テスト前の放課後、橙は勉強を口実に翔也を避けるようになっていた。いつもなら調理室で二人きりの時間を過ごしていたのに、今は図書室や空き教室に籠もって、翔也の姿を見ないようにしていた。

「そぉすか、わかりました。テスト頑張ってください」

翔也君はいつもの明るい笑顔で納得してくれた。その素直さが、かえって橙の胸を締めつける。

昼休みも調理室には顔を出さず、廊下ですれ違うときも視線を逸らす。
翔也の気配を感じると、心臓が高鳴って、足早に別の方向へ歩いていってしまう。

(僕なんかが、翔也くんの気持ちに応えられるわけない……)

そんな言葉が、橙の胸の奥で何度も何度も反響していた。

自分は男で、相手も男で、それに翔也は後輩で――そんな理由を並べては、自分の心から目を背けていた。

けれど翔也は、変わらなかった。

廊下ですれ違うたびに笑顔で「また明日っす」と声をかけてくる。
橙がどんなに避けても、翔也の態度は一ミリも揺るがない。

その明るさが、その優しさが、かえって橙の心を苦しくさせた。 
翔也が距離を置いてくれたら楽になれるのに、彼は変わらず隣にいようとする。

ある日、金木犀がすっかり散った中庭。

ひとりでお弁当を広げていた橙のもとに、翔也が現れた。枯れかけた芝生を踏みしめる音が近づいてきて、橙は顔を上げる。

「先輩、寒くないんすか」

「あ、翔也君」

逃げようにも、ベンチの向こう側をふさぐように立たれてしまい、橙は固まる。 

翔也はいつものように柔らかく笑っていたけれど、その目はどこか真剣だった。

「……俺、先輩が笑ってくれるだけでいいんすよ。先輩がいいんっす」

ふいにこぼれたその言葉に、橙の胸がちくりと痛む。風が冷たく頬を撫でた。

「先輩」
翔也は呟くようにだが力強く橙を呼ぶ

「俺もテスト頑張るんで、終わったらご褒美ください。」

まっすぐな瞳。冗談みたいな口調。

でもそこに、嘘なんて一つもなかった。翔也は本気だ。橙の心が逃げ出そうとするたび、翔也の言葉がそれを引き留める。

「答えなくていいんで……また明日、っす」

そう翔也は寂しそうに優しい笑みを浮かべ校舎へ戻っていった。

橙は、自分の胸の奥が温かくなるのを感じた。
(翔也くん……)

また明日、と言葉を返せない自分が不甲斐ない

(僕、どうしたいんだろう……)

──そして迎えたテスト明け。

「見てくださいよ、俺けっこうやりました!」

差し出された答案の点数は、70点台、60点台がずらり。翔也にしては上出来の成績だった。

「やればできるんすよ!」

「す、すごいね……」

翔也の嬉しそうな顔を見て、橙も思わず笑みがこぼれる。こんなふうに素直に喜べる翔也が、橙は羨ましかった。

「先輩は?」

「僕、全教科平均九十点くらいだったけど」

これでは両親は納得しないだろう。
橙の家では、九十点台は「基本」でしかない。

「さすが先輩! じゃあ――約束、覚えてます?」

翔也の目がきらりと光る。
橙は一瞬、息を呑んだ。

「うん、ご褒美でしょ。僕にできることなら、なんでもいいよ」

軽い気持ちで答えたつもりだった。けれど。

「……先輩、そういうこと軽々しく言わない方がいいっすよ。特に俺以外には」

翔也の声が、わずかに低くなる。

「え? どういう意味?」

「あー、いや……」

翔也は照れ隠しのように頭をガシガシとかいた。その仕草がいつもより荒っぽくて、橙は不思議そうに首を傾げる。

「ど、どうしたの、頭かゆいの?」

「そーじゃなくて……その、ご褒美の話っす!」

そう言って翔也は一瞬、真剣な表情になった。喉がごくりと動く。何かを決意したような、そんな顔。

「お、俺と、ク……くっ……」

顔がみるみる赤くなる。普段あんなに堂々としている翔也が、耳まで真っ赤になっている。

「クック? 何か作りたいの?」

橙は首を傾げた。

「あ、いやそうじゃなくて……っ!」

翔也は一度目を閉じて、拳を握りしめた。

そして、深呼吸のあと、叫ぶように。

「俺とクリスマスデートしてください!!」

中庭に響いたその声は、たぶん校舎中に届いた。窓から覗いている生徒たちの視線を、橙は感じた気がした。

「へぁ?」

意味を理解した瞬間、橙の顔も真っ赤に染まる。心臓が飛び出しそうなほど激しく跳ねた。デート――翔也が、僕を、デートに――?

頭の中が真っ白になって、橙は言葉を失った。