大野湊は、突然、病院のベッドに横たわっている自分を感じた。

外の空気を吸うことなく、ただ天井の白い光を見上げる毎日。これが彼の日常となってしまった。病気が突然、何の前触れもなく彼を捉えたとき、湊はあまりにも無力で、ただ呆然とするばかりだった。

何が起きているのか、なぜ自分がこんな目に遭うのか、理由はわからない。最初はその痛みに耐えられると思っていた。でも、日が経つにつれて、体の重さ、頭の鈍さ、そして心の空虚さがじわじわと湊を締め付けていった。

ベッドの上で孤独に過ごしていると、周囲の人々の声がぼんやりと響く。

看護師が入れ替わり立ち替わり訪れ、母親が毎日来てくれるが、それも次第に湊にとってはどこか疎遠なものに感じられた。

彼はもう、誰にも頼りたくないと思うようになっていた。

ただ一つ、湊を支えてくれるものがあった。

それは、病室の窓から見える空だ。

晴れた日には、青く広がる空が湊に一瞬だけ、外の世界と繋がっている感覚を与えてくれた。だが、すぐにその感覚は薄れていく。どこか遠く、彼の手の届かない場所にいるような気がして、また一人で閉じ込められた気持ちになってしまう。

そんなある日、湊は病院の廊下でひときわ明るい声を聞いた。

「ごめんなさい、すみません、道を教えてもらえますか?」

振り返ると少女が、目を閉じたまま必死に歩いていた。少女の顔は見えないけれど、その歩き方からは自信が感じられた。まるで周りの世界を知り尽くしているかのように、彼女は全く迷うことなく前を向いて歩いている。

湊は思わず足を止めて、見守るような気持ちでその少女を見た。

「大丈夫ですか?」

と声をかけると、少女は立ち止まり、しばらく黙っていた。その沈黙が不安を生んだのか、湊は思わず焦って声を重ねた。

「本当に大丈夫ですか?」

すると、少女がゆっくりと顔を上げた。その目は、湊の予想通り、見えない目だった。しかし、何とも不思議なことに、彼女の顔には、まるで何も恐れを感じていないような、温かい笑顔が浮かんでいた。

「うん、大丈夫です。ありがとうございます」

と、少女は穏やかに答えた。

その笑顔を見た瞬間、湊の中で何かが弾けた。こんなにも明るく、そして、どこか力強い笑顔に、なぜか心が引き寄せられた。

「君、名前は?」

湊が思わず尋ねた。

「青谷ひかりです。よろしく」

と、ひかりは軽く頭を下げた。その仕草も、どこか自信に満ちていた。

湊は、ふと自分の状況を思い出す。自分は、ここでただ病院のベッドに横たわり、病気と向き合いながら、誰にも頼ることなく過ごしている。

そんな自分と比べて、ひかりはどうしてこんなにも明るいのだろう。視覚障害があるにもかかわらず、こんなにも堂々として、前向きに生きている。

その瞬間、湊はひかりにどこか不思議な力を感じた。彼女の存在が、湊にとってまるで一筋の光のように見えた。

それから、ひかりは毎日のように病院を訪れるようになった。

最初は、湊が目を覚ますといつもひかりが部屋の前を通り過ぎることに気づいた。彼女は必ず明るく挨拶をして、湊に少しでも元気を与えてくれる存在だった。

「おはよう、湊くん。今日はいい天気だね」

と、ひかりが声をかける。

「うん、ほんとだね」

と湊が返すと、ひかりは少し笑った。

彼女の明るさに、湊は徐々に心を開いていった。最初はただの偶然かと思ったが、次第にひかりが何かを感じて湊に話しかけているような気がした。湊は、彼女に対して何も返せない自分を少し恥ずかしく感じることもあった。しかし、ひかりはそんな湊に対しても、いつも変わらずに接してくれる。

湊はだんだんと、ひかりの笑顔を見ているだけで心が少し楽になることを感じるようになった。彼女の笑顔は、まるで湊の心の中の暗い部分を照らしてくれるような力を持っていた。

ある日、湊が病院のベッドでぼんやりと窓の外を眺めていると、ひかりがやってきて、いつものように明るく声をかけてきた。

「湊くん、今日は何かしたいことある?」

湊は、その問いかけに少し驚きながらも、思わず答えた。

「うーん、特に何もないけど…⋯君みたいに元気になれるなら、何かやってみたい気もするな」

ひかりは、湊の言葉にちょっとだけ目を輝かせた。

「じゃあ、今日は一緒に散歩してみようよ」

湊は一瞬躊躇したが、ひかりの目の中に確かな期待の光が映っているのを見て、頷いた。

「うん、いいよ。行ってみようか」


湊とひかりは、病院の敷地内をゆっくりと歩き始めた。

ひかりが杖を軽く振りながら歩く姿が、湊にはどこか不思議な印象を与える。目が見えないはずなのに、彼女の歩みは確かで、どこにいるのかすぐにわかるような気がした。湊はその背後を少し遅れてついていく。

「ここ、すごく静かだね」

とひかりが言う。彼女の声には、どこか心地よさを感じさせるものがあった。

「うん。静かだね」

と湊は答えた。外の世界から遮られたような、病院特有の静けさが広がっている。

「湊くん、何か気になることがあったら、言ってみて。何でも聞くよ」

突然のひかりの言葉に、湊は思わず足を止めた。まるで彼女が何かを察しているような、そんな気がした。

「気になること…⋯」

湊は少し考える。そして、ふと口を開く。

「僕、なんでこんなことになったんだろうって、よく思うんだ。何も悪いことしてないのに、急に病気になって。もしかして、僕が何か悪いことをして、罰を受けているのかなって」

ひかりは静かに湊の言葉を受け止め、しばらく黙って歩き続けた。そして、ふと立ち止まり、湊の方を向いた。

「湊くん、それは違うよ」

と、彼女は言った。穏やかな声で、しかしどこか強い意志が込められているように感じた。

「何も悪いことをしていないから、君が病気になるわけじゃない。そうだとしたら、世界はあまりにも不公平すぎるよ」

「でも、僕がこんなふうに弱っているのに、誰も助けてくれないんだ。みんな、僕を気遣ってくれるけれど、心の中では、僕がただの面倒な存在だって思ってるんじゃないかって…⋯」

ひかりは湊を見つめ、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。そして、彼の前で立ち止まって、優しく微笑んだ。

「湊くん、君のことを面倒だなんて思っている人なんていないよ。それに、誰かが助けてくれることを期待するのも、ひとつの方法だけど、自分を助ける力があることを忘れないでほしい」

湊はその言葉に驚いた。自分を助ける力。彼はそんな力を持っていないと感じていた。体が思うように動かず、ただただ無力に感じる毎日。しかし、ひかりの目を見ていると、何かが少しずつ変わり始める気がした。

「でも、どうやって?」

「まずは、自分を受け入れること。自分が今、どんな状況にいるのかを認めること。それだけでも、少し楽になるんじゃないかな」

ひかりの言葉は、どこか温かい光を感じさせた。その温かさは、湊の心にじわじわと染み込んでいった。

「君は、いつもそんなふうに前向きだよね」

湊が思わず言うと、ひかりは小さく笑った。

「だって、他にどうするの?後ろ向きになっても、何も変わらないからね。だったら、前を向いて進むしかないじゃない」

湊はその言葉に、少しだけ安心感を覚えた。ひかりがどれほど強い心を持っているのかはわからない。でも、少なくとも、彼女の言葉には本物の力があると感じた。

その日から、湊はひかりと一緒に散歩をすることが多くなった。

毎日のように病院の敷地内を歩きながら、彼女は湊に色々な話をしてくれた。

家族のこと、学校のこと、趣味のこと。ひかりの話すことは、どれも明るくて、湊を少しずつ前向きにさせる力を持っていた。

湊はその時、自分がどれほど狭い世界に閉じ込められていたのかを実感するようになった。ひかりの存在が、彼にとっては一筋の光となり、少しずつだが、彼自身もまた変わり始めているのを感じた。

ひかりが言った自分を受け入れることが、湊にとっては最初は難しかった。しかし、ひかりと話すうちに、少しずつ自分の中にある不安や恐れを認められるようになった。

そんなある日、湊はひかりといつものように散歩をしていたが、その途中でひかりが突然立ち止まった。

「湊くん、ちょっと待って」

ひかりの声がどこか不安げで、湊は彼女の顔を見た。目が見えないはずなのに、ひかりの表情から何かを感じ取った。

「どうしたの?」

「私、最近、なんだか自分のことがよくわからなくなってきたんだ」

ひかりは少し沈んだ声で言った。

「明るくしているのが、だんだん辛くなってきた。みんなには元気でいるように見せてるけど、実際は…⋯」

その言葉を聞いた瞬間、湊の胸が締めつけられた。ひかりもまた、心の中で何かを抱えているのだと気づいた。彼女の笑顔の裏に、どれほどの孤独が隠れているのか。湊はその痛みを少しでも分け合いたいと思った。

「ひかり…⋯」

湊は慎重に言葉を選びながら続けた。

「もし、つらい時があったら、いつでも話してほしい。僕は君のことを、もっと知りたいと思っているんだ」

ひかりは静かに頷き、しばらく黙っていた。彼女が目を閉じたままでいると、その静けさの中に、深い思いが溢れているように感じられた。

「ありがとう、湊くん」

ひかりがようやく言った。

「少しだけ、楽になった気がするよ」

その言葉を聞いて、湊は少し胸を張ることができた。ひかりの力になれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。

これから、二人はどんな道を歩んでいくのだろう。湊は、まだその先に何が待っているのかはわからなかった。しかし、ひかりと共に歩んでいく中で、少しずつでも前を向いて進んでいける気がした。


日が傾きかけた病院の庭で、湊とひかりは並んで歩いていた。秋の風が少し肌寒く、枯れ葉をかすかに舞わせている。湊はひかりの歩幅に合わせてゆっくりと歩き、時折、杖の位置を確認しながら彼女の隣を守るように進んだ。

「湊くん、ここ、知ってる?」

ひかりが杖で砂利道を軽く触りながら訊いた。

「うーん…⋯多分、花壇の前だよね?」

湊は答える。自信はない。ひかりは目が見えないのだから、湊が思っている景色と彼女の感じ方には差があるかもしれない。

「そう、花壇。よく来るんだ、ここの匂いが好きで」

ひかりは微笑む。鼻先を少し空気に向けて、香りを確かめるように言葉を紡いだ。

湊はその様子を見ながら、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。彼女は目が見えないのに、世界を全身で感じ取っている。自分は、目に見えるものの多くをただ眺めるだけで、何も理解していないのではないか⋯⋯そんな思いが、突然湊の心に浮かんだ。

「ねぇ、湊くん、聞いてほしいことがあるんだ」

ひかりが少し声を落として言った。

湊は立ち止まり、彼女の方に顔を向ける。

「何でも話して」

ひかりは杖を軽く地面に置き、両手を胸に当てる。呼吸を整えてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「私ね…⋯ずっと笑っているでしょ?でも、本当は泣きたいんだ。毎日、胸が痛くて、孤独で、誰にも言えなくて…⋯」

湊は思わず息を吞む。ひかりの声は震えていない。だが、その言葉の一つ一つに、深い孤独と痛みが滲み出ていた。

「…そんな風に思ってたなんて、全然知らなかった」

湊は小さく声を出す。彼は自分の言葉に少し戸惑いながらも、真実を伝えたかった。

「うん、わかってほしいなんて思ってない。だって、わかる人なんていないから」

ひかりの声が震え、彼女は少し目を伏せた。

湊は手を差し出した。

「でも、僕は…君のこと、知りたいし、支えたい。もしよければ、僕にその孤独を少しだけ預けてほしい」

ひかりはその言葉に驚いたようだった。しばらく沈黙が続き、風の音だけが二人の間に流れた。やがて、ひかりは小さく息を吐き、湊の手を握った。

「ありがとう、湊くん…⋯少しだけ、預けるね」

その瞬間、湊の胸の奥で何かが弾けた。長い間、押さえつけていた感情が、静かに解放されていくような感覚。二人の間に、目には見えない糸が結ばれた気がした。


それからの日々、湊とひかりは少しずつ距離を縮めていった。病室で話す時間も増え、互いに心の奥を少しずつ打ち明けるようになった。

湊は、入院生活の中で初めて誰かに必要とされるという感覚を味わった。ひかりの笑顔を見るたび、彼は胸の奥が温かくなるのを感じた。だが、その笑顔の裏に潜む孤独を知るたび、湊は自分の無力さに苛まれる。

ひかりもまた、湊と話す時間の中で少しずつ心を開いていった。普段は明るく振る舞う彼女も、湊の前では弱さを見せることができる。病気や不安、孤独、そして恐怖。誰にも見せられなかった感情を、湊だけには打ち明けられるのだ。

ある日の午後、湊はひかりと病院の屋上に上がった。青空が広がり、秋の風が髪を揺らす。

「見えなくても、空は気持ちいいね」

ひかりがつぶやいた。

「うん、本当に」

湊は答える。屋上から見える景色を語る。遠くに見える街並み、病院の屋根、そして空を流れる雲。ひかりは目を閉じ、湊の言葉を頼りに想像する。

「湊くん、私…⋯怖いことがあるんだ」

ひかりは杖を握りながら小さな声で言った。

「何が怖いの?」

湊はひかりの手を取る。

「この先、もっと孤独になるんじゃないかって思うの。誰にも頼れない、自分だけで生きていくことになるんじゃないかって…⋯」

湊は一瞬黙った。ひかりの言葉を聞いて、自分の心も痛んだ。病気のせいで外の世界から隔絶されている自分には、ひかりの孤独を完全に理解することはできない。それでも、できる限り寄り添いたいと思った。

「ひかり、僕がいる。君が孤独を感じるなら、僕がその一部を一緒に抱えるよ」

ひかりは静かに湊を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「ありがとう、湊くん…それだけで、少しだけ安心できる」

その瞬間、二人の間に言葉以上のものが流れた。信頼と、依存と、そして互いを必要とする気持ち。小さな屋上の空間が、二人だけの世界になったかのようだった。


日々は淡々と過ぎていく。しかし、湊とひかりの心は少しずつ変化していった。

湊は病気の痛みや孤独を抱えながらも、ひかりの存在によって少しずつ強くなっていった。ひかりもまた、湊に心を預けることで、自分の弱さを認め、受け入れることができるようになった。

ある日、湊は病室でひかりに尋ねた。

「ひかり、僕たち、これからどうなるんだろうね」

ひかりはベッドの上で目を閉じ、杖を膝の上に置いたまま答える。

「わからない。でも、今はただ、湊くんと一緒にいることだけでいい。それが、私にとっての未来への一歩になるから」

湊はその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。二人の間にあるのは、言葉では言い尽くせない絆と、互いの孤独を抱きしめ合う信頼だった。

その夜、湊は天井を見上げながら考えた。目の前には病室の白い光しかない。でも、心の中にはひかりという光がある。暗闇に包まれていても、ひかりの笑顔を思い出すだけで、湊は生きている実感を得られるのだ。

そして、湊は小さくつぶやく。

「それでも、君の笑顔を、僕はひとりで抱きしめたい」

ひかりの存在が、湊の孤独を満たし、痛みを和らげる。だが、それは同時に、他の誰にも触れさせたくない大切な宝物でもあった。

二人の物語はまだ始まったばかりだ。痛みも孤独も抱えながら、それでも互いの笑顔を支えにして、生きていく⋯⋯そんな日々が、これから続いていくのだ。

湊は、ひかりと出会ってから、日々が少しずつ変わっていくのを感じていた。

以前のように、ただ時間が流れていくだけの病室の生活に何も感じなかったのに、ひかりがいることで、世界の色が少しずつ鮮やかになっていくのだ。

それは、彼女がいるからだけではない。ひかりとの会話が、湊自身の中で目覚めた何かを引き出していたからだった。

ある日、湊がリハビリに行っている間、ひかりは病院のベランダでひとり、空を見上げていた。湊が戻ると、彼女はその場所にいることが多くなった。ひかりが見ているのは、目に見えない青空ではなく、心の中に広がる青だった。

「ひかり、今日は何を考えてたんだ?」

湊はリハビリが終わってから、彼女の横に立ち、静かに声をかけた。

ひかりは少しだけ目を閉じて、風を感じながら答える。

「今日は、少しだけ未来を考えてた。私、いろんなことを怖がりすぎてるのかもしれない。自分の見えない世界に、どうしても恐怖がつきまとってくるんだ」

湊はその言葉に、思わず自分の胸が痛んだ。

ひかりの目が見えないこと、そのことが彼女を日々不安にさせているということは、湊も知っていた。

でも、今のひかりには、その不安を乗り越えようとする強さが見え隠れしている。

彼女がどんなに恐れていても、必死にそれに向かって歩こうとしているのが伝わる。

「ひかり、俺…⋯君が怖いって思うこと、少しでも一緒に感じてみたいと思う」

湊は真剣に、ひかりの目の前に立った。

ひかりは一瞬、湊の顔を見つめた。目を閉じたままで、彼の言葉をじっくり噛みしめるようにしていた。そして、静かな声で言った。

「それでも、湊くんには見えている世界があるから…⋯」

ひかりは言葉を少し止め、思わず息をついた。

「私の世界が、ずっと暗いままだったとしても、あなたにはその明るい世界がある。きっと、違うんだよね」

湊は、ひかりが自分のことをどう思っているのかを知りたかった。けれど、今の自分にはひかりを完全に理解することはできない。湊はゆっくりとひかりの手を取った。

「ひかり、君が感じる暗闇の中でも、僕は必ず君と一緒にいる。目が見えないとしても、君は一人じゃない」

湊の声は、静かで優しいけれど、心の中で強く響いていた。

ひかりは少しだけ笑顔を見せてくれた。

しかし、その笑顔がどこか痛みを伴っているのが、湊にはわかる。

ひかりがどれほど強がっていても、彼女の心は深い闇を抱えている。

それは、目に見えない恐怖だけではない。もっと深い、誰にも言えないような、言葉にできない感情が隠れているようだった。

「湊くん、私、本当に怖いんだ。見えないことも、わからないことも、すべてが怖くてたまらない。でも、もし私が…⋯君に頼って、弱くなったら、君に迷惑をかけちゃう気がする」

その言葉を聞いた湊は、心臓がぎゅっと締め付けられるような気がした。ひかりは、彼に頼ることができないという恐れを抱えている。湊はその気持ちをどうしても受け止めたかった。

「迷惑なんかじゃないよひかり。君が僕に頼ってくれることが、俺にとっては何よりも大切なことだよ。君が怖いなら、僕もその怖さを分け合いたい。僕には、君の笑顔が必要なんだ」

ひかりはその言葉に少し驚いたように目を開けた。湊の顔をじっと見つめた後、ゆっくりと微笑みかけた。その笑顔が、湊にはどれほど眩しく感じたか、言葉では言い表せない。

「ありがとう、湊くん。本当に、ありがとう」

ひかりは静かに涙を拭いながら言った。

その涙が、湊の心を強く揺さぶった。ひかりがこんなに涙を流すのは初めてだった。

自分では感じることができなかった彼女の本当の感情に触れた気がした。そして、湊はその時、自分の中でひとつの決意を固めた。

湊はひかりを支えたいと思った。それはただの優しさではなく、深い愛情から生まれたものだった。

ひかりが抱える暗闇を少しでも照らすために、湊はこれからどんな困難が待ち受けていようとも、彼女のためにできる限りのことをしたいと強く感じていた。

それから、湊はひかりのために何かをしようと決意した。たとえひかりが見えなくても、少しでも彼女の世界を明るくする方法があるはずだと思った。

湊は、ひかりのために、ひかりが喜びそうなものを一つ一つ探し始めた。

病院のスタッフや、他の患者たちに頼んで、ひかりが好きだと言った音楽や、香り、そして季節ごとの花を集めた。

病室の窓辺には、小さな植物を飾り、日々変わる風景を感じてもらえるようにした。

ひかりが感じることのできる、すべての小さな美しさを集めること。それが、湊にできる唯一のことだった。

ある日、ひかりが病室に戻ると、そこには思ってもみなかったものが並んでいた。

「これは…⋯湊くん、どうして?」

「君が喜んでくれたら、嬉しいから。少しでも君の世界が明るくなるように、ね」

ひかりは目を閉じて、温かい空気を感じながら、ひとり言った。

「湊くん…⋯こんなにも、私を思ってくれてありがとう…⋯でも、これが私にとって、一番大切なことだと思う」

その瞬間、ひかりの目から、こぼれる涙が静かに湊の肩に落ちた。それは、ひかりが今まで抱えてきたすべての不安や恐れ、そして孤独から解放されたような、涙だった。

湊は何も言わず、ただひかりを抱きしめた。

「ひかり、これからもずっと一緒にいるよ」

その言葉が、二人の心の中で、最も大きな誓いとなった。二人は、お互いにとって、絶対に必要な存在になったのだ。


冬が近づき、病院の外は冷たい風が吹くようになった。

湊とひかりは、病室で過ごす時間が増えていた。外の寒さとは対照的に、二人の間には少しずつ温かな安心感が育まれていた。しかし、平穏な日々は突然、揺らぎ始める。

ある日の午後、ひかりの病状が急変した。軽い発作のような症状で、息が荒くなり、顔色も青白くなったのだ。湊は驚き、慌ててナースコールを押す。看護師が駆けつける間、湊はただ手を握りしめ、ひかりの名前を呼び続けた。

「ひかり! お願い、落ち着いて! 僕がいるよ!」

ひかりは微かに湊の手を握り返し、かすかな声でつぶやいた。

「湊くん…⋯怖い…⋯でも、いてくれてありがとう…⋯」

その瞬間、湊は涙をこらえながらも、ひかりの手を強く握った。病室の白い光の中で、二人の間に流れる時間が、まるで止まったかのように感じられた。


その後、医師からは入院生活の延長を告げられた。

ひかりの体調は安定してきたものの、再び発作が起きる可能性は否定できない。

湊は胸が締め付けられる思いだった。自分は彼女を守れるのか、もしものときに何もできなかったらどうしよう…⋯恐怖が心を押し潰す。

ひかりはそんな湊の心の奥を見透かすように微笑んだ。

「湊くん、怖がらないで。私はもう一人じゃない。たとえ何が起きても、君と一緒なら、怖くないんだから」

湊はその言葉に、自分の心がどれだけ救われたかを感じた。ひかりは強がっているわけではない。本当に、心から信頼してくれているのだ。湊はその信頼を裏切りたくないと強く思った。


日々が過ぎる中、湊はひかりとの時間をもっと特別なものにしたいと考えた。

病院のスタッフに協力をお願いし、ひかりが楽しめる小さな冬の散歩を計画する。

雪はまだ降っていないが、冷たい空気の中で感じる冬の匂いと、枯れ葉の触感を楽しめるようにと、湊は細かい準備を進めた。

当日、二人は病院の庭に出た。湊はひかりの手を握り、慎重に歩を進める。冷たい風が頬を撫で、雪の前触れのような冷気が漂う。

「湊くん、これ、すごく好き…⋯」

ひかりが小さな声でつぶやく。

「そうだね…⋯僕も、君と一緒にいるこの瞬間が一番好きだよ」

湊は答える。視覚ではなく、感覚で互いを確かめ合う二人の距離は、外の世界のどんな風景よりも温かいものだった。

そのとき、ひかりが杖を止め、立ち止まった。

「湊くん、聞こえる? 雪の匂い…⋯冷たい空気…⋯なんだか、世界が全部、私たちだけのものに感じる…⋯」

湊は彼女の言葉にうなずき、そっと手を握り返す。寒さも、孤独も、すべてが二人の間で溶けていくようだった。


しかし、穏やかな日々にも影は落ちる。湊の入院期間は残り少なくなっていた。退院の話が現実味を帯び、二人は避けられない別れを意識し始める。

ある夜、湊は病室で一人、窓の外を見ていた。ひかりのいないベッドが静かに横たわる。心の中で、言葉にできない不安が渦巻く。

もし、退院したら、ひかりと同じ病院にいられなくなるのか。日常の中で彼女を支えられなくなるのか。

そのとき、ひかりが静かに入ってきた。

「湊くん…⋯眠れないの?」

「…⋯少しね」

湊は答える。

ひかりは湊の隣に座り、手を握った。沈黙が二人を包む。言葉はいらない。ただ、手の温もりで互いを確かめるだけで、心が落ち着いていく。

「湊くん、退院しても、私は…⋯あなたを忘れない。あなたがそばにいなくても、心はずっと一緒だよ」

湊はその言葉に、胸が熱くなる。ひかりの存在が、自分にとってどれだけ大切か、改めて感じる。

たとえ離れ離れになっても、二人の絆は消えない。それが、彼が抱きしめたい「君の笑顔」そのものなのだ。

「ひかり…⋯僕もだ。たとえ離れても、君の笑顔を、一人で抱きしめ続けるよ」

ひかりは微笑み、湊の手を強く握った。

その笑顔には、孤独も不安も、すべてを包み込む力があった。湊はその瞬間、確信した。どんなに辛い未来が待っていようとも、ひかりと共に歩む道を選ぶと。


退院の日、湊は病院の正面玄関でひかりと並んで立っていた。

外の空気は冷たく、冬の匂いが鼻をかすめる。

二人は手をつないでいたが、湊の心臓は高鳴り続けていた。

病院の白い壁に囲まれていた日々から、ようやく外の世界に出ることができたのだ。だが、同時に湊の胸には小さな不安もあった。

「ひかり…⋯寒いね」

湊が小さな声でつぶやく。

ひかりはゆっくりと息を吸い込み、顔を少し上げて笑った。

「でも、湊くんと一緒なら、寒さも怖くない」

その言葉に、湊は胸が熱くなる。目が見えない彼女が、こうして外の世界を楽しもうとしていることが、彼にとっては何よりの希望だった。

退院後、二人は湊の自宅近くにある小さなアパートで生活を始めた。

ひかりは視覚障害を持っているため、湊は部屋の整理から家具の配置、生活動線の安全確保まで、一つひとつ手を貸していった。

最初は些細なことで躓くことも多かったが、そのたびに湊は落ち着いて彼女を支えた。

「湊くん、これ…⋯すごく助かる」

ひかりが感謝の笑顔を向けると、湊も自然と笑顔になる。

だが、日常の中には小さな衝突もあった。

ある日、湊が仕事で遅くなる夜、ひかりはキッチンで一人、料理に挑戦していた。

初めてのことに戸惑いながらも、湊に喜んでもらいたい一心で包丁を握る。

だが、不意に手元が狂い、指先を少し切ってしまう。痛みと不安でひかりは動けなくなる。

湊が帰宅したとき、血の匂いに気づき、慌ててキッチンに駆け寄る。

「ひかり、大丈夫か!?」

湊は手を取って傷を確認しながら、目に涙を浮かべた。

「ごめん…⋯湊くん…⋯」

ひかりは震えながら頭を下げる。

「謝ることじゃない…⋯俺がもっと早く帰れれば…⋯」

湊の声は震えていた。しかし、すぐに彼はひかりを抱きしめ、耳元で静かに囁く。

「大丈夫だよ。怪我したって、君は一人じゃない。俺がいる」

その夜、ひかりは泣きながら湊の胸に顔を埋めた。彼女の涙は、不安と恐怖だけでなく、湊への信頼と愛情が入り混じったものだった。


二人の生活は少しずつ軌道に乗り始めた。湊はアルバイトをしながら、ひかりの生活を支え、ひかりは少しずつ外の世界に慣れていった。

ある日、二人は近くの公園に散歩に出かけた。

冬の空気は冷たいが、日差しは柔らかく、雪の前の静けさが漂う。湊はひかりの手をしっかり握りながら、周囲の音や匂い、風の動きを説明した。

「この風、少し冷たいけど、太陽の匂いも混ざってるのわかる?」

湊が問いかける。

ひかりは目を閉じ、顔を上げて深呼吸した。

「うん…⋯なんだか、世界がとても広く感じる。湊くん、こんなに外が楽しいなんて思わなかった」

湊は微笑みながら、彼女の肩を軽く抱いた。

「君が楽しめるなら、どんな世界も僕にとって楽しいよ」

その日の帰り道、二人は手をつないだまま、冬の静かな街を歩いた。湊はひかりが転ばないよう支えつつ、ひかりの心の中にある不安や恐怖が、少しずつ溶けていくのを感じた。


しかし、二人の生活は順風満帆ではなかった。

ひかりの視覚障害は、日常の小さな困難を何度ももたらした。

道での段差、混雑した電車、買い物の際の小さなミス。

湊は何度も助けながらも、ひかりの自立を尊重し、手を引きすぎないよう努力した。

ある日、ひかりが外出先で財布を落としてしまう事件があった。

大切なカードや現金が入った財布を失い、ひかりは途方に暮れた。

「湊くん…⋯どうしよう…⋯全部、なくなっちゃった」

ひかりは肩を震わせ、涙をこらえようとした。

湊は深呼吸して、落ち着いた声で言った。

「大丈夫。俺がいる。警察に届ける方法もあるし、カードも止められる。全部、一緒にやろう」

ひかりは震える手で湊の手を握った。

「ごめんね…⋯いつも迷惑かけて」

「迷惑じゃない。君と一緒にいられることが、俺にとって一番大切なことだ」

湊は強く言い切った。その言葉に、ひかりの涙は少しずつ落ち着きを取り戻した。


二人の絆は、こうした日常の小さな事件の中で、ますます深まっていった。

湊は、ひかりの世界を守るために、何があっても彼女を支え続けると決めていた。

そして、ひかりもまた、湊に全幅の信頼を寄せ、目に見えない世界で生きる勇気を得ていた。

ある夜、二人はリビングの窓際で、冬の星空を眺めていた。

「湊くん…⋯こんなに広い世界に、私たちだけでいるみたい」

ひかりがつぶやく。

湊は肩を抱き寄せ、静かに答えた。

「うん…⋯たとえ世界が広くても、君と一緒なら怖くない。君の笑顔を、一人で抱きしめていられるから」

ひかりは小さな笑みを浮かべ、湊の胸に顔を埋めた。その笑顔には、喜びも、恐怖も、孤独も、すべてが混ざり合い、そしてそれを超える強さが宿っていた。

二人はその夜、窓の外の寒さや暗闇も忘れ、互いのぬくもりの中で静かに時を過ごした。

未来がどれほど不確かであろうとも、湊とひかりは、たった一つ確かなものを知っていた。互いの存在。それだけで、すべてを乗り越えられるということを。

退院してから数週間が過ぎ、湊は学校に復帰することになった。久しぶりの教室は、思ったよりも賑やかで、周囲の目が気になる。クラスメイトの何人かは湊に声をかけてくれたが、湊の心はどこか緊張していた。

「大丈夫…僕ならできる」

湊は自分に言い聞かせ、教室のドアを開けた。

ひかりは湊の心配をよそに、学校生活に合わせて少しずつ外に出る練習を続けていた。

駅から学校までの道、交差点での安全確認、授業の間の移動。視覚障害を持ちながらも、ひかりは自分の力で世界を感じ取り、楽しもうとしていた。

登校初日、二人は一緒に教室に入る。クラスメイトたちは最初、戸惑いながらも、ひかりの明るい声と笑顔にすぐ引き込まれていった。

「おはよう、ひかりちゃん!」

「湊くんも、おかえり!」

湊は少し照れくさそうに微笑み、ひかりは満面の笑みで手を振った。その瞬間、湊は感じた。どんなに不安でも、二人なら学校という新しい世界も楽しめる、と。


しかし、日常には小さな困難もあった。

授業中、ひかりが先生の指示を聞き間違え、クラスメイトの前で少し恥ずかしい思いをすることもあった。湊はすぐにそっと手を握り、耳元で小さくフォローする。

「大丈夫、ひかりちゃん。君の声と存在があれば、みんな理解してくれる」

ひかりは少し頬を赤らめながらも、安心した笑みを返す。そうして二人は、毎日の小さな挑戦を重ねながら、学校生活を少しずつ取り戻していった。

ある日、放課後の図書室で湊とひかりは一緒に課題をしていた。ひかりは資料を読むのに時間がかかるが、湊が丁寧に内容を読み上げ、要点をまとめる。

「湊くん、ありがとう。君といると勉強も楽しい」

湊は微笑み、机にひじをついて彼女を見つめた。

「僕もだよ。君と一緒なら、どんなことも楽しめる」


二人の絆は、学校だけでなく家庭でも試されることになった。

ひかりの両親は最初、湊との同居を心配していた。

体調や安全面、将来のこと、様々な不安があった。

しかし、ひかりが自分の意思で湊と一緒に生活することを選んだことで、両親も徐々に理解を示すようになった。

ある週末、両親が二人のアパートに訪れた。湊は少し緊張していたが、ひかりが先に両親に挨拶をした。

「お父さん、お母さん、湊くんと一緒に生活してます。湊くんは、私が安全に過ごせるようにいつも助けてくれるんです」

ひかりの言葉に両親は目を細め、湊を見つめた。湊は深く頭を下げ、静かに答えた。

「ひかりさんを守ることが僕の役目です。責任を持って、毎日一緒に過ごします」

両親はうなずき、ひかりを抱きしめた。

「安心したわ、ひかり」

湊もその場に加わり、三人で温かい時間を過ごす。互いの信頼と絆が、こうして少しずつ家族にまで広がっていった。


冬の寒さが厳しくなる中、二人は日々の生活の中で、小さな冒険を重ねていった。

休日には近くの図書館やカフェ、時には公園や美術館に出かけ、湊はひかりの手を握りながら、世界の美しさや温かさを教えた。

ひかりもまた、視覚に頼らず、耳や鼻、肌の感覚で世界を感じ取り、それを湊に伝える。

ある日、二人は冬祭りに行くことになった。

人混みの中、湊はひかりの腕をしっかり握り、慎重に歩を進める。

祭りの賑わい、太鼓や笛の音、屋台の匂い、笑い声や歓声。それらすべてがひかりに新しい感覚として届く。

「湊くん、すごい…⋯こんなに世界って賑やかで楽しいんだね」

湊は彼女の手を握り返し、微笑む。

「そうだね。君と一緒だから、こんなに楽しいんだと思う」

夜、祭りの灯りに包まれながら、湊はひかりを抱きしめた。

「たとえ未来が不確かでも、君の笑顔を僕はずっと抱きしめる」

ひかりはその胸に顔を埋め、静かに頷いた。


日常の喜びと小さな冒険の中で、二人は互いに欠かせない存在になっていた。しかし、現実は常に優しくはなかった。

ある日、ひかりの体調が再び不安定になった。学校で軽いめまいと吐き気を感じ、帰宅途中に倒れそうになる。湊はすぐに駆け寄り、腕に抱えて家まで連れて帰った。

「大丈夫か、ひかり!?」

湊の声には恐怖が混ざる。

「湊くん…⋯ごめん…⋯また迷惑かけちゃって…⋯」

ひかりは弱々しく微笑む。

「迷惑なんて思うわけないだろ…!君が倒れそうになったら、僕が守るんだ」

その夜、湊はひかりをベッドに寝かせ、体温を測り、熱を下げるために手を握り続けた。ひかりは泣きそうな顔で湊を見上げ、静かに呟く。

「湊くん…⋯ありがとう…⋯私⋯⋯」

湊は涙をこらえ、そっと頷いた。

「そうだよ。君はもう一人じゃない。ずっと一緒だ」

その夜、二人は互いのぬくもりの中で眠り、未来に向けて少しずつ歩き出す決意を新たにした。

春の陽射しは、冬の冷たさをすっかり拭い去り、街中に柔らかな暖かさを広げていた。

湊とひかりは、退院後初めての春を一緒に迎えていた。

アパートの窓から差し込む光が、部屋の壁や家具を淡く染める。湊はカーテンを開け、ひかりの手を取った。

「ひかり、今日は散歩に行こう。桜が咲き始めてるって聞いたんだ」

ひかりは微笑み、手を湊の腕に絡める。

「うん…⋯楽しみ。湊くんと一緒なら、どこでも楽しい」

外に出ると、まだ肌寒い風が二人を包む。春の匂い、土の匂い、遠くで咲き始めた桜の香りも混じっていた。

湊はひかりの手を握りしめ、ゆっくり歩を進める。ひかりの感覚は視覚に頼らず、風の温度や足元の感触、耳に届く小鳥の声や街のざわめきを頼りにしていた。

「ここ…⋯桜がたくさんあるのわかる?」

湊が尋ねると、ひかりは目を閉じて風を感じながら頷いた。

「うん…⋯枝の揺れ方や風の音で、花がたくさんあるのがわかる…⋯不思議だけど、世界って面白いね」

湊は笑った。
「君の感じ方って、いつも独特だよね。でも、それが君の世界の色なんだろうな」

二人は手をつないだまま、桜並木を歩いた。歩道には小さな花びらが舞い落ち、ひかりの足元を柔らかく撫でる。湊はそれを指で触れ、ひかりの手に伝える。

「ほら、花びら…⋯触れるかな?」

ひかりは笑いながら手を伸ばす。

「うん、わかる…⋯柔らかい…⋯春って、こんなに優しいんだね」


学校に戻ると、二人の関係は少しずつ周囲にも知られるようになった。

湊が退院してからの学校生活は、順風満帆とは言えなかったが、ひかりの存在が湊にとって大きな支えになっていたのは確かだった。

ある日の授業中、グループワークで湊とひかりは同じ班になった。

課題は学園祭の企画案を出すこと。湊はひかりの意見を耳で聞き取り、紙にまとめ、視覚障害のある彼女が提案したアイディアを形にしていく。

「ひかりちゃんの案、すごくいいと思う!」

班のリーダーが笑顔で言う。

ひかりは少し照れくさそうに頷く。

「ありがとう…⋯みんなの協力があれば、私もできる」

湊はひかりの背中をそっと押すようにして微笑む。

「その通りだ。君の思いをみんなが受け止めてくれる」

放課後、二人は図書室で作業を続ける。湊は資料を読み上げ、ひかりは音声で内容を確認しながらアイディアを膨らませる。

「湊くん、今日もありがとう。君がいなかったら、私、一人じゃ何もできなかった」

湊は頭を掻き、少し照れくさそうに笑った。

「いや…⋯僕だって君と一緒にやるから楽しいんだ。ひかりちゃんのアイディアがあるからこそ、みんなも動いてくれる」


その夜、アパートに戻ると、ひかりはベッドに横たわり、少し疲れた様子を見せた。

学校生活は彼女にとって新しい挑戦の連続で、目に見えない情報を処理しながら体力も使っていたのだ。

「湊くん…⋯今日はちょっと疲れちゃったかも…⋯」

湊はひかりの肩に手を回し、優しく抱き寄せる。

「無理しなくていいんだよ。疲れたら休めばいい。君は十分頑張ってる」

ひかりは微笑み、湊の胸に顔をうずめる。

「ありがとう…⋯湊くんといると、安心する…⋯」

その夜、二人は静かに眠った。窓の外では春の虫たちがまだ控えめに鳴き、淡い月明かりが部屋を照らしていた。


数日後、ひかりの学校で学園祭の準備が始まった。

二人は毎日放課後に残り、企画を進めた。ひかりは音声メモや触覚を駆使して作業をこなし、湊はそのサポートを徹底する。

しかし、準備中にトラブルが起きる。ひかりの音声メモが誤って消えてしまったのだ。

「ひかりちゃん…大丈夫?!」

湊は慌てて確認する。

ひかりは顔をしかめながらも、深呼吸をして言った。

「大丈夫…⋯湊くんがいるから…⋯一緒にやれば、また作れる」

二人は夜遅くまで作業を続け、クラスメイトも手伝いながら、企画を完成させた。

学園祭当日、ひかりのブースは大盛況だった。湊はひかりの手を握りながら、その様子を見守る。

「湊くん…⋯見て、みんな笑ってる…⋯私のアイディアで、こんなに楽しんでもらえるなんて」

湊は涙ぐみながら笑った。

「君の笑顔があれば、みんな幸せになるんだね」


学園祭の夜、二人は公園のベンチに座り、祭りの灯りを眺めていた。周囲は人で賑わい、笑い声と音楽が混ざる。湊はひかりをそっと抱き寄せる。

「ひかり…⋯君の笑顔を、俺はずっと守りたい」

ひかりは湊の胸に顔を埋め、静かに答える。
「私も…⋯湊くんと一緒なら、どんな未来でも怖くない」

春風が二人の周りを通り抜け、花びらが舞い落ちる。夜空の星も、まるで二人を祝福するかのように瞬いていた。


初夏の空気は、春の柔らかさとは異なり、どこか熱を帯びていた。

湊とひかりは学校帰りに、近くの川沿いを歩く。日差しが水面に反射して、まぶしい光の波を作る。

「湊くん…⋯夏の匂いって、少し刺激的だね」

ひかりが笑う。

「うん…でも、君と一緒なら暑さも悪くない」

川沿いの道は人も少なく、二人だけの時間が流れる。

ひかりは手を伸ばし、風や水の音を楽しむ。湊はその手を握り、彼女の感覚を感じ取りながら歩く。

「ねぇ湊くん…⋯私、将来やりたいことがあるんだ」

ひかりは突然告げる。

湊は振り返り、真剣な目でひかりを見つめた。

「どんなことでも、話してごらん」

ひかりは少し息を整え、声を震わせながら言った。

「視覚障害があっても、みんなと同じように社会で役に立ちたい。人の力になりたい…⋯だから、福祉の仕事に就きたいんだ」

湊は黙って頷く。胸に込み上げる想いを言葉にしないまま、ひかりの手をしっかり握り締めた。

「君なら絶対にできる。俺がそばにいるから、絶対に支える」

ひかりは安心した笑みを湊に向けた。

「ありがとう…⋯湊くん」


夏休みが近づき、二人は毎日を少しずつ忙しく過ごしていた。

ひかりは福祉のボランティアに参加することを決め、湊はそのサポートを引き受ける。

最初のボランティア活動の日、ひかりは緊張で声が震えた。

「湊くん…⋯私、大丈夫かな…⋯」

「大丈夫だよ。君の思いはしっかり届く。俺がサポートするから」

二人は手を取り合い、ボランティア会場へ向かった。そこでは障害を持つ子どもたちが遊びながら学ぶ空間が広がっていた。ひかりは目に見えない世界を感じながら、子どもたちと関わる。

「ひかりちゃん、わかりやすく教えてくれるね!」

子どもたちの笑顔に、ひかりも自然と笑みを返す。

湊はその様子を見つめ、心の中でそっとつぶやく。

「君の笑顔は、誰かの力になるんだ…⋯」

午後、活動が終わった後、二人は川沿いの道を歩く。ひかりは少し疲れた様子だが、目を輝かせて湊に言う。

「湊くん…⋯今日は楽しかった。私、もっと頑張れる気がする」
湊は優しく頷き、彼女の背中を軽く押す。

「その気持ちを忘れなければ、必ず夢は叶うよ」


夏休み中、二人の関係はさらに深まった。朝から夕方までのボランティア活動、図書館での勉強、帰宅後の課題と家事…⋯。

疲れも溜まるが、互いに支え合う時間は、何にも代えがたいものだった。

ある日の夜、アパートの屋上で二人は星空を眺めていた。

「湊くん…⋯星って、見えないけど、存在を感じられるね」

「うん…⋯君がそばにいるから、俺も同じ世界を感じられる」

ひかりは静かに湊の肩に頭を預け、柔らかな風に身を任せた。

「湊くん…⋯私、怖いこともある。でも、君といると怖くない」

湊は彼女を抱きしめ、声を低く響かせる。

「俺もだよ。君と一緒なら、どんな困難でも乗り越えられる」

その夜、二人は互いの存在を胸に刻み、深い眠りについた。


しかし、幸せは突然の試練と共に訪れる。

ある日、ひかりの体調に異変が現れた。活動中にめまいと吐き気、微熱…⋯。湊はすぐに気づき、彼女を休ませる。

「ひかりちゃん…⋯無理しないで。今日は活動も休もう」

「でも…私、頑張りたいのに…⋯」

ひかりは弱々しく答える。

湊は静かにひかりの手を握る。

「頑張ることも大事だけど、君の体が一番大事だ。俺がそばにいるから、安心して休んで」

二人は夜まで一緒に過ごし、湊はひかりの熱を測り、食事を作り、静かに話を聞く。

「湊くん⋯…ありがとう…⋯」

「君を守るって決めたから」

その夜、ひかりは湊の胸で涙をこぼし、二人は互いのぬくもりの中で眠った。


夏休みの後半、ひかりは少しずつ体調を取り戻し、活動にも復帰することができた。

湊もまた、学校やボランティア、家事の両立に奮闘しながら、ひかりを支える日々を送った。

ある日、二人は海に出かけることにした。砂浜に足を踏み入れると、ひかりは裸足で砂を踏みしめ、波の音に耳を傾ける。

湊はそっとひかりの手を握り、波打ち際まで案内した。

「湊くん…⋯波って、力強いけど、優しいね」

「うん…君と一緒にいると、どんな場所も特別になる」

ひかりは海の匂いを深く吸い込み、笑みを湊に向ける。

「私、もっと強くなれる気がする。湊くんと一緒なら、未来に立ち向かえる」

湊も微笑み、彼女の手を強く握った。

「俺もだ。君と一緒に歩く未来を、絶対に諦めない」

波が二人の足元に優しく触れ、夏の光が二人を包む。互いの存在が、確かな支えとなっていた。


夏の熱がゆっくりと消えていく頃、風の中に少し冷たさが混じり始めた。
ひかりの長い髪が風に揺れ、湊の頬をかすめる。

「湊くん、秋の匂いがするね」

「うん。少し切ない匂いがする」

放課後の帰り道。空は金色に染まり、街全体が柔らかい夕焼けに包まれていた。
ひかりは湊の腕にそっと手を添え、歩調を合わせる。

「ねぇ、湊くん。秋って…⋯寂しいね」

「うん。夏みたいに賑やかじゃないしね」

「でも、静かでいい。…⋯人の心の声が聞こえる季節だと思う」

湊はその言葉に小さく息を呑む。
ひかりの声は、風に溶けるように優しかった。


それは、そんな穏やかな日の翌週だった。
ひかりが倒れた。

ボランティアの最中だったという。
意識を失い、救急搬送された⋯⋯そう連絡を受けた瞬間、湊の世界は音を失った。

彼は自転車を全力で漕ぎ、息を切らして病院に駆け込む。

廊下で見つけたのは、ベッドに横たわるひかり。

白いシーツに包まれたその姿は、あまりにも静かで、現実感がなかった。

「ひかり!」

湊が声をかけると、かすかにまぶたが動いた。

「湊くん…⋯?」

その声を聞いた瞬間、膝の力が抜けた。
彼はベッドの脇に座り、震える手で彼女の手を握った。

「大丈夫か…⋯? 怖かったよ…⋯」

「うん、ごめんね…⋯でも、また笑いたいから…⋯泣かないで」

その言葉に、湊は堪えきれず涙を流した。
彼女の小さな手の温もりが、まるで消えてしまいそうで怖かった。


検査の結果、ひかりの持病が悪化していることがわかった。
視覚だけではなく、神経系にも影響が出始めている⋯⋯医師の言葉が胸に刺さる。

「……進行性なんです。症状が安定しても、またいつ再発するかは…⋯」

湊は言葉を失った。
この世界が、どんなに静かで、どんなに優しく見えても、
彼女の時間は、確実に削られている。

その夜、ひかりの病室で、二人は何も話さずに過ごした。
ただ手をつないで、互いの呼吸を感じるだけ。
それで十分だった。

「湊くん…⋯私ね、怖いよ」

「……うん、わかる」

「でもね、怖いって言えるの、湊くんだけなんだ」

湊は彼女の額に手を伸ばし、髪を撫でた。

「俺も怖いよ。君がいなくなる世界なんて、考えたくない」

ひかりは小さく笑い、彼の手を包んだ。
「だったらさ、怖いのも半分こしよう。そうすれば少し楽になる」


退院できるまでの数週間、湊は毎日病院に通った。
宿題もアルバイトも後回しにして、ただひかりの傍にいることだけを選んだ。

ある日、夕焼けが差し込む病室で、ひかりがぽつりと呟いた。

「湊くん、約束して」

「なにを?」

「私がいなくなっても、泣きすぎないで。それから、自分の未来を諦めないで。ちゃんと、生きて」

湊は喉の奥が熱くなり、声が出なかった。

「やめてよ、そんなこと言うなよ」

「ううん、ちゃんと聞いて。…⋯お願い」

ひかりの手が震えていた。
それでも、笑おうとしていた。
その笑顔があまりにも儚くて、湊は心の奥で何かが崩れる音を聞いた。

「……約束するよ。でもその代わり、俺のお願いも聞いて」

「なに?」

「まだここにいて。もう少しでいい。君の笑顔を、もう少しだけ、俺に見せて」

ひかりは涙をこぼしながら、頷いた。

「うん。できる限り、笑うね」


季節は深まり、木々の葉が赤く染まり始めた。
病院の窓から見える景色は、まるで燃えるようだった。
ひかりはベッドの上で穏やかに呼吸を繰り返し、湊はその横で本を読んでいた。

ページをめくる音だけが、二人の間を流れる。
その音がまるで、時間の心音のようだった。

「湊くん」

「ん?」

「ありがとう。…⋯ちゃんと、世界が見えた気がするよ」

湊は笑った。

「嘘だろ。見えないって、いつも言ってたくせに」

「見えるんだよ。…⋯心でね」

そう言って、ひかりは微笑む。
その笑顔は、光そのものだった。
たとえ彼女の目が見えなくても、その笑顔だけで世界は十分に明るかった。


夜が深くなる。
窓の外では、秋風が木々を揺らしている。

ひかりは眠っている。
湊はその手を握りしめながら、心の中でつぶやく。

⋯⋯笑ってみせるのは、簡単じゃない。でも、君はそれをやってのけた。

涙をこらえながら笑う君を僕はずっと見てきた。

君がいなくても、君の笑顔は僕の中で生き続ける。
たとえ世界が暗くなっても、
その光だけは、決して消えない。

湊は顔を上げ、窓の外の空を見た。
夜明けが近づいていた。
淡い光が、空の端を染め始める。

「ひかり…⋯見えるか? 朝だよ」

眠ったままのひかりに、湊は静かに語りかけた。

「君の未来は、ここから続いてる。 俺がちゃんと、生きて繋げていく。だから、安心して眠ってていい」

ひかりの手が、かすかに動いた。
その指が、湊の指に触れ、そして止まった。

それでも君の笑顔を、僕はひとりで抱きしめたい。

その夜、病室の窓から差し込む朝陽が、二人を静かに包み込んだ。


ひかりに出会う少し前。
湊は、生きることに疲れていた。

高校二年の春。
家にも学校にも、自分の居場所がないように感じていた。

両親は共働きで、家の中はいつも静まり返っていた。
食卓の上に置かれた夕食。
「食べなさい」とだけ書かれたメモ。
それを無言で読みながら、湊は箸を持つ手を止めた。

友人関係もうまくいかなかった。
周りの笑い声が、どれも他人事に聞こえる。
教室の隅に座りながら、彼は何度も思った。

このまま消えたら、誰か気づくのかな。

その疑問の答えが欲しくて、彼は屋上に向かった。


夕方。
薄いオレンジ色の空。
遠くでカラスが鳴き、街はゆっくりと夜に沈みかけていた。

湊は柵の前に立った。
風が頬を切り、髪を揺らす。

「もう、疲れたな」

その呟きは風に飲まれて消えた。

下を見下ろすと、足元に広がる世界がやけに遠く見えた。
あの瞬間、何も感じなかった。
怖くもなかった。
ただ空っぽだった。

湊はゆっくりと柵を越えようとした。
靴の底が鉄の感触を伝え、冷たい風が身体を押す。

そのとき。

風の中で、光が揺れた。

太陽が沈みかけたその瞬間、雲の隙間からまっすぐに差し込む筋の光。
それはまるで、自分だけを照らすように屋上に降り注いでいた。

湊は思わず目を細めた。
視界が痛いほど明るくなり、目の奥が焼けるようだった。

その光の中に⋯⋯誰かが立っていた気がした。

輪郭のない影。
でも確かに、人の形をしていた。

そして、声がした。

『まだ、終わらないよ。』

淡く、でもはっきりとした声だった。
女の子のような、優しい声。

湊は思わず振り返った。
誰もいなかった。

次の瞬間、足がすべって身体がぐらりと揺れた。
恐怖が一瞬で全身を駆け抜け、湊は必死に手すりを掴んだ。
金属の感触が指に食い込み、腕が震えた。

「……っ!」

必死に身体を引き戻す。
膝が砕け、床に倒れ込む。
息が止まりそうになった。
そして、涙が勝手に溢れた。

「なんで……なんで今さら怖いんだよ……」

そのとき、夕陽は完全に沈み、
屋上には残光だけが、静かに漂っていた。


目を覚ますと、病院のベッドの上だった。
どうやら屋上で倒れた後、誰かに見つけられたらしい。

天井の白さが目に痛い。
点滴の音が小さく響く。

看護師が「もう大丈夫よ」と笑うが、湊は頷くだけだった。
大丈夫なわけがなかった。
けれど。
あの光の声だけが、頭の中に残っていた。

まだ、終わらないよ。

何度もその言葉を思い出した。
あれは幻覚だったのか、夢だったのか。
それでも、その言葉が心の奥で生きていた。

その日から湊は、屋上に行けなくなった。
代わりに病院の中を歩き回るようになった。
理由なんてなかった。
ただ、あの声をもう一度聞ける気がしたから。

そして。

あの日の午後。
病院の廊下の先で、誰かの笑い声を聞いた。
柔らかく、澄んだ声。

振り向くと、白い杖を持った少女が立っていた。
光を感じるように顔を上げ、微笑んでいた。

「こんにちは」

それが、青谷ひかりとの最初の出会いだった。


その名前を聞いたとき、湊の胸が強く打った。
あの屋上の光の声が、彼女の名前と重なった。

ひかり。

その名を口にするだけで、胸の奥が少し温かくなる。
光に助けられたあの日の記憶が、ゆっくりと繋がっていく。

湊は思った。
自分は、あの日確かに助けられた。
そして今、目の前にその人がいるのかもしれない。

ひかりが笑う。
「どうしたの?そんな顔して」
「……ううん。なんか、懐かしい声だなって思って」

「声?私の?」
「うん。きっと、ずっと前に、君の声を聞いた気がする」

ひかりは不思議そうに首をかしげ、微笑んだ。

「じゃあ、運命だね」

湊は笑った。
その瞬間、胸の奥に眠っていた“死にたかった自分”が、
音もなく溶けて消えた。


それからの時間が、どれほど尊いものだったか。
湊はあの屋上の夜を思い出すたびに、胸の奥で呟いた。

あのとき飛び降りなくてよかった。

もしあのまま終わっていたら、ひかりの笑顔を知らずにこの世界を去っていた。

だから今、彼女が眠っている病室で、
湊は再び光を見つめている。

夕陽が窓から差し込み、彼女の頬を優しく照らす。
あの日と同じように。
光が、彼を包む。

湊は微笑む。

「やっぱり君は、俺の“ひかり”なんだな」