桜月夜に、言葉よりも強く君を抱き締めて。

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 翌日、華澄高の校内は三連休明けだからか、週末から長い夏休みが始まるからか、どこか緩慢なムードが漂っているように感じられた。
 今日は琉唯がお父さんに会いに病院に行っているらしく、昼休みは部室に行けないと連絡がきていた。
 昨日、蝶野さんにたっちゃん家まで車で送ってもらった僕は到着した頃には眠ってしまい……。
 蝶野さんにお姫さま抱っこされ、たっちゃんの家まで運んでもらっていたらしい。
 らしいというのは僕が目覚めた時には今日の朝になっていて記憶がないからだ。
 僕が帰宅したら琉唯に連絡するって話だったのに、それも反故にしていて、蝶野さんが琉唯に僕を家まで送り届けたと連絡してくれていたという。
 朝起きて、慌ててシャワーを浴びて登校時間には間に合ったけれど……。

 「優陽、ちょっと来て」

 昼休み、映像研究部の部室に向かおうとしていた僕の教室にたっちゃんが訪れて、僕は人気のないアネックス館との連絡通路付近まで連れて来られた。

 「何で一条琉唯のマネージャーが優陽を送ってきたわけ?」

 たっちゃんがどこか不機嫌そうな表情で僕に尋ねてくる。
 美織さんに聞いたのか、昨晩たっちゃんも蝶野さんに対応したのか、たっちゃんは今日も陸上部の朝練で顔を合わせていないからわからない。

 「友だちと会うから帰るのが遅くなるって母さんに説明してたんだろ? 優陽はいつの間に、あの一条琉唯と友だちになってたんだよ」
 「友だちっていうか……」

 映像研究部の部室で時間を共有する仲……ではあるけれど、琉唯が部室に来ていることは秘密だから例えたっちゃんにも言えない。
 思えば部室以外の場所で琉唯とちゃんと一緒だったのは昨日が初めてだ。
 昨日の蝶野さんに彼氏がいる話が頭の中で再生されて、妙に現実味を帯びてきて。
 僕は琉唯のことが好き……なのか?
 それも恋愛感情として。
 琉唯と出会ってから翻弄されてきた初めての感情に、あえて名前をつけるとするなら、”恋”が一番ふさわしいのかもしれない。
 琉唯が僕を見ていないってわかるから、苦しくて、逃げたくなるのに、傍に居たくて、触れてほしくて……。
 ――咲良菜緒じゃなく桜庭優陽を見てほしい。
 僕は自覚できてきた感情の正体に戸惑い、頬を熱で染め上げた。

 「優陽、どうした? 体調悪い?」
 「そうじゃなくって。えっと琉唯とは……」
 「琉唯? 優陽って一条琉唯を呼び捨てにする仲?」
 「――桜庭優陽!」

 たっちゃんとの会話のやりとりに何の遠慮もなく飛び入りした女性の声。
 昨日、病院でも会った滝川ノアさんだった。
 腕を胸の下で組み、僕に視線をロックオンしながら細長い足を交互に前に踏み出し距離を詰めてくる。
 僕の名前、知られてるんだ……。

 「え? 滝川ノア?」

 たっちゃんの声は更に疑問が増えたと語っていた。
 ノアさんは僕からたっちゃんに視線を外す。

 「あなた、知ってる。セブファクの社長の息子でしょ? 七嶋って苗字でわかってたわ」
 「ま、そうですけど」
 「やっぱり。どおりで、この容姿だったら一般進学コースでもみんなかっこいいって騒いでるわけね。やんないの? こっちの仕事」
 「芸能界ってことですか? 興味ないんで」
 「ふーん。もったいない。こんな整った顔してるのに。シムプロ入ったら? セブファクより派手に稼げると思うわよ」
 「だから興味ないんで」

 ノアさんはストーンがついた派手な指先でたっちゃんの頬を撫でる。
 初対面とは思えない距離の詰め方と高圧的な態度だった。

 「爪、痛いんで。触らないでもらえます?」

 それに全く動じないでマイペースを貫けるたっちゃんも肝が据わりきっている。
 ノアさんはそんなたっちゃんに機嫌を悪くするかと思えば、そんな気が小さくもないようで、たっちゃんに添えた指を離しつつ艶美に微笑みかけた。
 やっぱり、僕はノアさんが苦手だ。

 「昨日ぶりね。桜庭優陽」
 「……はい」

 僕とそんなに身長が変わらないけど、足を開いて腕組みをしているからか目線が下がって睨めあげられているような強い視線を送られる。

 「昨日から思ってたけど、何かパッとしない地味な子よね。どうして琉唯はあなたと”トモダチ”になったのかしら?」
 「それは……」

 遠慮なんて一切ない物言いが僕に突き刺さってくる。

 「普通、友だちだって容姿で選ぶでしょ? ノアは絶対ダサい子を自分のSNSになんかあげたくないし」

 インフルエンサーのノアさんの感覚だと友だちも自分を飾るアクセサリーのひとつなんだろうか?
 ノアさんの”普通”が僕とは違いすぎるし、きっとわかりあえる日は来ないだろう。

 「さっきから優陽に対して失礼すぎませんか?」

 ノアさん相手でも態度を変えず、たっちゃんは怒気が混じった声で言った。

 「失礼って礼儀を欠く振る舞いってことよね? だったらノアは誰からも失礼なんて言われる筋合いはないと思うけど。礼儀が必要な相手なんてノアにいないから」

 ノアさんも全く動揺するって言葉を知らない。
 まさに女王様の風格があった。

 「ま、パパがセブファクの社長や所属タレントとは懇意にしてるから今日は見逃してあげる。眠いから保健室に睡眠とりにいくところなの」

 ノアさんは軽やかに手を振ると、本館のほうへと歩いていく。
 保健室のベッドでさえノアさんは自由に使えるということなのだろう。

 「ノアが何で寝不足なのか、桜庭優陽にはわかるでしょ?」

 振り返ったノアさんは勝ち誇ったような愉悦の笑みを浮かべていた。
 それって琉唯と一晩一緒にいたから……。
 胸が怯えたように震え続けた。

 「滝川ノアって初めて会話したけど、噂に違わない女王様なんだな」

 ノアさんの後ろ姿が廊下の角を曲がり見えなくなると、ため息とともにたっちゃんが言った。

 「俺にはよくわからないけど、優陽は大丈夫なのかよ」
 「……うん」
 「一条琉唯にも滝川ノアにも優陽は近づかないほうがいい」
 「……」
 「セブファク所属の芸能人は父さんが人柄も見ていることもあって良い人が多いけど、芸能界そういう人間ばかりじゃないと思う。承認欲求の塊だったり、誰かを利用してまで自分の名前を売りたいやつだっている」
 「……」
 「優陽はそういう世界の人間には関わらないほうがいいと思う。その……咲良菜緒の隠し子だってこともあるし」

 たっちゃんは純粋に僕を心配してくれている。
 ノアさんがわざわざ僕に話しかけてきたのも忠告だ。
 ――琉唯に僕が関わるなと。