店の照明は、週の真ん中にしては落ち着いていた。
フロアの奥で派手な笑い声が響いているけれど、俺とレオンの席だけは、不思議と音の膜に包まれているみたいに静かだ。
グラスに立ち昇る氷の曇りが、かすかに光を滲ませていた。

「疲れてない?」

向かいのレオンが柔らかく訊ねる。
その声に返事をする前に、俺は視線を落とした。
氷の音がかちり、と鳴る。
気づけば、さっきからまともに彼の目を見られていない。

(……なんだ、この空気……)

会話をしているのに、沈黙が混ざっているみたいで落ち着かない。
息を整えようとグラスに手を伸ばすと、指先がわずかに震えて、水滴が冷たく張りついた。

「陸くん」

名を呼ばれると、それだけで身体が反応する。
顔を上げると、彼の目が真っすぐにこちらを射抜いていた。
冗談も軽口もない。
ただ真剣で、逃げ場を塞ぐ視線だった。

「俺のこと……もっと知って」

言葉が落ちてきた瞬間、心臓が大きく鳴る。
営業だろ、と思う声と、本気かもしれない、と思う声が胸の中で殴り合う。
どっちを信じればいいのかわからない。

「……知って、どうするんだよ」

掠れた声で返すのがやっとだった。
するとレオンは微笑みをほんの少しだけ崩して、低く囁く。

「どうするかは、君が決めていい」

(決めていいって……そんなこと言われても)

返事を探す前に、レオンの手が伸びてきた。
グラスを置く動作のように自然で、それでいて逃げ道を奪うほど滑らか。
次の瞬間、俺は背もたれごと軽く押され、視線がふっと遮られた。

「――っ」

通路から少し外れた、照明の影。
誰もこちらを気にしない場所に、いつの間にか追い込まれていた。
顔が近い。息がかかるほどの距離。

「……な、なに……」

声が震える。
言葉は抗議のつもりなのに、音が弱すぎて、自分でも笑えてくる。

レオンは答えなかった。
その代わりに、静かに顔を寄せてきた。
唇が触れるか触れないかの距離で止まり、低い声が落ちる。

「逃げないんだね」

(逃げ……? いや、だって、動けないし……)

喉の奥で反論を探すけど、声にならない。
むしろ、逃げるチャンスはいくらでもあったのに、俺は一歩も動かなかった。
それに気づいた瞬間、胸が苦しくなる。

「……っ」

言葉が出ないまま固まっていると、レオンはわずかに目を細め、そっと触れるだけの口づけを落とした。
ほんの一瞬。
それでも時間が止まったみたいに長く感じられる。

触れた唇よりも、触れる直前の空白に、全身が支配されていた。
呼吸を忘れて、鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。

離れるとき、彼は笑わなかった。
真剣なままの目で、俺を見つめていた。

「もっと知ってほしいんだ、俺のこと」

同じ言葉なのに、さっきよりもずっと近く、重い響きだった。
営業トークなんかじゃない、と脳が勝手に断定する。
だけど「本気」だと信じてしまったら、俺はもう戻れなくなる。

「……俺は」

声が震える。
否定したいのに、できない。
肯定する勇気もない。
喉の奥で言葉がぐるぐる回って、何も外に出てこない。

レオンは、そんな俺の迷いを見透かしたように、ふっと口角を上げた。
優しい笑みだけれど、どこかで待っている顔だ。

「答えは急がなくていい」

指先が、テーブルに置いた俺の手の横をすり抜ける。
触れないまま、ぎりぎりをなぞる距離。
その空気の揺らぎに、胸の奥がまたざわつく。

「でも――忘れないで。俺は君の答えを待ってる」

その言葉が落ちた瞬間、店の喧騒が一気に戻ってきた。
他の客の笑い声、グラスの音、掛け声。
けれど俺の耳には、目の前の声だけが鮮明に残っていた。

(……待ってる? 本気で、俺の答えを?)

心臓が騒がしく打ち続ける。
逃げたいのに、逃げられない。
信じたいのに、信じてはいけない。

――「もっと知って」

その響きが、泡のように胸に広がって、消えてくれなかった。