昼休みが終わった直後の廊下は、人の波がちょうど入れ替わる時間で、騒がしさと静けさの境目みたいな空気をまとっていた。
俺は次の教室へ向かう途中で、プリントの束を小脇に抱えて歩いていた。昨夜の記憶をなるべく思い出さないようにしながら。

――膝枕。
柔らかい温度と、髪を撫でる手。あの瞬間を思い出しかけるたびに心臓が勝手に跳ねるから、考えたくなくても勝手に思い出してしまう。

「……陸」

名前を呼ばれて足が止まった。振り向けば、桐嶋奏真。
眼鏡を押し上げる仕草のまま、じっと俺を見ている。

「え、なに」
「……その匂い、どこでつけた?」

一瞬、意味がわからなかった。
匂い? 俺は香水なんてつけない。シャンプーだって普通のやつ。けれど、昨日の夜――レオンがすぐ耳元に寄ってきたとき、確かに香りをまとっていた。深くて甘い、柑橘が混ざったような大人の匂い。

(やば……これ、残ってんのか? あの店の匂い……!)

「……別に、なんも」
「ふぅん」

短く息を吐くように笑って、奏真はそれ以上追及しなかった。
ただ、そのまま歩き出す背中は、どこか含みを残しているように見えてならない。

(こいつにホストクラブ通いなんてバレたら……絶対からかわれる。俺のこと一生ネタにしてくる……!)

余計に鼓動が早くなって、プリントを抱える手に力が入った。

夕方はバイトだ。
俺は実家がとりたてて裕福というわけでもない、普通の学生。
ホストクラブに行くとなれば、絶対的に必要なのは金なわけで……。

とはいえ助かるのは、レオンには「ボトル入れて」とか「もっと飲め」とかを求められないことだ。
おかげさまで、俺は最低料金でなんとか通わせてもらっている。

――でも、ゼロじゃない。
結局、金はいる。だからバイトに勤しむ。

俺のバイト先は駅前の小綺麗なカフェ。
白シャツにエプロンを結ぶと、学生じゃなく「店員」になれるのが少しだけ心地いい。
注文を取る声、コーヒー豆の香り、エスプレッソマシンの蒸気音。
そういう日常に紛れていると、昨夜のことを思い出す暇もない――はずなのに。

制服のシャツを着てカウンターに立ち、レジを打ちながら注文を取る。
大学の延長みたいな空間なのに、仕事モードに入っていると少しだけ落ち着く……はずだった。

ドアのベルが鳴る。
ふと顔を上げると、見慣れた髪の色とシルエットが視界に入った。

――レオン。

「……っ」

思わず息を飲んだ。
彼はカウンター席に座り、いつもの大人びた笑顔でこちらを見た。仕事中の俺を知っているはずがないのに、その目はまるで見透かしているみたいだ。

「アイスコーヒー、お願いします」
「……はい」

声が震えたのをごまかしながらレジを打つ。指先がぎこちなくなって、硬貨を一つ落としそうになった。

ドリンクを渡したとき、レオンの指が一瞬だけ俺の手に触れた。
それはきっと偶然……のはずなのに。

「制服、似合ってるね」

低く、柔らかな声。
それだけで胸の奥がざわつく。仕事中なのに、心臓が喉までせり上がってくる。

(……やばい。心臓が飛び出そう。これ、絶対顔に出てる……!)

慌てて目を逸らし、ありがとうございます、と手短に告げてカウンターの奥へ戻った。
けれど視線の端で、レオンが微笑みながらストローをかき混ぜる様子が見える。
氷がグラスの内側で小さく鳴って、昨日の夜の記憶と重なった。

(まさか、こんなところで……!)

休憩室の小さな鏡を覗くと、顔がほんのり赤い。
熱のせいなのか、動揺のせいなのか。
映る自分の表情が、知らない誰かの顔みたいで落ち着かない。

「顔に出過ぎだろ……」

こんなことだから、奏真にもからかわれるのかもしれない。

(……奏真にバレたくない。絶対に。……でも、レオンにも……惹かれてるのを気づかれたくない……)

二種類の「バレたくない」が、胸の中でごちゃ混ぜになって息を詰まらせる。
制服のポケットでスマホが小さく震えた。

画面を開けば――やっぱり。

“LEON(☆):バイト終わったら、少し会えない?”

喉が鳴った。
逃げ場のない夜が、また近づいている。