しらず駅前でのできごとでしたというネットの書き込みがある。
「いまわ食堂」というネットの書き込みについて。
OLである小野田冴子が同僚の片山由紀子と入った定食屋が普通ではなかった話だ。普通ではないというのは体感で感じたと本人たちは話している。
いつも通らない道を通った二人は、どこか夕食を食べられる場所を探していた。同僚であり、残業がえりだったため、おしゃれなレストランというよりはお腹を満たせる定食屋のような場所を求めていた。残業が長引き夜10時を過ぎており、腹が鳴ることを隠すことはできなかった。仲が良い女子二人ということで、がっつり白米が食べたいとかバランスの良いメニューの家庭料理を食べたいという気持ちでいっぱいだった。
街灯が少なく、暗い商店街はシャッター街らしく昔はきっと繁盛していたであろう痕跡こそあった。今は人通りが少なく経営自体していない元商店が立ち並んでいた。そんな廃商店街の一角にぽうっと温かな灯が灯っていた。二人は急いで開店している唯一の店に向かった。すると、「いまわ食堂」と古びた看板があり、どうやら営業中らしい。
「ラッキーだよね。こういう穴場のお店って実は美味しいっていうのが定番じゃない?」
「こういう店こそ、隠れた一品がありそう。普通の定食が激うまだったりするんだよね」
「わかるわかる」
「お腹ぺこぺこだから、ここにしよう」
二人は満場一致でここに決めた。
古びたのれんをくぐる。古いお店らしい壁にしみがついていたり、油のにおいがする。そして、同時に美味しいとんかつの香りもした。
不思議なのは、客は一人いるのだが、店員がいない。カツ定食のおいしそうな香りがする。店員がいない。どうにも不思議な感じだ。メニュー表があり、そこには一つしか種類がない。しかし、不思議なのは定食の値段が異様に安いということだった。1000円くらいするであろう定食が100円だ。
「もしかして、激安もってけ泥棒的なお店かな?」
冴子はラッキーという表情をした。
「でも、採算取れないよね。もしかして、原材料がやばい仕入先とか、賞味期限切れとかそういう闇のあるパターンかもよ」
少し後ずさりする由紀子。
「でも、話題作りのためにこういった企画がテレビに出ることあるよね。あと、ネットで拡散されやすいから、今の時期限定の割引セールだと思うよ」
冴子はあくまで前向きだ。
「でもさぁ、シャッター街というかほぼ廃商店街なのに、なんでここだけ残っているんだろうね。しかも一店舗だなんて」
疑いを隠せない由紀子。
「激安だからだって。半ば隠居してるのかもしれないし」
「でも、注文はどこからすればいいのかな」
「すみませーん」
何度か呼んでみるが反応がない。
呼び鈴もない。奥を覗くが、誰もいない。
「店員さんはどこですか?」
黙々と一人で食べている男性に聞く。サラリーマン風の男性はただ、黙々と食べており、表情がない。完全無視だ。ムカつくというより、不気味に感じる。なぜ不気味なのかを分析してみる。その人の表情はとても悪く、白目と黒目が逆の色をしていたのだ。
それに気づいて、店を出ようとしたら、店員らしき男性がやってきた。
メニュー表にはメニューはひとつしかない。オーダーをする必要もなく、店員は作り始めてしまったので、出るに出られない雰囲気になった。気まずい空間が漂う。しかたがなく一瞬立ち上がろうとした二人はそのまま席に座った。というのも、この食堂は大変狭く、客が見える場所で店員が調理をするシステムだ。そして、テーブル席というものがなく、一人で来る客が多いのかコの字型のテーブルに背もたれのない椅子が無機質に並ぶ。いらっしゃいませも、オーダーをとることも何もしない店員はどこか目つきが不気味に感じられた。よく見ると、その人も白目と黒目の色が逆になっていたのだ。カラーコンタクトを入れたわけでもないだろう。店主も中年で疲れた様子が感じられた。そんな人があえてカラーコンタクトを入れるはずはない。白い割烹着のような調理師の格好をしていたが、どこかが普通ではないと感じていた。
カレンダーが壁に飾ってあることに気づく。1970年のカレンダーだ。あえてレトロ仕様にしたいのだろうか。それとも――まさか1970年だというわけではないだろうか。なんてありもしないことを冴子は考えていた。たしかに、古びた感じに年代物のカレンダーは好きな人には、ぐっとくる要素があると感じる。
「ねぇ、あのカレンダー、わざとレトロな感じ出してるのかな?」
ささやく由紀子。由紀子も感じていたのかと冴子も思う。
「あのカレンダーはきっとオブジェだよ」
その後、ラックにある雑誌を見ると1970年7月発行となっている。これは、当時の雑誌を買ったにしては新しい。最近発行されたような気がするというのが本音だった。内容は、もちろん冴子たちの世代にはわからないような内容だった。まだ生まれていない頃の話しであり、芸能人も今はもう還暦を迎えた人が結婚したという内容が書いてあった。そして、今は解散して活動すらしていないアイドルの話もあった。こんなことがあるわけがない。古本屋で買ったとしたら、もっと保存状況が悪いはずだ。紙の色が色あせるとか、ボロボロでもおかしくはない。こんなにきれいな状態の紙。これは、今じゃない?
腕時計を見ると時間は先程と変わっていない。つまり時計が止まっているようだった。運悪く電池切れ? それとも?
「時計止まってるみたい」
「私も」
背筋が凍った。すぐにスマホを見るが、圏外になっている。
古びた珍しいピンク色の公衆電話が店内にはある。
そして、店内に時計はない。
トンカツが出来上がったようだ。見た感じは普通だ。
でも、これを食べたら、何かが変わってしまうのではないか?
例えば白目と黒目が逆の色になるとか。
あんなに空腹だったはずなのに、食べ物を口にすることが怖くなる。
でも、これを食べなければ、怒られてしまうかもしれない。見た目は美味しそうなカツだ。サクサクしていて、キャベツの千切りも新鮮な緑色をしている。仕方がなく一口食べる。すると、思いの外美味しい。しかし、一つだけ、普通のカツ定食にはないものがあった。紫色の黒色に近いドリンクだった。普通は水かお茶が定番だが、ここは違うようだ。
何かの健康飲料にありそうな毒汁のような色合い。まさに魔女が調合していそうなイメージだろうか。これはなんとなくまずいような気がする。食べ終わり、飲み物だけ残して帰ろうとした。二人共普段よりもかなり早いスピードで食べた。なぜならば、ここに長く滞在するのはやはり心地よいものではなかった。不気味というのが一番早いかもしれない。
「ちゃんと飲め」
店主の目が怖い。どうしよう、これは飲まなければ帰れないのではないだろうか。無視して、お金だけ置いて帰る?
「一体、何のドリンクなのですか?」
仕方なく、飲むふりをする。
「これを飲まないと、死ぬぞ」
威圧感がある。
客もちゃんと飲んでいるようだ。
そして、こちらを睨んでいる。
「紫色の原料が気になります」
「紫キャベツとぶどうの色だ」
目が怖い。
「本当ですか?」
由紀子はそのままお金を置くこともなく、立ち去る。
「待って!!」
「ごめん、後で支払うから」
由紀子はこういう時にビビりの精神を発揮する。他力本願なところがあるが、人柄は憎めないと思っていた。たしかに、不気味な店主に不気味な飲み物。これ、飲んだら死ぬとかないよね? お腹壊さないよね? 支払いの義務ができ、帰りづらくなる。仕方なく一気飲みする。覚悟の上だ。
案外美味しい味がする。
料金を支払い、そのまま帰宅しようと横開きの扉を開けると、しらず駅前に出る。
救急車が止まっていた。自分自身もケガを負っている。なぜだろう。記憶がない。
今まで、食べていたはずなのに――ケガを負うなんて。そんな馬鹿な現象は信じられない。
「大丈夫ですか。バイクがあなたたちのほうに走りこんできて、そのままあなたのお友達は死んでしまいました。奇跡的にあなたは軽傷で済んでよかった」
救急隊員状況を説明された。正直記憶がなく、わからない。
もしかして、あの紫のジュースを飲めば生きられたのでは? 亡くなったという由紀子のことを思う。しかし、時すでに遅し。振り返っても食堂なんて見当たらない。そこは、シャッター街であり、取り壊し予定の土地らしい。
なぜ、ここの廃商店街に足を踏み入れてしまったのか今となってはわからない。経緯の記憶が曖昧だ。
そこには、近々大型ショッピングセンターが建設されるらしい。いまわ食堂という食堂が過去になかったのか調べたところ存在は確認できた。しかし、実際行ったことのある人を探すこともできずに今日まで過ごしている。かつての本当の名前は、今和食堂というらしい。しかし、見たのはひらがなのいまわだった。いまわというのはやはりあの世との境なのだろうか。
私は、もしかしたら、あのドリンクを飲まなければ――死んでいたのかもしれないと思った。
今和食堂という食堂について調べてみた。
早速町内会の高齢の人に聞いてもらった。彼女自身も真相が知りたかったらしい。
「ああ、あそこの食堂ね。たしかにおいしいトンカツ定食があったわね。あと、他にも色々あったよ。生姜焼き定食とかね。結構客はいたと思うよ」
80代の女性の話だ。ハキハキとした物言いで、衰えを感じさせない。
「あそこの主人は寡黙だけど真面目な人だったな。経営が悪化したという噂だけど、いつの間にか閉店して、いなくなったんだ」
80代男性の話だ。町内会の役員を何年もやっている長い町の住人らしい。
「今は何をしているのかわかりますか?」
「引っ越ししたみたいでな。今はわからないな。実家のほうに帰ったっていう話も聞いたような気がするな」
何人かに聞いたが、仲のいい人はいない様子で、その程度の情報しか得られなかった。
「たしか、奥さんが亡くなったんだよね」
もう一人の高齢の女性が話し始めた。
「奥さんとは仲良かったけど、病気になってね。子供もいない夫婦で寂しそうだったな。でも、絶品のトンカツは忘れられないね。野菜も新鮮だったし」
「そういえば、紫のジュースって販売していましたか?」
冴子が聞く。
「そういえば、奥さんが紫の健康に効くっていうドリンクを飲んでた記憶はあるね。旦那さんの手作りで、栄養豊富だとか言ってたよ。見た目はなんだか黒っぽくて美味しそうには見えなかったけどね」
「今和というのは今井和俊という店主の名前からとったらしいよね」
「町内会でもコミュニケーション役は奥さんで、旦那さんは無口だったね」
「でも、優しい人だったんだよ」
この言葉に、冴子はどきりとした。今、生きているのは今井和俊さんのおかげなのだと。
「ありがとうございました」
お辞儀をすると、その場を立ち去る。
ずっと心に引っかかっていた。多分、今井和俊さんはもうこの世にはいないような気がする。でも、あの世で、あの世の人のために定食屋をやっているような気がするのです。そして、私のような生死の間にいるものに、紫色のドリンクを与え生きる機会を与えてくれる存在なのではないでしょうか。きっと寡黙なお人好しなのではないかと思うのです。
由紀子はお金を払わずに逃げ出した。これはマナー違反だったのかもしれないと思う。いまわの際の最後のチャンスをみすみす逃してしまった。お金を払うのがルールだろう。
ルールを破るといいことがない。それは、生きている者でも死者でも同じなのかもしれないと。
あなたたちもいまわ食堂にたどりついたら、生死の間にいる可能性があるから気をつけないと。
ちゃんと一緒に食堂から抜け出してほしい。
怪奇体験のあと、普通に日常を送っている。
そういった人は案外たくさんいるのかもしれない。
現代はたくさんの人がネットで自由に思ったことを書くことができる。
実体験を述べることができる。
だから知らなくていいことを知ってしまうのかもしれない。
しらず駅は知らない間に奇妙な世界に連れていく何かを秘めた駅なのかもしれない。
駅は生きている。人が行きかう駅にいつのまにかひずみができて私たちははざまに埋もれてしまうのかもしれない。
想像以上の力が駅自体にあるのだと思うのだ。
しらずの意味はしらないうちに。
知らないうちに奇妙なことに巻き込まれるという名前の由来があるらしい。
しらず駅周辺の立地は昔からそういった奇妙な出来事が起こる不思議な駅らしい。
「いまわ食堂」というネットの書き込みについて。
OLである小野田冴子が同僚の片山由紀子と入った定食屋が普通ではなかった話だ。普通ではないというのは体感で感じたと本人たちは話している。
いつも通らない道を通った二人は、どこか夕食を食べられる場所を探していた。同僚であり、残業がえりだったため、おしゃれなレストランというよりはお腹を満たせる定食屋のような場所を求めていた。残業が長引き夜10時を過ぎており、腹が鳴ることを隠すことはできなかった。仲が良い女子二人ということで、がっつり白米が食べたいとかバランスの良いメニューの家庭料理を食べたいという気持ちでいっぱいだった。
街灯が少なく、暗い商店街はシャッター街らしく昔はきっと繁盛していたであろう痕跡こそあった。今は人通りが少なく経営自体していない元商店が立ち並んでいた。そんな廃商店街の一角にぽうっと温かな灯が灯っていた。二人は急いで開店している唯一の店に向かった。すると、「いまわ食堂」と古びた看板があり、どうやら営業中らしい。
「ラッキーだよね。こういう穴場のお店って実は美味しいっていうのが定番じゃない?」
「こういう店こそ、隠れた一品がありそう。普通の定食が激うまだったりするんだよね」
「わかるわかる」
「お腹ぺこぺこだから、ここにしよう」
二人は満場一致でここに決めた。
古びたのれんをくぐる。古いお店らしい壁にしみがついていたり、油のにおいがする。そして、同時に美味しいとんかつの香りもした。
不思議なのは、客は一人いるのだが、店員がいない。カツ定食のおいしそうな香りがする。店員がいない。どうにも不思議な感じだ。メニュー表があり、そこには一つしか種類がない。しかし、不思議なのは定食の値段が異様に安いということだった。1000円くらいするであろう定食が100円だ。
「もしかして、激安もってけ泥棒的なお店かな?」
冴子はラッキーという表情をした。
「でも、採算取れないよね。もしかして、原材料がやばい仕入先とか、賞味期限切れとかそういう闇のあるパターンかもよ」
少し後ずさりする由紀子。
「でも、話題作りのためにこういった企画がテレビに出ることあるよね。あと、ネットで拡散されやすいから、今の時期限定の割引セールだと思うよ」
冴子はあくまで前向きだ。
「でもさぁ、シャッター街というかほぼ廃商店街なのに、なんでここだけ残っているんだろうね。しかも一店舗だなんて」
疑いを隠せない由紀子。
「激安だからだって。半ば隠居してるのかもしれないし」
「でも、注文はどこからすればいいのかな」
「すみませーん」
何度か呼んでみるが反応がない。
呼び鈴もない。奥を覗くが、誰もいない。
「店員さんはどこですか?」
黙々と一人で食べている男性に聞く。サラリーマン風の男性はただ、黙々と食べており、表情がない。完全無視だ。ムカつくというより、不気味に感じる。なぜ不気味なのかを分析してみる。その人の表情はとても悪く、白目と黒目が逆の色をしていたのだ。
それに気づいて、店を出ようとしたら、店員らしき男性がやってきた。
メニュー表にはメニューはひとつしかない。オーダーをする必要もなく、店員は作り始めてしまったので、出るに出られない雰囲気になった。気まずい空間が漂う。しかたがなく一瞬立ち上がろうとした二人はそのまま席に座った。というのも、この食堂は大変狭く、客が見える場所で店員が調理をするシステムだ。そして、テーブル席というものがなく、一人で来る客が多いのかコの字型のテーブルに背もたれのない椅子が無機質に並ぶ。いらっしゃいませも、オーダーをとることも何もしない店員はどこか目つきが不気味に感じられた。よく見ると、その人も白目と黒目の色が逆になっていたのだ。カラーコンタクトを入れたわけでもないだろう。店主も中年で疲れた様子が感じられた。そんな人があえてカラーコンタクトを入れるはずはない。白い割烹着のような調理師の格好をしていたが、どこかが普通ではないと感じていた。
カレンダーが壁に飾ってあることに気づく。1970年のカレンダーだ。あえてレトロ仕様にしたいのだろうか。それとも――まさか1970年だというわけではないだろうか。なんてありもしないことを冴子は考えていた。たしかに、古びた感じに年代物のカレンダーは好きな人には、ぐっとくる要素があると感じる。
「ねぇ、あのカレンダー、わざとレトロな感じ出してるのかな?」
ささやく由紀子。由紀子も感じていたのかと冴子も思う。
「あのカレンダーはきっとオブジェだよ」
その後、ラックにある雑誌を見ると1970年7月発行となっている。これは、当時の雑誌を買ったにしては新しい。最近発行されたような気がするというのが本音だった。内容は、もちろん冴子たちの世代にはわからないような内容だった。まだ生まれていない頃の話しであり、芸能人も今はもう還暦を迎えた人が結婚したという内容が書いてあった。そして、今は解散して活動すらしていないアイドルの話もあった。こんなことがあるわけがない。古本屋で買ったとしたら、もっと保存状況が悪いはずだ。紙の色が色あせるとか、ボロボロでもおかしくはない。こんなにきれいな状態の紙。これは、今じゃない?
腕時計を見ると時間は先程と変わっていない。つまり時計が止まっているようだった。運悪く電池切れ? それとも?
「時計止まってるみたい」
「私も」
背筋が凍った。すぐにスマホを見るが、圏外になっている。
古びた珍しいピンク色の公衆電話が店内にはある。
そして、店内に時計はない。
トンカツが出来上がったようだ。見た感じは普通だ。
でも、これを食べたら、何かが変わってしまうのではないか?
例えば白目と黒目が逆の色になるとか。
あんなに空腹だったはずなのに、食べ物を口にすることが怖くなる。
でも、これを食べなければ、怒られてしまうかもしれない。見た目は美味しそうなカツだ。サクサクしていて、キャベツの千切りも新鮮な緑色をしている。仕方がなく一口食べる。すると、思いの外美味しい。しかし、一つだけ、普通のカツ定食にはないものがあった。紫色の黒色に近いドリンクだった。普通は水かお茶が定番だが、ここは違うようだ。
何かの健康飲料にありそうな毒汁のような色合い。まさに魔女が調合していそうなイメージだろうか。これはなんとなくまずいような気がする。食べ終わり、飲み物だけ残して帰ろうとした。二人共普段よりもかなり早いスピードで食べた。なぜならば、ここに長く滞在するのはやはり心地よいものではなかった。不気味というのが一番早いかもしれない。
「ちゃんと飲め」
店主の目が怖い。どうしよう、これは飲まなければ帰れないのではないだろうか。無視して、お金だけ置いて帰る?
「一体、何のドリンクなのですか?」
仕方なく、飲むふりをする。
「これを飲まないと、死ぬぞ」
威圧感がある。
客もちゃんと飲んでいるようだ。
そして、こちらを睨んでいる。
「紫色の原料が気になります」
「紫キャベツとぶどうの色だ」
目が怖い。
「本当ですか?」
由紀子はそのままお金を置くこともなく、立ち去る。
「待って!!」
「ごめん、後で支払うから」
由紀子はこういう時にビビりの精神を発揮する。他力本願なところがあるが、人柄は憎めないと思っていた。たしかに、不気味な店主に不気味な飲み物。これ、飲んだら死ぬとかないよね? お腹壊さないよね? 支払いの義務ができ、帰りづらくなる。仕方なく一気飲みする。覚悟の上だ。
案外美味しい味がする。
料金を支払い、そのまま帰宅しようと横開きの扉を開けると、しらず駅前に出る。
救急車が止まっていた。自分自身もケガを負っている。なぜだろう。記憶がない。
今まで、食べていたはずなのに――ケガを負うなんて。そんな馬鹿な現象は信じられない。
「大丈夫ですか。バイクがあなたたちのほうに走りこんできて、そのままあなたのお友達は死んでしまいました。奇跡的にあなたは軽傷で済んでよかった」
救急隊員状況を説明された。正直記憶がなく、わからない。
もしかして、あの紫のジュースを飲めば生きられたのでは? 亡くなったという由紀子のことを思う。しかし、時すでに遅し。振り返っても食堂なんて見当たらない。そこは、シャッター街であり、取り壊し予定の土地らしい。
なぜ、ここの廃商店街に足を踏み入れてしまったのか今となってはわからない。経緯の記憶が曖昧だ。
そこには、近々大型ショッピングセンターが建設されるらしい。いまわ食堂という食堂が過去になかったのか調べたところ存在は確認できた。しかし、実際行ったことのある人を探すこともできずに今日まで過ごしている。かつての本当の名前は、今和食堂というらしい。しかし、見たのはひらがなのいまわだった。いまわというのはやはりあの世との境なのだろうか。
私は、もしかしたら、あのドリンクを飲まなければ――死んでいたのかもしれないと思った。
今和食堂という食堂について調べてみた。
早速町内会の高齢の人に聞いてもらった。彼女自身も真相が知りたかったらしい。
「ああ、あそこの食堂ね。たしかにおいしいトンカツ定食があったわね。あと、他にも色々あったよ。生姜焼き定食とかね。結構客はいたと思うよ」
80代の女性の話だ。ハキハキとした物言いで、衰えを感じさせない。
「あそこの主人は寡黙だけど真面目な人だったな。経営が悪化したという噂だけど、いつの間にか閉店して、いなくなったんだ」
80代男性の話だ。町内会の役員を何年もやっている長い町の住人らしい。
「今は何をしているのかわかりますか?」
「引っ越ししたみたいでな。今はわからないな。実家のほうに帰ったっていう話も聞いたような気がするな」
何人かに聞いたが、仲のいい人はいない様子で、その程度の情報しか得られなかった。
「たしか、奥さんが亡くなったんだよね」
もう一人の高齢の女性が話し始めた。
「奥さんとは仲良かったけど、病気になってね。子供もいない夫婦で寂しそうだったな。でも、絶品のトンカツは忘れられないね。野菜も新鮮だったし」
「そういえば、紫のジュースって販売していましたか?」
冴子が聞く。
「そういえば、奥さんが紫の健康に効くっていうドリンクを飲んでた記憶はあるね。旦那さんの手作りで、栄養豊富だとか言ってたよ。見た目はなんだか黒っぽくて美味しそうには見えなかったけどね」
「今和というのは今井和俊という店主の名前からとったらしいよね」
「町内会でもコミュニケーション役は奥さんで、旦那さんは無口だったね」
「でも、優しい人だったんだよ」
この言葉に、冴子はどきりとした。今、生きているのは今井和俊さんのおかげなのだと。
「ありがとうございました」
お辞儀をすると、その場を立ち去る。
ずっと心に引っかかっていた。多分、今井和俊さんはもうこの世にはいないような気がする。でも、あの世で、あの世の人のために定食屋をやっているような気がするのです。そして、私のような生死の間にいるものに、紫色のドリンクを与え生きる機会を与えてくれる存在なのではないでしょうか。きっと寡黙なお人好しなのではないかと思うのです。
由紀子はお金を払わずに逃げ出した。これはマナー違反だったのかもしれないと思う。いまわの際の最後のチャンスをみすみす逃してしまった。お金を払うのがルールだろう。
ルールを破るといいことがない。それは、生きている者でも死者でも同じなのかもしれないと。
あなたたちもいまわ食堂にたどりついたら、生死の間にいる可能性があるから気をつけないと。
ちゃんと一緒に食堂から抜け出してほしい。
怪奇体験のあと、普通に日常を送っている。
そういった人は案外たくさんいるのかもしれない。
現代はたくさんの人がネットで自由に思ったことを書くことができる。
実体験を述べることができる。
だから知らなくていいことを知ってしまうのかもしれない。
しらず駅は知らない間に奇妙な世界に連れていく何かを秘めた駅なのかもしれない。
駅は生きている。人が行きかう駅にいつのまにかひずみができて私たちははざまに埋もれてしまうのかもしれない。
想像以上の力が駅自体にあるのだと思うのだ。
しらずの意味はしらないうちに。
知らないうちに奇妙なことに巻き込まれるという名前の由来があるらしい。
しらず駅周辺の立地は昔からそういった奇妙な出来事が起こる不思議な駅らしい。



