午後の教室は、昼下がりの光がカーテンの隙間から差し込んで、板書の白いチョークの粉を浮かび上がらせている。
ゼミの発表準備のためにプリントを集めに行った俺は、紙の束を慌ただしく抱えた拍子に、指先を鋭く走る痛みに顔をしかめた。
「……っ」
紙で切ったようだ。
不思議なもので些細な傷なのに、じんわりと赤が浮かび上がると、妙に痛みが増す気がする。
慌てて親指を口にあてようとした瞬間――。
「おい、なにしてんだ」
振り向くと、そこに桐嶋奏真が立っていた。
眼鏡越しの視線が、俺の指先をすぐに捉える。
「……別に。ちょっと切っただけで」
「見せろ」
「いや、いいって。こんなの自分で――」
言いかけたときには、もう腕を取られていた。
奏真の手は迷いがなく、逃げようとする俺の動きをあっさりと封じる。
鞄の中からすぐに取り出されたのは、小さな救急ポーチ。
そこにきちんと整理された絆創膏と個別包装された消毒綿が収まっていた。
「……なんでそんなの持ち歩いてんだよ」
「常備品。お前がどんくさいの、前から知ってたから」
淡々とした声なのに、言葉の端にわずかな棘がある。
確かに、この完璧男からすれば俺は鈍臭い部類に入るのはわかるが……てか、俺のために持っていたわけじゃないだろ。
視線を逸らした俺の前で、奏真は絆創膏を器用に剥がし、俺の手を軽く取った。
「動くな」
低く落ち着いた声。
反射的に身体が硬直した。
ほんの数秒前まで紙で切った痛みに顔をしかめていたのに、今はその痛みよりも、指先に触れている温度に意識が全部持っていかれていた。
教室の窓の外では、運動部の掛け声が遠くに響いている。
その音がやけに遠くに感じるほど、この小さな空間だけが切り取られてしまったみたいだった。
「……だから、自分でできるって……」
「下手に動かすと余計に沁みる。黙ってろ」
ぐ、と息が詰まる。
命令形で言われると反発したくなるのに、不思議と逆らえなかった。
眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、からかいの色なんて微塵もない。
その視線に射抜かれると、余計な抵抗は全部飲み込まれてしまう。
絆創膏がそっと指先に巻きつけられる。
消毒液の匂いと一緒に、微かな体温が皮膚に残る。
たったそれだけのことなのに、胸の奥で心臓が不自然なリズムを打ち始めていた。
「はい、できた」
包帯を軽く押さえながら、奏真が言う。
最後に親指で押さえたその感触が、妙に長く残った。
ほんの一瞬なのに、脳が勝手に別の記憶を呼び出す。
――髪を撫でられた夜。
――膝枕のぬくもり。
――手を取られて「俺だけ見てよ」と囁かれたあの瞬間。
(……やめろ、重ねんな)
心の中で叫ぶのに、視界は勝手に二人の輪郭を並べてしまう。
「桐嶋奏真」と「レオン」が、一瞬で同じ人物に見えてしまった。
表情や声の調子までが重なって、呼吸が浅くなる。
「……なに固まってんだよ」
奏真の声に我に返った。
慌てて手を引こうとするけれど、包帯の上から押さえられたまま逃げられない。
その距離の近さに、また息が詰まる。
「べ、別に。なんでもないから……!」
「そう」
短く返したあと、ようやく指が離された。
自由になった手を抱えるようにして胸の前に戻すと、体温がまだ指先にこびりついている。
脈打つ感覚が、今の触れ方を繰り返し思い出させる。
「……ありがと」
「気にしなくていい。……ほっとけなかっただけだ」
言葉はあっさりしているのに、その声は妙に低くて、耳の奥でいつまでも残った。
心臓の速さを隠そうとしても、きっと顔に出ている。
そんな自分が悔しいのに、どうしようもなかった。
廊下に差し込む光が、奏真の横顔を一瞬だけ照らす。
その笑みが、またレオンに重なって見えて――俺は慌てて視線を逸らした。
(……なんで、似て見えるんだよ)
胸の奥のざわつきは、絆創膏よりもずっと深く沁みていた。
ゼミの発表準備のためにプリントを集めに行った俺は、紙の束を慌ただしく抱えた拍子に、指先を鋭く走る痛みに顔をしかめた。
「……っ」
紙で切ったようだ。
不思議なもので些細な傷なのに、じんわりと赤が浮かび上がると、妙に痛みが増す気がする。
慌てて親指を口にあてようとした瞬間――。
「おい、なにしてんだ」
振り向くと、そこに桐嶋奏真が立っていた。
眼鏡越しの視線が、俺の指先をすぐに捉える。
「……別に。ちょっと切っただけで」
「見せろ」
「いや、いいって。こんなの自分で――」
言いかけたときには、もう腕を取られていた。
奏真の手は迷いがなく、逃げようとする俺の動きをあっさりと封じる。
鞄の中からすぐに取り出されたのは、小さな救急ポーチ。
そこにきちんと整理された絆創膏と個別包装された消毒綿が収まっていた。
「……なんでそんなの持ち歩いてんだよ」
「常備品。お前がどんくさいの、前から知ってたから」
淡々とした声なのに、言葉の端にわずかな棘がある。
確かに、この完璧男からすれば俺は鈍臭い部類に入るのはわかるが……てか、俺のために持っていたわけじゃないだろ。
視線を逸らした俺の前で、奏真は絆創膏を器用に剥がし、俺の手を軽く取った。
「動くな」
低く落ち着いた声。
反射的に身体が硬直した。
ほんの数秒前まで紙で切った痛みに顔をしかめていたのに、今はその痛みよりも、指先に触れている温度に意識が全部持っていかれていた。
教室の窓の外では、運動部の掛け声が遠くに響いている。
その音がやけに遠くに感じるほど、この小さな空間だけが切り取られてしまったみたいだった。
「……だから、自分でできるって……」
「下手に動かすと余計に沁みる。黙ってろ」
ぐ、と息が詰まる。
命令形で言われると反発したくなるのに、不思議と逆らえなかった。
眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、からかいの色なんて微塵もない。
その視線に射抜かれると、余計な抵抗は全部飲み込まれてしまう。
絆創膏がそっと指先に巻きつけられる。
消毒液の匂いと一緒に、微かな体温が皮膚に残る。
たったそれだけのことなのに、胸の奥で心臓が不自然なリズムを打ち始めていた。
「はい、できた」
包帯を軽く押さえながら、奏真が言う。
最後に親指で押さえたその感触が、妙に長く残った。
ほんの一瞬なのに、脳が勝手に別の記憶を呼び出す。
――髪を撫でられた夜。
――膝枕のぬくもり。
――手を取られて「俺だけ見てよ」と囁かれたあの瞬間。
(……やめろ、重ねんな)
心の中で叫ぶのに、視界は勝手に二人の輪郭を並べてしまう。
「桐嶋奏真」と「レオン」が、一瞬で同じ人物に見えてしまった。
表情や声の調子までが重なって、呼吸が浅くなる。
「……なに固まってんだよ」
奏真の声に我に返った。
慌てて手を引こうとするけれど、包帯の上から押さえられたまま逃げられない。
その距離の近さに、また息が詰まる。
「べ、別に。なんでもないから……!」
「そう」
短く返したあと、ようやく指が離された。
自由になった手を抱えるようにして胸の前に戻すと、体温がまだ指先にこびりついている。
脈打つ感覚が、今の触れ方を繰り返し思い出させる。
「……ありがと」
「気にしなくていい。……ほっとけなかっただけだ」
言葉はあっさりしているのに、その声は妙に低くて、耳の奥でいつまでも残った。
心臓の速さを隠そうとしても、きっと顔に出ている。
そんな自分が悔しいのに、どうしようもなかった。
廊下に差し込む光が、奏真の横顔を一瞬だけ照らす。
その笑みが、またレオンに重なって見えて――俺は慌てて視線を逸らした。
(……なんで、似て見えるんだよ)
胸の奥のざわつきは、絆創膏よりもずっと深く沁みていた。

