授業を終えても、ノートを閉じても、頭の奥は妙にざわついたままだった。
昨日の夜に見た、赤く腫れた手の甲。
庇ってくれたレオンの仕草が、やけに鮮明に残っていた。

そして今日、大学の廊下で見た――奏真の右手。
同じ場所に、同じ赤み。

「……偶然、だよな」

つぶやいた声は、自分の耳にさえ頼りなく響いた。
ありえない、と何度も思う。
でも頭の中では、これまでの断片的な記憶が勝手に連結しはじめる。

――低く囁いた「俺だけ見てよ」という声。
――ゼミのときの、無駄に真剣な眼差し。
――怪我を手当してくれたときの、触れ方のやさしさ。

全部が、同じ響きを持ってよみがえってくる。

(……いや、違うだろ。あいつが……そんな)

必死で否定する。
だって桐嶋奏真は、学内でも有名な優等生だ。
成績は常に上位、教授たちの信頼も厚い。
冷静で、皮肉屋で、でも真面目にやるべきことはきちんとこなす。

――そんな人間が、夜はネオン街のホストとして笑っている?

馬鹿げてる。
そんな二重生活、ドラマの脚本じゃあるまいし。

でも。

(昨日の手の痕は……?)

どうしても説明がつかない。
偶然で片付けるには、あまりに出来すぎている。

ノートの端を握りしめながら、俺は深く息を吐いた。
否定しても、心臓だけは勝手に速さを増していく。
逃げ場がない。



その日の夜。
バイトがなかったせいか、足が勝手に動いていた。
気を紛らわせようと歩いたはずが、気づけば駅前の人波を抜け、見慣れたネオンの並ぶ通りにいた。

(……なんで、ここに来てんだよ俺は)

自分で自分に呆れる。
でも、歩みは止まらなかった。
答えなんて欲しくないのに、確かめずにいられなかった。

角を曲がった先、視線が勝手に吸い寄せられる。
例のホストクラブの看板。
派手な光の下で、ガラス扉が人の出入りに合わせて静かに揺れていた。

(帰れ……帰れって……)

心の中で叫ぶ。
でも足は、店の前に釘付けになった。

――そして。

見えた。

人波の隙間を抜けて、ガラス扉の前に立った人影。
眼鏡を外し、シャツの襟元を少し崩した私服姿。
それでも一目でわかる。

「……奏真」

喉から、掠れた声が漏れた。

彼は一瞬だけ周囲を見回した。
慎重に、しかし落ち着いた仕草で。
そして――何のためらいもなく、ドアに手をかける。

カラン、とベルの音。
夜の喧騒に紛れて、それだけがやけに鮮やかに響いた。

頭の中で、何かが砕ける音がした。

「…………」

声にならない。
喉が張りつき、呼吸すら浅くなる。

昨日まで「偶然」と言い聞かせていたものが、一瞬で形を変える。

あの手の痕。
あの声。
あの仕草。

全部、同じ線の上に繋がった。

(やっぱり……そうなのか)

拳を握りしめる。

(いや……違う、違うだろ……!)

否定と確信が、頭の中でぐるぐると回る。
爪が掌に食い込む。
それでも痛みなんて感じない。
ただ、目の前の現実だけが残酷に鮮明だった。

奏真の背中は、ネオンの光に溶けて、ドアの向こうに消えていった。
夜風が吹き抜け、残された俺の身体だけが取り残される。

胸の奥で鳴る音が、鼓動なのか耳鳴りなのか、もうわからなかった。
ただ一つ確かなのは――。

俺は、もうその現実から目を逸らせなくなってしまった。