昼下がりのキャンパスは、春から初夏へ移ろう匂いをまとっていた。
中庭に面したベンチには、のんびりと昼食を広げる学生もいれば、参考書を開いたまま居眠りしている者もいる。
その中で、俺はプリントを抱えたまま立ち止まってしまった。

――視界の端に、桐嶋奏真の姿があったからだ。

カーディガンを肩に掛け、ベンチの背もたれに軽く体を預けている。
その隣には、見覚えのない女の子。
同じゼミか、サークルの後輩かもしれない。
彼女が何かを話すと、奏真は笑って頷いていた。
眼鏡の奥の目尻が、いつもより柔らかく見える。

(……なんだよ、これ)

胸の奥が、不意にざわついた。
別にどうでもいいはずだ。
俺とあいつの関係なんて、ただの同級生。
多少口をきいて、多少助けられて、多少からかわれて。
それ以上でも、それ以下でもない。

……はずなのに。

「……なんで、俺が気にしてんだよ」

声にならない呟きが、喉の奥で燻る。
気づけば、足が止まっていた。
プリントを持った手に、知らないうちに力がこもる。
紙の角が指先に食い込んで、痛みがじわりと広がる。

(見なきゃいいだろ。歩けばいいだけなのに)

そう思っても、視線は勝手に彼らを追っていた。
笑い合う声が、風に乗って断片的に耳に届く。
そのたびに、胸の奥で針が小さく刺さるみたいな感覚が走った。

そして――奏真がふっと笑った瞬間。

(……っ)

時間が一瞬だけ止まったように感じた。
その笑顔が。
つい昨夜、店の照明の下で見た、レオンの笑顔に重なったのだ。

柔らかさも、目尻の角度も、光を反射する仕草さえも。
頭が勝手に二人の輪郭をなぞり合わせる。

(似てる……? いや、そんな……まさか……)

鼓動が速くなる。
手の中のプリントがしわを作るほど握り込まれる。

「……あれ、奏真くん。あの人、友達?」

女の子の声が、中庭のざわめきに混じって届いた。
俺の方を見たような気がして、心臓が跳ねた。

奏真はちらりとこちらを見て――軽く笑って言った。

「まあ、そうかな」

何でもない調子。
いつもの無表情に近いのに、なぜか突き放されたような響きに聞こえた。

(……「まあ、そうかな」)

その曖昧な一言が、胸に小さな痛みを落とす。
ほんの針先ひとつぶんの痛みが、じわじわと広がっていく。

「……なんなんだよ、俺……」

自分でも意味がわからない。
ただの同級生だろう?
それ以上でも以下でもない。
レオンと重ねる必要なんて、どこにもない。
似ているはずがない。似ていたら困る。似ていたら――。

(いや、まさか。本当に……?)

頭の中で問いが渦を巻く。
答えは出ないのに、否定の声だけが無理に大きく響く。

俺は気づかれないように足を速めた。
ベンチを背にして歩き出す。
けれど、胸の奥でざわめきは収まらない。
むしろ歩けば歩くほど、痛みが濃くなる。

中庭を抜けて校舎の影に入ったとき、深く息を吐いた。
息が白くならないのが不思議なくらい、胸の奥は冷えているのに、同時に熱を帯びていた。

――レオンの笑顔。
――奏真の笑顔。

本当に、似ていたのか?
人の顔ってどう判断するっけ?
声。そう奏真の声はどんなんだった?
さっき聞いたのに、どうしても頭の中で繰り返せない。
レオンと似てるのか似てないのか。
それとも、俺の心が勝手に似せたのか?

わからない。
わからないからこそ、余計に苦しい。

(……なんなんだよ、俺……)

そう繰り返しても答えは出なかった。
ただ胸の奥で、痛みだけが確かに残っていた。