ホストクラブの空気は、照明の加減も音楽のリズムも、すべてが「非日常」を演出している。
それはもう慣れたはずなのに、こうしてまた席に座ると、どこか現実感が薄れてしまう。
グラスの中の氷がほどけて、小さく音を立てた。
「……大丈夫?」
ふいにかけられた声に、我に返る。
目の前には、いつものレオン。白いシャツの袖を少しまくり、ゆったりとこちらを見ている。
低く柔らかな声に応じようとして、立ち上がりかけた瞬間――。
「あっ」
足元がふらついた。
グラスを取りに伸ばした体勢のまま、ソファの角に膝がぶつかりそうになる。
「危ない」
咄嗟に伸ばされた手。
次の瞬間、俺の肩がぐいと引き寄せられた。
その反動で、レオンの手の甲がソファの木枠に「ゴン」とぶつかる。
乾いた鈍い音がして、俺は思わず顔をしかめた。
「っ、大丈夫かよ!」
「平気。君が怪我しなきゃ、それでいいから」
レオンは笑って見せたけれど、手の甲にはうっすら赤い痕が浮かび始めていた。
白いシャツの袖口からのぞく手首のあたりまで、わずかに腫れが広がっている。
「いや、平気って……赤くなってるし」
「これくらい、すぐ消えるよ。ね、座って」
さらりと流される。
でも、気づけば俺の視線はその赤みに釘付けになっていた。
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
どうして庇ったほうが怪我して、俺は何もなかったんだろう。
妙に不公平な気持ちと、申し訳なさと、混ざり合った感情が渦を巻く。
(……俺のために)
言葉にならない思いが、喉の奥で絡まる。
俺が転びかけたせいで、レオンは庇って――自分の手を打ちつけた。
その痕が、赤く腫れて残っている。
(痛いはずだろ、これ……)
じっと見つめてしまった俺に気づいたのか、レオンはふっと笑って手を隠した。
「ほら、ほら。あんまり気にすると、俺が照れるよ」
「……っ、気にするに決まってんだろ!」
声を荒げた自分に驚いた。
レオンは、ただ楽しそうに目を細めただけだった。
その笑顔の意味を測りかねたまま、その夜は終わった。
翌日。
大学の廊下は、昼のざわめきに包まれていた。
俺はゼミ室に向かう途中、ノートを抱えた桐嶋奏真とすれ違った。
「……」
その瞬間、呼吸が止まった。
視界に飛び込んできたのは――。
彼の右手の甲。
そこに、赤い痕があった。
昨日、レオンの手に見たものとまったく同じ場所に。
「……え」
声にならない声が漏れそうになった。
慌てて飲み込む。
奏真は何事もない顔で歩いていく。
眼鏡の奥の瞳は冷静で、いつもの優等生そのものだ。
でも、その右手の赤みは確かに存在していた。
(偶然……? いや、そんな偶然……あるか?)
昨日の光景が脳裏によみがえる。
庇ってくれた瞬間。
テーブルにぶつかる鈍い音。
そして赤く腫れた手の甲。
(でも、そんなはず――)
頭を振る。
違う、違うと必死に否定する。
だが、胸の奥のざわつきは増すばかりだった。
――まさか。
その三文字が、心の奥に静かに落ちる。
「…………」
奏真の背中が廊下の人混みに消えていく。
俺は立ち尽くしたまま、手の中のプリントを握りしめていた。
紙の端が指に食い込み、痛みが走る。
それでも、その痛みさえも薄れていく。
胸のざわめきのほうがずっと大きかったから。
(……どういうことだよ、これ)
頭の中で否定と疑念がぐるぐる回る。
けれど、赤い痕は幻じゃない。
俺が見間違えるはずもない。
拳を握る。
その感触だけが現実を繋ぎとめていた。
視線の奥に、まだ鮮やかに残る赤。
それが胸のざわめきを、さらに大きくしていった。
それはもう慣れたはずなのに、こうしてまた席に座ると、どこか現実感が薄れてしまう。
グラスの中の氷がほどけて、小さく音を立てた。
「……大丈夫?」
ふいにかけられた声に、我に返る。
目の前には、いつものレオン。白いシャツの袖を少しまくり、ゆったりとこちらを見ている。
低く柔らかな声に応じようとして、立ち上がりかけた瞬間――。
「あっ」
足元がふらついた。
グラスを取りに伸ばした体勢のまま、ソファの角に膝がぶつかりそうになる。
「危ない」
咄嗟に伸ばされた手。
次の瞬間、俺の肩がぐいと引き寄せられた。
その反動で、レオンの手の甲がソファの木枠に「ゴン」とぶつかる。
乾いた鈍い音がして、俺は思わず顔をしかめた。
「っ、大丈夫かよ!」
「平気。君が怪我しなきゃ、それでいいから」
レオンは笑って見せたけれど、手の甲にはうっすら赤い痕が浮かび始めていた。
白いシャツの袖口からのぞく手首のあたりまで、わずかに腫れが広がっている。
「いや、平気って……赤くなってるし」
「これくらい、すぐ消えるよ。ね、座って」
さらりと流される。
でも、気づけば俺の視線はその赤みに釘付けになっていた。
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
どうして庇ったほうが怪我して、俺は何もなかったんだろう。
妙に不公平な気持ちと、申し訳なさと、混ざり合った感情が渦を巻く。
(……俺のために)
言葉にならない思いが、喉の奥で絡まる。
俺が転びかけたせいで、レオンは庇って――自分の手を打ちつけた。
その痕が、赤く腫れて残っている。
(痛いはずだろ、これ……)
じっと見つめてしまった俺に気づいたのか、レオンはふっと笑って手を隠した。
「ほら、ほら。あんまり気にすると、俺が照れるよ」
「……っ、気にするに決まってんだろ!」
声を荒げた自分に驚いた。
レオンは、ただ楽しそうに目を細めただけだった。
その笑顔の意味を測りかねたまま、その夜は終わった。
翌日。
大学の廊下は、昼のざわめきに包まれていた。
俺はゼミ室に向かう途中、ノートを抱えた桐嶋奏真とすれ違った。
「……」
その瞬間、呼吸が止まった。
視界に飛び込んできたのは――。
彼の右手の甲。
そこに、赤い痕があった。
昨日、レオンの手に見たものとまったく同じ場所に。
「……え」
声にならない声が漏れそうになった。
慌てて飲み込む。
奏真は何事もない顔で歩いていく。
眼鏡の奥の瞳は冷静で、いつもの優等生そのものだ。
でも、その右手の赤みは確かに存在していた。
(偶然……? いや、そんな偶然……あるか?)
昨日の光景が脳裏によみがえる。
庇ってくれた瞬間。
テーブルにぶつかる鈍い音。
そして赤く腫れた手の甲。
(でも、そんなはず――)
頭を振る。
違う、違うと必死に否定する。
だが、胸の奥のざわつきは増すばかりだった。
――まさか。
その三文字が、心の奥に静かに落ちる。
「…………」
奏真の背中が廊下の人混みに消えていく。
俺は立ち尽くしたまま、手の中のプリントを握りしめていた。
紙の端が指に食い込み、痛みが走る。
それでも、その痛みさえも薄れていく。
胸のざわめきのほうがずっと大きかったから。
(……どういうことだよ、これ)
頭の中で否定と疑念がぐるぐる回る。
けれど、赤い痕は幻じゃない。
俺が見間違えるはずもない。
拳を握る。
その感触だけが現実を繋ぎとめていた。
視線の奥に、まだ鮮やかに残る赤。
それが胸のざわめきを、さらに大きくしていった。

