銀警察署の資料室は、深夜の静寂に包まれていた。蛍光灯の白光だけが、埃をかぶったファイルを無機質に照らしている。
奏丞(そうすけ)は今日も、皆勤賞の記録を更新するために机に向かっていた。デスクの上には、レイモンド=クワントル副署長の署名入り報告書が、幾層にも積み重なっている。

「……レイモンドさん」

(――パパ! これ見て! 車さん! 赤いの大好き!……展示会で、よく赤い車を見せてやったな……)

指先が署名をなぞる。白いインクの文字は、雪のように冷たかった。
昨日まで、彼はただの機械だった。白い髪、白い瞳、感情の欠片もない顔。人間部門のベテランである奏丞が唯一信頼していた上司。
その男が、昨夜――変わった。

夢の中で、レイモンドは長い髪を振り乱し、奏丞の胸にすがりついた。

「奏丞……助けて」

それは女の声だった。白い瞳が、涙で濡れていた。

(……娘と重ねるな、俺。早く覚めろ……!)

目覚めたとき、心臓が異様なほど激しく脈打っていた。
それ以来、レイモンドを見るたびに胸の奥が疼いた。男ではなく、女として――機械ではなく、ただの“女”として。

「副署長」

(――パパ! イチゴのアイス作って!……あの潰れた店の人気商品、何度再現させられたっけ……もう一度、作ろうかな……)

資料室の扉を開けると、白い軍服のレイモンドが立っていた。報告書を確認しに来たのだろう。

「奏丞。まだ残っていたのか」

冷たい声。しかし奏丞には、それがどこか甘く響いた。

「はい。皆勤賞のためです」

(――パパ! 私も一緒に!……あの時、連れていかなくて正解だった。あいつを傷つけたくなかったから)

「馬鹿らしい」

レイモンドが近づく。白い靴音が、静かな資料室に響いた。

「顔が赤いぞ。風邪か」

冷たい指先が額に触れる。だが、その冷たさが心地よい。

「……違います」

(もう一度だけでいい。娘に会いたい。もう一度だけ……)

「なら、何だ」

唇が震えた。言えない。
言ったら、この男は自分を殴るか、殺すだろう。
嫌いなものは“ホモ”と“女”と“恋愛”。それがレイモンド=クワントルという人間のすべてだ。

「副署長……俺は――」

(――貴方、早く帰って来てね……妻は入院中だ。夢菜、娘に迷惑をかけてないだろうか……早く帰りたい……)

「言え」

レイモンドの瞳が、初めて感情を帯びた。苛立ちか、それとも――。

「俺、副署長のことが……」

(――夢菜(ゆめな)へ。完治したら、心慈(みちか)と三人でどこかへ行こう。二人とも、本当に心の底から愛している)

声にならなかった。
奏丞は代わりにベルトへ手を伸ばした。そこに巻かれた細いロープ。点検用とはいえ、首を吊るには十分だ。

レイモンドの目が揺れた。

「奏丞、君、何を――」

「俺は、機械だった副署長を、女として見てしまった。それが罪なら、俺は死ぬ」

(――夢菜……どうか、植物状態だけは避けてくれ……!)

奏丞はロープを天井パイプに引っかけ、素早く結び目を作った。
レイモンドは動かない。ただ、その様子を見つめていた。

「レイモンド」

(――心慈……お願いだ。俺が死んでも、生きろ!)

その名を呼ぶと、レイモンドの肩がわずかに震えた。

「僕の名前を、呼べ」

奏丞は微笑んだ。涙が頬を伝う。

「レイモンド……俺は、お前が好きだ」

(――心慈ああああああああああああああああああああ!!!!)

首にロープが回る。
次の瞬間、白い手が奏丞の腕を掴んだ。

「馬鹿野郎!」

声が震えていた。冷酷無惨な副署長の声が――初めて、人間らしく揺れた。

「死ぬな。僕が……僕が許す」

ロープが緩む。奏丞の身体が、白い腕に抱き寄せられる。白い髪が、頬に触れた。

「僕は、女が嫌いだと思っていた」

耳元で、掠れた声が囁く。

「でも、君の中の僕は……違った。奏丞、君は僕の部下だ」

奏丞は嗚咽を漏らし、レイモンドの胸に顔を埋めた。
その瞬間、彼女はもう機械ではなかった。
資料室の薄光の中、二人の影がゆっくりと重なった。

――銀警察署の歴史で初めての“愛”だったのかもしれない。