恋した君は、嘘のキミ──それでも、好きにならずにいられなかった──

裏路地の空気はひんやりしているはずなのに、俺の身体は熱に浮かされていた。
壁に押し付けたままの手が汗ばんで、息が乱れる。
鼓動が耳の奥で鳴り響いて、うまく呼吸の仕方がわからない。

「ふざけんな……!」

喉の奥から声が勝手に漏れる。
もう抑えられなかった。

「俺を……からかって遊んでただけだろうが……! ゼミでも、ここでも……全部、俺を弄んでただけで……!」

言葉を吐けば吐くほど、胸の奥でぐちゃぐちゃになった感情があふれ出す。
怒りだ。羞恥だ。混乱だ。
それなのに、耳に届く自分の声は、かすかに震えていた。

そんな俺を、奏真――いや、レオンはただ見ていた。
眼鏡を外したその目は、冷静すぎて、むしろ残酷に思えるくらいで。
夜風が二人の間を抜けても、その視線は一度も逸れなかった。

「……違う」

短く、はっきりと。
迷いも逡巡もなく。
まるでそれ以外に答えはないと告げるように。

「なにが……違うんだよ! どこが違うんだよ!」

声が裏返る。
必死に否定しようとしたのに、返ってきたのは想像の外側にある言葉だった。

「……俺は」

少しだけ息を吸って、低い声が落ちる。
その一音で、夜の空気が変わった気がした。

「最初から、お前が好きだった」

時が止まった。
その言葉が空気を震わせた瞬間、脳が理解するよりも先に心臓が跳ね上がる。
耳の奥で血の音が爆ぜて、視界がにわかに滲む。

(……好き……? 最初から……? 俺を……?)

理解できない。
できるはずがない。
だって俺はただの「客」で。
桐嶋奏真は優等生で。
レオンはホストで。
全部、俺が勝手に惹かれて振り回されていただけのはずなのに。

「……な、に……言ってんだよ」

喉が詰まって、声にならない。
吐き出した言葉は頼りなく震え、足元がふらつく。

「お前なんかが、俺に惚れる理由なんか……どこにあんだよ!」

叫んだ瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
怒鳴り声の下に、自分でも認めたくない震えが潜んでいる。
それが余計に、惨めで悔しかった。

耐えきれず、拳を振り上げる。
このまま殴ってでも、この混乱を壊したい。
壊さなきゃ、自分が崩れてしまう気がした。

――その手首を、掴まれた。

「っ……!」

強くもなく、けれど逃れられない力。
手首にかかった熱が、皮膚を通して胸まで突き抜ける。
視線が絡む。
至近距離で見つめ返すその目には、冗談も、虚飾も、なにもなかった。

「陸」

名前を呼ばれただけで、呼吸が浅くなる。
逃げたいのに逃げられない。
怒鳴りたいのに声が出ない。
鼓動が不自然なリズムで跳ね、息がどこにも落ち着かない。

次の瞬間、掴んでいた手首が引かれた。
身体がバランスを崩した勢いで、彼との距離が一気に詰まる。
壁と彼の体温に挟まれて、逃げ場がなくなる。

唇が、触れた。

ほんの一瞬。
でも確かに触れた。
夜の冷たい空気の中で、それだけが熱を持っていた。

世界が一瞬、白く弾けた気がした。
耳鳴りのような心臓の音だけがやけに大きくて、何も考えられない。
ただ、その熱が確かにここにあることだけは理解してしまった。

目を見開いたまま固まる俺を前に、彼はわずかに微笑んだ。

「……これでも、まだ遊びだって思う?」

低い声が鼓膜を震わせる。
挑発ではなく、ただ事実を告げるように。

言葉を返せなかった。
胸の奥で、怒りと困惑と――どうしようもない熱が渦を巻いていた。

夜風が路地を抜ける。
冷たい風と、唇に残る余韻とが、どうしようもなく対照的で。
俺はただ、呼吸を乱したまま、その場に立ち尽くすしかなかった。