろ逸らしたら、その瞬間に負けを認めてしまう気がして、必死で見返した。

でも――心臓は、もう俺の味方をしていなかった。

「……っ」

鼓動が不自然なリズムで跳ね、息が浅くなる。
耳の奥で鳴っているのは自分の心臓なのか、相手のものなのか。
もう区別がつかない。

それでも俺たちは動かなかった。
彼は手を緩めない。俺は目を逸らせない。
互いに一歩も引かないまま、糸のように張り詰めた空気が路地を満たしていった。

――切れそうで、切れない。
――終わりそうで、終わらない。

二人の視線が絡んだまま、時間だけが冷たく流れていく。
呼吸すらも相手の吐息に支配されながら、俺はただ立ち尽くしていた。

夜風に揺れる看板の灯りが、かすかに瞬いた。
その光に照らされた彼の瞳は、やっぱり一瞬たりとも揺れなかった。

そして俺は――
この張り詰めた距離から逃げられないことを、痛いほど思い知らされていた。