昼休みの広輝との会話が、午後になっても頭から抜けなかった。
「お前、レオンに気に入られてるだろ」――その冗談半分の声が、講義の間じゅうノートの隅にこびりついている。
黒板の文字を写す手も、いつの間にか止まり、目はページの罫線を追いながら、別の光景を思い浮かべていた。

(次、いつ会える? ……って)

スマホの小さな画面に浮かんだ短い文字列が、今も視界の端にちらつく。
胸の奥がじわりと温かくなると同時に、理由のわからない息苦しさが押し寄せた。
手のひらの内側に、じっとりと汗が滲む。

チャイムが鳴り、学生たちが一斉に立ち上がる。
椅子が床を引きずる音や、鞄のチャックを開け閉めする音が一気に重なって、教室の空気がざわめきで満たされていく。
俺も教科書とプリントを鞄に押し込み、出口に向かった――その瞬間。

「……あ」

ドアの前で、桐嶋奏真と鉢合わせた。
白シャツの袖を肘まで軽くまくり、片手にファイルを抱え、もう片方の手はポケットに。
いつもの冷静な目。なのに、その視線が俺にだけ真っすぐ向けられた瞬間、心臓がわずかに跳ねた。

「授業終わりか」
「……まあ、うん」

短いやり取りのあと、すれ違おうとしたときだった。
俺の鞄からはみ出していたプリントの束がするりと滑り落ち、廊下の床にパラパラと広がった。

「あ」

しゃがみ込もうとすると、同時に奏真も腰を下ろす。
伸ばした手が俺の指先とぶつかる。

一瞬、触れた。
ほんの一秒にも満たないはずなのに、指の皮膚から脳までが一気に熱を帯びる。
その感覚は、冷たい金属に触れたときのような鮮烈さで、思考を切り裂いた。

「……顔、赤いな」

近い。
視線を横にずらすと、ほんの数十センチ先にあの顔があった。
息を吸えば、洗い立てのシャツの清潔な匂いがかすかに混じる。
低く、落ち着いた声が、胸板を通してじかに響いてくる。

「……暑いだけだよ」

わざとそっぽを向き、プリントを引き寄せる。
が、奏真は手を放さない。
俺の指ごと、紙の端を軽く押さえたまま、目を細めた。

「そう? でも手、冷たい」

(……やめろよ、そんなこと言うな)

不意に言葉を失ってしまう。
紙を返してくれそうになったはずなのに、立ち上がるとき、奏真は俺の腕を軽く引いた。
わずかな力加減で、自然に距離が詰まる。肩先が触れ、そこからじんわりと体温が伝わってくる。

「じゃあ、熱中症気をつけろよ」

さらっと言い残し、何事もなかったように廊下に出ていく。
その背中は相変わらずまっすぐで、振り向きもしない。

手のひらには、さっきまであった指先の感触がまだ残っている。
微かにひやっとしたのに、内側は熱くて落ち着かない。
胸の奥がざわめき、思わず深く息を吐く。

(……今の声……)

記憶の底から引きずり出されるように、あの夜の光景が蘇る。
耳元で囁かれた低い声の高さと、あまりにも似ていた。

(……似てた……? いや……まさか)

紙の束を抱え直す。
けれど、その鼓動の速さは、簡単には戻らなかった。