遠いあの日の約束


 刻一刻と最悪な出来事が近付きつつあることなど、この時はまだ誰も知ることはなく。

「キャメル、今日は星がいつにも増して、綺麗だな」

 船長室の部屋の窓から見える夜の空を見上げながら、アルディニック号の船長であるオズワルドは、船アルディニック号の設計を担当した設計士のキャメルにそう声を掛ける。

「そうですね。無事、この船の初出航を迎えられて、本当に良かったですよ」
「君の設計した船は、私の理想そのものだった。ありがとう。キャメル」

 船長であるオズワルドに感謝の気持ちを伝えられたキャメルは優しい笑みを浮かべながら頷き返す。

「いえいえ、私もこの船を設計した身として、これからのこの船の行く末を、見届けたいと思っておりますよ」
「ああ、じゃあ、今日という日を祝福して、一杯やるか?」

 オズワルドはテーブルの上に置いてあったウイスキーを手に持ち、キャメルを誘う。

「はは、船長。私はあまりお酒が強い方ではないので、お手柔らかにお願いしますね」
「ああ、了解だ」



「今日は、星がよく見えるわね。とても綺麗だわ」
 
 アンジェラは静かな夜の空の下、独り言のように呟き、懐かしく感じられる過去の思い出を振り返り始める。

 あの頃は幸せだった。
 娘が生きていたあの頃は全てが幸せで満ち溢れていた。けれど、そんな幸せは長くは続かなかった。

 あの日、友達と遊ぶ約束をしていた娘は昼前に家を出て行った。
 娘を送り出したあの時の私は、まさか娘が事故に遭って、そのまま帰らぬ人になるなんて、思いもしなかった。

 そして、私はあの日から自分のことを責め続けて生きてきた。そうしないと悲しみに飲み込まれてしまいそうだったから。
 けれど、あの娘はきっと。

「そんな私を望んではいないわよね」

 もう、辞めよう。

 あの日のことをいつまでも引きずり続けて、悲しむことも、何も出来なくなる程に、暗い闇の中に居続けることも。
 あの娘はきっと、こんな私を望んでなんていない。

「やっぱり、一人はいいわね。一人だと気付くことも沢山あるわ」



「夜の海は静かで、少し不気味だけど、今日は星が綺麗に見えるから、静かな海も悪くないよな」
 
 操舵室にて、二等航海士のロンがそう呟けば、左隣に立っている一等航海士のイヴは頷き返す。

「だな」



 深夜、1時。
 アルディニック号の見張り台にて、見張りを任された航海士である男二人は、寒さに体を震わせながら静かに声にする。

「はぁ、寒いなぁ…… 真っ暗で何も見えねぇ」
「お前、双眼鏡持ってくるの忘れたのか?」
「あっ! そういえば」
「はぁ、マジかよ…… ん?」

 見張り台の内の一人の男が、呆れたようにため息をつき、再び静かな夜の海面を見つめ始めたが、何か見えた気がした為、目を凝らし海面を見据えた。

「どうした……?」
「いや、何か見えた気が…… あっ! あれは!」
「氷山……!」
「ひょ、氷山だー!」

 見張り台の内の一人が叫びながら、見張り台の鐘を激しく鳴らす。



 操舵室に電話の音が鳴り響き、操舵室にいた一等航海士であるエリックは、受話器を手に取る。

「ああ、何を見つけた?」
「真っ直ぐ、前方に氷山です」
「わかった」

 数分後、息を切らしながら、見張りの男が操舵室に駆け込んでくる。

「前方に氷山が! このままではぶつかります!」

 見張りの男の慌てた声に機関長であるニックが、声を上げる。

「何だと!」

 そして、慌てた声色で、その場にいた航海士のロンとイヴに告げる。

「ロン、イヴ、面舵いっぱいだ。左に思いっきり舵を切れ」

 機関長であるニックの指示に、ロンとイヴは強く頷き、操舵を強く握る。

「了解です」
「了解しました」

 ロンとイヴの返答に操舵室の空気はより一層、張り詰める。

「機関長!」

 二等航海士のポールの声で、ニックは次の指示を下す。

「全速行進!」
「舵いっぱい!」
「舵いっぱいです!」

 一等航海士であるエリックとロンの声が、緊張感漂う操舵室に響き渡る。

「エンジンを後進に切り替えろ!」

 ニックの指示で、航海士達は動く。

「止まれ、止まれ……」
「ぶつかるぞ!」
「右舵いっぱい!」
 
 操舵室にいる航海士達の決死の声が、重なり合う。



 大きな揺れがアルディニック号を襲う。
 一等部屋にいたエレノア、ティーナ、リアーナ、カイル、セレクは揺れに気付く。

「何かしら? 今の揺れ」
「今、何か揺れなかった?」
「はい。少し、揺れましたね」

「何だ? 今の揺れ」
「今の揺れは?」



「まずいな。ロン、設計士のキャメルを呼んでこい。イヴ、エンジンを切って、時刻を確認して、日記に書いておいてくれ」

 機関長にそう言われた一等航海士のイヴと二等航海士のロンは強く頷く。

「了解しました」
「了解です」



「一体、何事だ?」

 船長であるオズワルドが事の騒ぎを耳にし、操舵室にやって来る。

「氷山です。まず、左舵いっぱいと全速行進の号令をかけましたが、近すぎて、その後、舵を切って、避けようとしましたが……」

 船長のオズワルドに事の流れを機関長であるニックが説明し終えると、オズワルドは険しい顔つきで、頷いた。

「なるほど」



「エンジン停止」

 船長であるオズワルドの指示に航海士の一人であるイヴは応答する。

「了解です。船長」



「氷山って聞いて、飛んできたんですけど、見ましたか?」
「いや、見てないですね」

「お前、見たの?」
「何がだ?」
「え、まさか、お前、知らないのか? 氷山にぶつかったんだよ。この船」
「え、そうなのか?」
「ああ、」

 甲板では、氷山にぶつかったという事を知り得た乗客者達が集まり、不安や、面白半分で興味を示す者の声で溢れていた。



「第六ボイラー室は2.5メートルまで浸水」
「郵便室の状況は見たか?」
「とっくに水の中ですよ」

 数人の航海士達が甲板を歩きながら会話する声が深夜の冷たい空気に溶け込み、消えていく。



「船長、連れて来ました」

 二等航海士のロンは、オズワルドにそう告げ、軽く頭を下げて引き下がる。

「ご苦労」

 ロンが連れて来たのは、アルディニック号の設計士であるキャメルであった。

「船長、これは一体、どういう状況ですか?」

 キャメルの縋るような問いにオズワルドは静かに答える。

「船が、先程、氷山にぶつかった」

 オズワルドの一言にキャメルは驚愕する。

「なっ! 氷山にですか……?」
「ああ、」



「なるほど。15分間で水はキールの上に、4メートルも達した?」
「その通りです」
「船首層の3つの船倉、第六ボイラー室まで。常に5区角。4区角まで浸水して、船が浮いていられるのは5区角では? もう無理ですよ。船首から沈み始め、水が水密隔壁を越えて流れ込む。Eデッキをつたって、一角ずつ。後ろへ、後ろへと。もう、止めようがありません」

 キャメルの絶望混じる声に、オズワルドは静かに口を開く。

「ポンプを使おう。水密扉を……」
「時間は稼げても、ほんの数分です。今から何をやったって、この船は沈没します」

 キャメルは強く断言する。
 しかし、船長のオズワルドはあり得ないという顔をキャメルに向けた。

「沈む訳がないだろう」
「鉄でできた船が沈まない訳がない。この船だって、確実に沈むんです」
「残された時間は?」
「1時間か、もって2時間ちょっとでしょ」

 もう、そんなに時間がないという現実に操舵室にいた全員が焦りと不安を覚える。

「乗客乗員数は?」
「合わせて、2300名です」
 

「救命胴衣をつけてください」
「起きて、救命胴衣を付けてください」

 一等部屋にて、船員達の慌ただしい響き渡る。


「CQDですか?」
「ああ、CQD。遭難信号だ。法線の位置。応答があったら、どの船でもいい。船首から沈みつつあると救助を要請しろ」

 船長であるオズワルドの言葉に男は頷き、手を動かし始める。オズワルドはそっと部屋をあとにした。

「偉いことになったぞ」



 一方、甲板では航海士達が乗客を乗せるボートを降ろしていた。
 
「ボート、降ろすぞ」
「船を降ろせ!」

 航海士達の声が甲板に居る乗客達の不安をより一層、募らせる。

「甲板に来たはいいけど、一体、どういう状況なのかしら?」

 救命胴衣を着て甲板に来て下さいという船員の指示の元、甲板にやって来たアンジェラは、慌ただしく行き交い、自分と同じように不安げな顔をしている人達を横目に見ながら、止めていた足をゆっくりと前へ動かす。

「アンジェラ?」

 アンジェラと同じく甲板にいたティーナは偶然にもアンジェラの姿を見つける。

「ティーナ?」

ティーナの声がした方へと振り返ったアンジェラの元までティーナは走り寄る。

「ティーナ様、この方は?」
「リアーナ、貴方も一回、会っているでしょう?」

 ティーナの言葉にリアーナは眉間にしわを寄せる。数分が経過し、リアーナは思い出したかのように声を上げた。

「あ、ティーナ様のことを娘さんだと思って声をかけた方ですか?」
「ええ、」
「その節はごめんなさいね」
「大丈夫よ、アンジェラ。それよりも只事じゃない状況なのは確かね」
「そうですね」


 一方、甲板の左端にはセレクとカイルがいた。

「あっ! セレク、無事だったか?」
「ああ、大丈夫だ。ティーナは大丈夫だろうか?」
「きっと、ティーナも甲板にいるはずだ。探そう」
「ああ、」



「ティーナー!」
「ティーナー! 何処にいるんだー?」

「今の声は!」

 セレクとカイルの声がティーナの耳に届き、ティーナは声のした方へと走り出す。

「え、ティーナ様!」

 走り寄るティーナの背に侍女であるリアーナの声が聞こえたが、ティーナが足を止めることはなかった。

 ティーナの侍女であるリアーナはティーナの後を追おうとするが、それは隣にいたアンジェラにやって止められる。

「私達はここで待ってましょう。下手に動くとティーナがここに戻ってきた時に、ティーナとまた会えなくなるわ」
「そうですね」



「セレク、カイル……!」

 ティーナは二人の姿を見つけ、駆け寄る。
 ティーナに名前を呼ばれたセレクとカイルは安堵の表情を浮かべる。

「よかった。ティーナ、無事だったんだね」
「本当によかった……」

 セレクとカイルはそう言い、ほっとしたように胸を撫で下ろした。

「ええ、今の状況的に、何があったのか二人は知っているの?」

 ティーナは救命胴衣を着て、甲板へ行ってください。としか船員に言われていなかった為、何が起きているのかわかっていなかった。

 カイルとセレクはそんなティーナに落ち着いて、聞いてくれと前置きしてから話し始める。

「ああ、ここに来る前に船員に聞いたんだけど、氷山にぶつかったみたいなんだ」
「え、氷山!」

 ティーナはセレクの言葉に驚きつつ、アンジェラとリアーナを置いて、ここまで来てしまったことを思い出す。

「あっ……!」
「どうしたんだ? ティーナ」

 カイルの心配そうな声に、ティーナは目の前にいるセレクとカイルの二人を見て告げる。

「アンジェラとリアーナを反対側に置いて来てしまったわ」
「そうなのか。じゃあ、急ごう」
「ええ、」